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『ノロマ、死ぬなよ』〜毒舌カバンと最弱少年の英雄譚〜  作者: 塩とわかめ
第三章:壊れた空と、取り戻すための戦い
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第91話:大丈夫の顔

 渓谷を越えた先は——短い洞窟だった。


 岩壁の隙間から淡い光が漏れ出ていて、それに導かれるように奥へ進む。天井は低く、頭を少し屈めなければ当たる。壁面のあちこちに苔が光っている。足元は湿っていて、どこからか水の流れる音がしていた。微かに暖かい。世界の深部に近づいている、という感覚が——肌を通じて伝わってくる。


「この先が鍛冶場、ということでいいですか」


 アルトが振り返って確認した。長老から受け取った手書きの地図を見ながら。


「もう少し先よ。洞窟を抜けたらもう一つ空間があって、その奥が——」


 ミラの言葉が途切れた。


 アルトの右足が——一瞬、揺れた。

 膝が不自然に折れかけ、体が前に傾いだ。咄嗟に壁に手をついて持ち堪えたが——その動作自体が、いつものアルトらしくなかった。足元は常に安定していて、二歩先を見て歩く。それが——できていなかった。


「アルト?」


「大丈夫です。石に躓いただけで」


 振り返って笑った。何でもない、という顔。穏やかで自然な表情。——だが、ミラはその顔を見た瞬間に確信した。石に躓いたのではない。膝が一瞬抜けたのだ。力が入らなかった瞬間を、咄嗟に石のせいにした。嘘が自然すぎる。慣れている。この言い訳を——何度も使ってきたのだろう。


 ミラは——何も言わなかった。ここで問い詰めても、アルトは笑顔で否定するだけだ。だが——歩きながら、アルトの後ろ姿を観察し続けた。


 肩甲骨の左右差。右がわずかに下がっている。渓谷でバルを右手で構え続けた疲労が残っている。呼吸のリズム。普段より浅い。歩幅が五センチほど狭くなっている。首が微かに前傾している——これは眠気の兆候だ。


 渓谷の横断で、アルトは一番前に立っていた。バルを広げて風を受け止め、ユートが支えきれなかった衝撃を自分の体で吸収した。三十歩の渡り。一歩ずつ、全身で風を受け続けた。その蓄積が——今、体の端々に出ている。


 * * *


 洞窟の途中で休憩を取ることになった。

 渓谷の横断から一時間ほどしか経っていないが、全員の消耗が激しい。ケイスだけは座らず、「先を見てくる」とだけ言って、洞窟の奥へ歩いていった。あの細い体のどこに、と思うが——炉に近づくほど、足取りはむしろ確かになっているように見えた。

 ユートは壁に背中を預けて目を閉じていた。紋様が激しく明滅した反動で体が重いのだろう。素直に「疲れた」と言って座り込む。

 ミラも杖に体重を預けて座り、目を閉じている。魔力の消耗が大きい。二重基底波の分離と予測を三十分以上連続で行ったのは、想像以上の負荷だった。


 アルトは——座らなかった。

 壁に寄りかかって立ったまま、ノートを広げて次の行程を確認している。手元にはペン。目は地図に落ちている。表情は穏やかだ。疲れた顔をしていない——正確に言えば、疲れた顔を「していない」のだ。意識的に。


 干し肉の残りを出して——半分だけ齧り、残りをユートの隣に置いた。水袋を口に運んだが——唇を湿らせただけで蓋を閉めた。


 ミラは薄く目を開けて、それを見ていた。


 ——食べてない。水も飲んでない。


 食料の残りが少ないことは三人とも知っている。集落で多少の補給はもらったが、それも限りがある。アルトは計算しているのだ。残りの食料。残りの日数。ユートとミラの消耗度。——自分の分を削れば、二人の分が増える。


「アルト。食べなさいよ、もっと」


「食べましたよ」


「半分しか食べてない。しかも水を飲んでない。唇を濡らしただけでしょ。——あんた、渓谷の前からろくに食べてないでしょう」


「食料の残りが——」


「そういう計算を自分にだけ適用するのはやめなさい。あんたが倒れたら計算もクソもないのよ」


 ミラの声が尖った。苛立ち。だがそれは怒りではなく——心配が形を変えたものだ。心配を心配として出せないから、苛立ちになる。ミラの不器用さだ。


 アルトは——少し驚いた顔をして。それから、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた。


「大丈夫ですよ。僕は二年間こうやって旅してきたから。少食には慣れてるんです」


「慣れてるのと大丈夫なのは違うのよ。あんた——」


「……もう少し食べます。すみません」


 アルトが素直に干し肉をもう一口齧った。——それで終わり。素直に謝って、少しだけ食べて。それ以上は食べなかった。素直さが——逆に壁になっている。反発されるより、柔らかく受け流される方がずっと手強い。


 ミラは追及するか迷って——今は引いた。だが目は離さない。


「ちゃんと寝てる? 昨日——集落で、見張りを通しでやってなかった?」


「通しじゃないですよ。ユートさんに途中で替わりました」


 ユートが——薄く目を開けた。壁にもたれたまま。


「……替わってないぞ、アルト。俺は起こされてない」


 沈黙が落ちた。洞窟の中に水の流れる音だけが残った。


 アルトの笑顔が——一瞬だけ、固まった。嘘がバレた。しかし——すぐに取り繕う。


「あ——すみません。ユートさんの寝顔が気持ちよさそうだったんで、つい起こしそびれて。次はちゃんと——」


「お前——」


「大丈夫ですって。本当に。寝なくても動ける体質なんですよ」


 大丈夫。

 その言葉を——アルトは何回言っただろうか。この旅の中で。昨日も。一昨日も。もっと前から。「大丈夫」の笑顔は——いつも完璧で、いつも穏やかで、いつも同じ形をしている。


 ミラは——唇を噛みしめた。


 あの子の「大丈夫」は——壁だ。それ以上踏み込ませないための、優しい壁。仲間を心配させまいとする善意が——今は、あの子自身を追い詰めている。

 食事を削り、睡眠を削り、痛みを隠し、全部を一人で回そうとする。それが「善意」だから——余計にたちが悪い。悪意なら怒れる。わがままなら叱れる。でも善意は——否定できない。善意で壊れていく人間を止めるのは、世界で一番難しいことだ。


 でも——今のミラには、壁を越える力がない。「休め」と言っても、あの子は「大丈夫です」と笑うだけ。ミラが戦力として完全に復帰して、あの子の肩の荷を実際に降ろしてみせないと——あの壁は崩せない。


 ——待ってなさい。もう少しで、私の理論は完成する。


 ミラは杖を握り直した。渓谷の横断で得たデータがある。実戦で二重基底波の分離がどこまできるか——限界値を体感した。ここから先は、精度の向上と速度の改善だ。やるべきことは見えている。


 * * *


 休憩を終えて歩き出した時——バルが小さな声で言った。アルトの背中越しに、ミラに向けて。


『おい、トマト女』


「……なによ」


『ノロマの右膝。さっき歩き出す時、一瞬ぐらついた。右脚を庇ってる。渓谷で受けた衝撃が残ってるんだろうが——たぶん、あいつ自身は気づいてねぇ。痛みを無視する癖がついてて、痛い場所がわからなくなってるんだ』


「……見てたの」


『見てねぇよ。体が触れてるから——筋肉の動き方でわかる。右の太ももが張ってる。無意識に庇ってるせいで左に負荷がかかってる。このまま歩き続けたら、明日か明後日には左膝もやるぞ』


 ミラは——その情報を、頭の中に刻んだ。右膝。渓谷の衝撃。庇い癖。——加えて、食事不足、睡眠不足、精神的な張り詰め。全部が同時に進行している。


『お前に頼むしかねぇんだよ。俺もユートも——あいつに正面から物を言えない。あいつの壁を壊せるのは——お前しかいねぇ』


「……どうして私なのよ」


『お前が一番怒れるからだ。俺やユートが言っても、あいつは笑って流す。でも、お前が本気で怒ったら——あいつはちゃんと止まる。前もそうだっただろ』


 ミラは——答えなかった。だが、杖を握る手に力がこもった。


 洞窟の先から——温かい光が、強くなっていた。鍛冶場は、もうすぐそこだ。


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