第89話:お兄ちゃんは誰だ
集落での二日目。
朝の光が木々の隙間から差し込み、苔の上に鮮やかな緑の斑模様を描いていた。集落の空気は穏やかだ。結界の中は魔力が安定していて、ここ数日の旅で張り詰めていた体の緊張が少しずつほどけていくのがわかる。
アルトは朝一番に長老のもとへ行き、鍛冶場への道の確認と準備の打ち合わせに入った。ミラは集落の端にある古い石の祠を見せてもらい、刻まれた術式の文様を記録している。新理論の検証に使える資料が、ここには山ほどあった。
ユートは——やることがなかった。
折れた剣を膝の上に置いて、広場の端の岩に腰かけていた。妖精族の大人たちはユートに対して礼を失さない態度だったが、明確に距離を置いている。近づいてこない。視線は柔らかくなったが——まだ、心を開いてはいない。
仕方のないことだ。勇者の残滓を宿す人間に——複雑な感情を抱いているのだろう。エイルは妖精族にとって恩人であると同時に、結局は戻ってこなかった者だ。そして今、エイルの面影を宿したこの男が来た。嬉しいのか。悲しいのか。怒りか。——全部だろう。
ユートは石の表面を指で撫でた。苔が柔らかい。虫の声が聞こえる。こんなに穏やかな時間はいつ以来だろう。
——そこに、昨日の子供がまた来た。
「お兄ちゃん!」
妖精族の女の子。人間の年齢に換算すれば六、七歳に見えるが、妖精族の寿命は桁違いだ。実年齢は十倍以上かもしれない。だが振る舞いは——子供だ。完全に。
肩で切り揃えた淡い銀色の髪。耳は長く尖っていて、片耳の後ろに白い花を挿している。目は大きく、瞳の色は薄い翡翠。笑うと目が半月になる。
「……おはよう」
「おはよう! ねぇ、お兄ちゃん。名前なんていうの? 昨日も聞きたかったけど、じーちゃんに連れてかれちゃって」
「ユートだ」
「ゆーと? へんな名前。にんげんの名前って変だよね」
「お前も名前教えろよ」
「フィーナだよ。フィーナ! かわいい名前でしょ」
フィーナは屈託なく笑った。手には木の枝で作った小さな剣を持っている。枝の先端を石で尖らせた、子供の手作りの武器。
「ねぇねぇ。お兄ちゃん、剣使えるんでしょ? 戦うの? 強い?」
「まあ……まあまあかな」
「まあまあ? じゃあ中くらい? フィーナの方がつよいかな」
「そうかもな。木の剣なら、お前の方が強いよ」
「ほんと!? やった!」
ユートは——笑っていた。小さく。無理をしていない笑い方で。
フィーナの問いかけには裏も計算もない。ただの好奇心。「お兄ちゃんは強いの?」という質問に、エイルの影は映らない。勇者の残滓も。永い記憶も。子供は——ユートの中のそういうものを、一切感じ取れない。目の前の人間を、そのまま見ている。
「お兄ちゃんの剣、折れてるよ? 壊れてるの?」
「……ああ。壊れてる。直しに来たんだ」
「じーちゃんが直すの?」
「じいちゃん? 長老のことか?」
「うん。じーちゃん、すごいんだよ。何でも直せるの。フィーナの花瓶も割っちゃったけど、じーちゃんが直してくれた。あと、棚も直してくれた。あとね、カエルのぬいぐるみも——」
「花瓶と剣は——ちょっと違うかもな」
「えー? 同じでしょ。壊れたもの直すんだから」
ユートは——その言葉に、少しだけ考え込んだ。壊れたものを直す。花瓶も。剣も。——自分自身も? エイルの記憶に壊された自分も? 同じことだと言えるだろうか。直せるのだとしたら——どこの鍛冶場で、誰が直してくれるんだ。
……いや。この子供に聞くことじゃない。でも——子供の言葉は、時々、大人の理屈より深い場所に届く。
* * *
午後。フィーナはユートの傍に居座り続けた。
他の子供たちも、最初は遠巻きに見ていたが、フィーナの態度に釣られて少しずつ近づいてきた。男の子が二人。もう一人、年上の女の子が一人。年上の子は慎重で、少し離れた場所から座って様子を窺っている。
「ねぇ、お兄ちゃん。剣、見せて。折れてるとこ」
男の子の一人が恐る恐る言った。ユートは一瞬迷って——折れた刃を布から外して見せた。刃は途中から断ち切れたように折れている。断面から穏やかな金色の光が漏れている。
「わぁ……光ってる! なんで光ってるの?」
「きれい……触っていい?」
「光ってるとこは触るなよ。——こっちの柄なら、いいぞ」
子供たちが交代で柄に触れた。温かい、と口々に言った。金属なのに——体温のような温もりがある。
「この光、なぁに?」
「これはな——昔の人の力が、この剣の中に残ってるんだ。その力が光になって見えてる」
「昔の人? どんな人?」
「……優しい人だったらしい。強くて——でも、守るのが下手だった人だ」
ユートは自分でも驚くほど自然に、その言葉が出た。エイルのことを——初めて「他人事」として語った瞬間だった。混線ではなく。フラッシュバックでもなく。ただ——ユート自身が、エイルを「かつていた誰か」として認識した言葉。「守るのが下手」——それはユートの評価だ。エイルの自己認識ではない。ユート自身の目で見た、エイルへの感想。
「守るのが下手ってどういうこと?」
「うーん……自分のことを守るのが、下手だったってことだ。他の人を守るのは上手だったんだけどな」
「へんなひと」
「変な人だな。——でも、嫌いじゃない」
「お兄ちゃんは? お兄ちゃんは優しい?」
「どうだろうな。——あんまり優しくないかもしれない」
「嘘だ! 優しい顔してるもん! フィーナにはわかるよ!」
フィーナが断言した。根拠のない確信。子供にしかない、直感の力。大人が積み上げた理屈を全部飛び越えて、核心だけを掴む。
ユートは——何も言えなかった。ただ、頬が少し熱くなった。首筋の紋様が——穏やかに光っている。暴れていない。乱れていない。この子供たちの前では——残滓が、静かだ。
* * *
夕方。
ユートが子供たちに囲まれて木の枝で剣の受け身を教えているのを、アルトとミラが少し離れた場所から見ていた。フィーナが張り切って木の剣を振り回し、ユートが「もう少し脇を締めろ」と笑いながら言っている。
「……いい顔してるわね。ユート」
ミラが小さく言った。
「ええ。初めて見ます。ユートさんのああいう顔」
「あの子たちは、ユートの中にエイルを見ない。勇者の残滓も見ない。『お兄ちゃん』としてしか見ない。——それが、あの人にとってはたぶん一番のリハビリなのよ。誰にもジャッジされない場所で、素の自分でいられる時間」
「ミラさんは——観察力だけは落ちてませんね」
「だけは、って何よ。魔法もそのうち完全に戻るわよ。——にしても、あの子、案外子供の扱い上手ね。意外だわ」
フィーナがユートに花冠を載せようとして、ユートが困った顔で受け入れているのが見える。白い花を編んだ小さな冠。ユートの黒髪の上で——場違いに可憐だった。
『……つーかよ』
バルが小さな声で言った。
『あのガキども、ユートに懐きすぎだろ。あいつ絶対泣くぞ、別れる時』
「バル。お前、意外とそういうとこ見てるよな」
『うるせぇ。目がなくたって空気でわかるんだよ。……まぁ、いい空気だけどな。ここは。久しぶりに——嫌な匂いがしねぇ』
バルの声は——いつもの荒さが少し柔らかくなっていた。この集落の魔力が——バルの中の残滓を穏やかにしているのだろう。ここは安全な場所だ。妖精族の魔力に包まれて——残滓が、眠るように静まっている。
* * *
夜。
ユートが一人で座っていた。子供たちは親元に帰り、集落は静かになっている。木の家の丸い窓から漏れる苔の光が、夜の闇に点々と浮かんでいる。蛍のような光景だ。
折れた剣を膝に置いて——ユートは久しぶりに、穏やかな気持ちでいた。
「……あの子たちは——月を見るんだろうか」
無意識に呟いていた。あの丘で——ルーナと一緒に見た月のことを。フィーナの笑顔と——ルーナの笑顔が、一瞬だけ重なった。違う子だ。違う場所だ。でも——「きれいだね」と笑う笑顔には、同じものがある。
空は赤黒い筋に覆われていて、月は見えない。だが——雲の切れ間から、微かに白い光が漏れた。ほんの一瞬だけ。
ユートは——自分がユートであることを、今日一日、一度も疑わなかった。
フィーナに「お兄ちゃんは誰だ?」と聞かれて——「ユートだ」と即答できた。名前を。迷わずに。エイルの名が浮かびもしなかった。その一言が——今の自分にとって、とても大きかった。
「俺はユートだ」
静かに。自分に向けて。確認するように。
折れた剣が——微かに、穏やかに光った。まるで同意するように。




