第86話:壊された里
白い花の群生が途切れた先に——それは、あった。
最初に見えたのは、巨木の残骸だった。
立ったまま朽ちている古木。幹の直径は大人が三人腕を広げても足りないほどで、かつてはその内部をくり抜いて家として使われていた。だが今は——幹が真横に裂けて、内部が曝け出されている。窓だったであろう穴。階段だったであろう段差。床に散乱した木の器の破片。全てが風化し、苔に覆われ、蔦が絡みついている。
そして——焼け焦げた花畑の名残。地面が広範囲にわたって黒く変色し、草が再び生えているが、その下の土はまだ炭の色をしている。かつてここに咲いていた花の種類は、もう分からない。焼き尽くされて、灰になって、土に還った。
巨大な爪痕。石壁に深く刻まれた溝。あの時と変わらない——いや、あの時より、さらに朽ちている。時間だけが容赦なく過ぎたのだ。修繕する者は誰もいなかった。ここに戻ってくる者は、いなかったのだ。
「——ここは」
アルトの足が止まった。
初めて見る場所のはずだった。なのに——記憶が鮮明に蘇った。二年前、別の里で見たのと、同じ光景。魔族との死闘。ミラの炎が弾かれた衝撃。ユートの剣が障壁に跳ね返された感触。そして——ディアルの圧倒的な存在に打ちのめされた、あの夜のこと。
焼け焦げた花畑。朽ちた古木。深く刻まれた爪痕。違う場所のはずなのに——同じ里の写しのように、目の前にある。体が覚えている。あの時の恐怖が、まだ腕の奥に残っている。
「ここも——妖精族の、里だったのか」
ユートが低く言った。彼もまた——この光景に、覚えがある。剣が弾かれた感触。拳が震えた悔しさ。圧倒的な力の差に膝をついた屈辱。ディアルが無関心に去っていったあの背中。二年前のあの焼け跡と——目の前の焼け跡が、二重写しになって浮かんでいる。
ミラは無言で歩き回り、残骸を観察していた。古木の家の構造を手で確かめ、焼け跡の土を指で触り、地面に残った微かな魔力の波形を読み取ろうと杖を翳す。学術的な観察と——感情的な胸の痛みが、同時に走っている。
「……やっぱり。妖精族の里。建築様式も植生も間違いないわ。古木をそのまま建材にする技法は妖精族にしかできない。でも——住人の気配は完全になくなってる。残留魔力だけが——微かに、この土地に染みついてる」
「ここでも——同じことが、起きてたのか。生き残った妖精たちは散り散りになったんだろうな。二度と戻れないと思いながら——ここを出ていったんだろう」
ユートの声が重い。エイルの残滓が——微かに脈打った。エイルはこの里を知っている。焼かれる前の姿を。ここで暮らしていた妖精族の顔を。
三人は、崩れた広場のような場所に集まった。かつて花畑だったであろう場所。今は灰と雑草に覆われているが、地面の下にはまだ——妖精族が長い年月をかけて育んだ魔力が、かすかに脈動している。安らかな魔力。生活の中で自然に蓄積された、穏やかな力。
その時——バルの声が、変わった。
『——壊したのは、お前たち人間だ』
冷たい声。
バルの声帯から出ているが——バルの声ではない。もっと静かで、もっと古い。怒りというよりも悲嘆に近い。長い長い年月の果てに凝り固まった、どうしようもない哀しみ。滲むような痛み。
空気が凍った。
「バル?」
『……私たちはただ、ここで暮らしていただけだ。花を育て、木と語り、月の下で眠る。それだけの生活だった。隣の人間の村とも争うことなく——時には助け合い——静かに暮らしていた。それを——お前たち人間が壊した』
バルの布地が——微かに震えている。発している声の主は、バル自身ではない。残滓だ。ルーナの——あるいは、ルーナよりもさらに古い、妖精族そのものの記憶の残滓が、この土地に反応して溢れ出している。焼け焦げた花畑が——記憶を呼び覚ましたのだ。
『角があるだけで。耳が尖っているだけで。魔力を持っているだけで。——殺す理由になるのか。何も悪いことをしていないのに。ただ違うだけで——恐れて、憎んで、焼く。それが、お前たちの正義なのか』
声が——震えていた。怒りではない。諦めでもない。何百年も繰り返された暴力の記憶が——一つの声に圧縮されて、バルの口から流れ出ている。
ユートが——拳を握りしめた。首筋の紋様が激しく明滅している。エイルの記憶が共鳴している。この場所で起きたこと。焼かれる前の美しい花畑。古木の中で笑っていた妖精の子供たち。——全部を、エイルは知っていた。覚えていた。そして——守れなかったことを、今もなお悔いていた。
「バル——」
『私はずっと怒っていた。ずっと悲しんでいた。だから——だから私は——』
声が途切れた。その先を言いかけて——残滓が引き戻された。
バルの布地が激しく震え——突然、いつもの荒々しい声が戻った。
『——っ! くそ、くそくそくそっ! また出やがった! 俺の口から勝手に——なんで俺がこんな——!』
バルは震えていた。恐怖ではなく——今度は怒り。自分の中の残滓に対する怒り。勝手に口を動かされることへの屈辱と、それでも否定しきれない共感への苛立ちが、ぐちゃぐちゃに混ざっている。
『こいつの気持ちが——わかるんだよ。わかりたくねぇのに。こいつの怒りが、こいつの悲しみが——俺の中で暴れやがる。ここに来てから特にひどい。この焼け跡が——この土地の残留魔力が——こいつの記憶を引きずり出しやがる』
アルトが、バルの前にしゃがんだ。
黄色い布地に手を添える。震えが伝わってくる。激しい。今までで一番激しいかもしれない。
「バル。聞いてる?」
『……聞いてるよ』
「今のが全部お前じゃないことも——わかってる」
『……わかんねぇよ。俺自身にもわかんねぇ。さっきの怒りが——本当に残滓だけのものなのか。それとも俺自身も——この焼け跡を見て……怒ってるのか。この花畑が焼けたことが——悲しいのか。わかんねぇんだ』
「どっちでもいいよ」
『……は?』
「バルが怒ってるなら、それはバルの怒りだ。残滓の怒りが混ざってても——バルがここを見て悲しいと思ったなら、それはバルの悲しみだ。借り物でも偽物でもない。——昨日、ユートさんにも同じことを言ったけど。感情に偽物はないよ」
アルトの言葉は——昨夜の繰り返しだった。ユートにもバルにも——同じことを言っている。感情の出どころが混ざっていても。エイルの記憶でもルーナの記憶でも。今ここで、自分の中に生まれたものは——本物だと。
バルは——しばらく黙っていた。震えが少しずつ収まっていく。完全にではないが——波が引くように。嵐が遠のくように。
『……お前さ。いつもそうやって——俺やユートが崩れそうになると、すぐ飛んでくるよな』
「そうかな」
『そうだよ。——お前自身は、大丈夫なのかよ』
「大丈夫だよ」
アルトが笑った。いつもの穏やかな笑顔。
バルは——その笑顔の裏に何があるか、布地越しに感じ取っているはずだった。背中の筋肉の張り。心拍の微かな乱れ。「大丈夫」と言う声の、ほんの少しの空虚さ。——だが、今は追及しなかった。
* * *
廃墟の端。崩れた石壁の陰で、ミラが杖を地面に突き立てたまま長い時間目を閉じていた。
探知魔法——ではない。もっと繊細な魔力の読み取り。この土地に浸み込んだ残留魔力の、何百年分もの層を一つずつ剥がすような作業。他の三人が感情の嵐と向き合っている間——ミラは、知性で嵐と向き合っていた。
長い集中の後——ミラが目を開けた。疲労で目の下に隈ができているが、瞳は鋭い。
「……見つけた。かもしれない」
「何を?」
「この土地の魔力の乱れ方に——規則性があるわ」
全員がミラを見た。
「この里の残留魔力は何百年分も蓄積されてる。妖精族の生活が——花を育てて、木を加工して、魔法で火を灯して——その全部の積み重ねが、地面の中に層になって沈んでるの。その蓄積された層が——今の世界の乱れと干渉して、独特の波形を作ってる」
ミラは杖で地面に図を描きはじめた。
「完全なノイズに見えるけど——層ごとの干渉パターンを分離すれば、元の魔力の流れが見える。つまり——乱れの下に、ちゃんと法則が隠れてる」
「それは——ミラさんの新理論にとって?」
「まだ確実じゃない。でも……もしこの干渉パターンの法則を掴めれば——乱れた魔力場でも精密に魔法を撃てる理論が、組めるかもしれない。いいえ——組む。必ず」
ミラの目に——火が灯った。焼け跡の中で見つけた、知性の炎。
「時間はかかるわ。でも——ここにヒントがあるのは間違いない。この土地に感謝しなきゃね。壊された里が——私に、答えの入口をくれた」
「なら、少し長めにこの辺りを探りましょう。急ぐだけが旅じゃない」
アルトがノートに書き込んだ。ミラの発見を——確実に記録するために。走り書きではなく、丁寧に。
壊された里は——傷跡と悲しみだけを残していたわけではなかった。
焼かれた花畑の下に、何百年分の妖精族の営みが眠っていた。その営みの記憶が——バルの中の残滓に痛みを与え、同時に、ミラに戦う力を取り戻すための鍵を差し出していた。
破壊と創造は——同じ場所に根を張っている。




