第87話:乱れの法則
里の跡地で三日間、ミラは没頭した。
日中はアルトとユートが交代で周辺の索敵と食料調達を担当し、ミラは崩れた石壁の陰に陣取って、朝から日没まで——時には夜を越えてまで——魔力の波形を記録し続けた。
杖を地面に突き立て、目を閉じ、微細な魔力の揺れを感じ取る。感じ取ったものを即座にノートに書き写す。数値と図形の羅列が、ページを埋めていく。一日でノートの半分を使い切った。
ミラの研究は、外から見れば地味な作業の繰り返しだった。杖を刺す。目を閉じる。何かを書く。また杖を刺す。位置を変える。また書く。だがその内側では——宮殿を設計するような、壮大な計算が回り続けていた。
「三層目の干渉……位相のずれが0.7。二層目との差を取ると——周期が見えてくる。六つの波が重なって、一つの合成波を……」
ミラは独り言を言いながら——誰にも見せない顔で、笑っていた。
久しぶりだった。こういう感覚。問題の構造が見え始める瞬間。複雑に絡み合った糸の、最初の一本を見つけた時の興奮。指先が勝手にペンを走らせる。頭の中で数式が回転し、組み替わり、新しい形を取る。
魔法学院の最年少研究者として、誰にも解けない理論を解き明かしていた頃の——これが、ミラの強さだ。炎を放つ火力ではなく。壁を張る防御力でもなく。世界の仕組みを読み解く、知性の力。
「ミラさん。水です」
アルトが水袋を差し出した。ミラは手を伸ばして受け取り——飲まずに横に置いて、また計算に戻る。
「飲んでください」
「……ん」
ミラが水袋の口を咥えたまま、ノートに何かを書き込む。器用な人だ。アルトは少し苦笑して——干し肉を皿代わりの木の葉に載せて、ミラの手元に置いた。ミラはそれにも気づかなかった。完全に没入している。
* * *
二日目の夕方。ユートがミラの傍に来た。
「ミラ。進んでるか」
「進んでるわ。でも壁がある。三つの層まではパターンが見えた。問題は一層目の基底波。これが不安定すぎて——計算が合わない」
ミラは髪をかき上げながら言った。目の下に隈ができている。寝ていないのだ——アルトと同じように。だがミラの場合は、意図的に削っている。やめられないのではなく、やめたくない。答えが近い気がするから。
「一層目って——世界そのものの魔力か」
「ええ。世界が元々持っている魔力の流れ。それが基底波。本来は安定しているはずなの。でも今は——何かに掻き乱されて、まるで嵐の中の海面みたいに暴れてる。その上に二層目、三層目が積み重なってるから——全体がめちゃくちゃに見える」
「原因は——」
「ルーナよ。ルーナの復活が、世界の基底波を上書きしてる。だから——」
ミラの目が鋭くなった。
「基底波は一つじゃない。本来の波と、ルーナの波。二つが同時に存在してるとしたら——」
その仮説は、この時点ではまだ確証がなかった。だが——種は植わった。
* * *
三日目の夕方。
ミラは二晩ほとんど眠っていなかった目を擦りながら——ふと、焚き火の炎を見た。夕食の準備でアルトが起こした火だ。薪が爆ぜ、炎が揺れている。
揺れ方が——不均一だった。風のせいもある。だが、魔力の濃いこの土地では、炎そのものが大気中の魔力の影響を受けて揺らぐ。その揺れ方が——ミラが三日間追いかけていた波形の、小さなレプリカに見えた。
「……待って」
ミラが目を見開いた。椅子代わりにしていた石から立ち上がり、焚き火に近づいた。
炎の揺れ。風の揺れ。地面から立ち昇る魔力の揺れ。杖が共鳴する振動。全部が——同じパターンの変奏だった。同じ根から枝分かれした、異なるスケールの振動。フラクタル構造。小さな波と大きな波が同じ形をしていて——スケールだけが違う。
問題は一層目の基底波が不安定に見えたことだが——
「二重基底か——!」
ミラが声を上げた。目が見開かれ、瞳に炎が映っている。
基底波そのものを一つと仮定していたのが間違いだった。基底波が二つ重なっていたのだ。世界本来の魔力の流れと、ルーナの復活によって上書きされた新しい魔力の流れ。この二つが同位相で重なって走っている。その干渉が見かけ上の不安定さを生み出していたが——実際には、二つとも「安定した波」なのだ。不安定なのは二つの合成結果であって、元の波そのものではない。
つまり——分離できる。
「ねぇ、ちょっと! 聞いて! わかったかもしれない!」
ミラがノートを掴んで走り出した。アルトとユートが振り向く。バルも声を上げた(『うるせぇ』)。
「世界の魔力の乱れは——基底波が二重になってたの! 本来の世界の魔力の流れと、ルーナが復活した時に上書きされた新しい流れ。この二つが同時に存在してて、干渉し合ってるから予測不能に見えた。でも——二つの波を分離して、それぞれの位相と周期を独立に計算すれば——合成波の振る舞いが予測できる!」
ミラは一気にまくし立てた。興奮して——ノートのページを指で叩きながら。数式が踊っている。
「つまり——ミラさんの魔法が、元通りに使えるようになるってことですか?」
「元通りじゃない。世界そのものが変わってるから、元に戻すのは不可能。でも——新しいルールに合わせた術式構成を作れる。乱れた魔力でも精密に制御できる、補正つきの術式を。二つの基底波の位相差をリアルタイムで計算して、合成波の予測値を術式に組み込めば——理論上は、どんな場所でも精密な魔法が撃てるようになる」
アルトの目が輝いた。ミラの言葉に嘘はない。これは理論の飛躍だが——根拠のある飛躍だ。
「まだ完璧じゃないわよ。実戦で使うには——補正の速度を上げないと。今の計算速度だと、たぶん三秒先の予測が限界。それ以上は変数が増えすぎて頭が追いつかない。あと実地テストが全然足りない。だけど——道筋は見えた」
「ミラ。お前は——諦めないんだな」
ユートが、自然な声で言った。気負いなく。特別な感情を込めず——ただ、目の前で起きた事実を認める、穏やかな声で。
ミラは一瞬、目を瞬かせた。ユートにこういう自然な声で話しかけられたのは——初めてかもしれない。以前は常にエイルの記憶越しに話していたのが——今は、ユート自身の言葉として出てきている。
「……当たり前でしょ。諦め方なんて知らないもの」
強がりではなかった。本心だった。ミラにとって、「解けない問題」は存在しない。「まだ解いていない問題」があるだけだ。それが——ミラの矜持であり、武器であり、存在証明だった。世界が壊れようが、魔力が狂おうが——解けない問題はない。ミラの知性が、そう告げている。
* * *
里を発つ日の夜。
バルが珍しく、静かな口調でミラに話しかけてきた。
『おい、赤い女』
「……なによ、ポンコツバッグ」
『お前——あの三日間、すげぇ集中してたな。正直、中身はわかんねぇけど。あの間、お前の周りの空気が変わってたのだけはわかった。食い物忘れるくらい何かに没頭する奴は——嫌いじゃねぇ』
「……あんたに褒められても嬉しくないわよ」
『褒めてねぇよ。事実を言っただけだ。——あのノロマも、お前のこと信頼してるぞ。あいつ、口に出さねぇけど——お前が理論を完成させるのをずっと待ってる。お前の魔法が戻ったら、あいつの荷が降りる。わかってるだろ』
ミラは——少し、黙った。
「……わかってるわよ。だから急いでるの。あの子が壊れる前に——私が先に完成させないと」
『急ぐのはいい。でも——お前も倒れたら意味ねぇぞ。メシはちゃんと食え。水も飲め。三日間で痩せたの気づいてるか?』
「あんたに言われたくないわね。食べたくても体がないくせに」
『フン。体がねぇから、お前らの代わりに口うるさくなるんだよ。それが俺の仕事だ』
軽口。だが——その奥に、不器用な心配が透けていた。バルの、ミラへの信頼。それは以前はなかったものだ。旅の中で——少しずつ、形を取り始めている。
妖精の里の跡地を後にする時——ミラはもう一度、焼け跡を振り返った。
壊された里は、ミラに答えの鍵をくれた。
この土地に刻まれた妖精族の営みの記憶と、世界の魔力の変容が——「二重基底波」という理論の種を、ミラの知性に植えた。
あとは——育てるだけだ。実地テストを重ね、精度を上げ、実戦に耐える術式に仕上げる。
それが——ミラの戦い方だ。




