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『ノロマ、死ぬなよ』〜毒舌カバンと最弱少年の英雄譚〜  作者: 塩とわかめ
第三章:壊れた空と、取り戻すための戦い
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第85話:月を見ていた子

 翌日の夜。


 山道の途中にある岩棚で野営していた。焚き火が小さく燃えている。薪が足りなくて、炎は低い。それでも、三人の顔を照らすには十分だった。

 夕食の干し肉を食べ終えて——しばらくの沈黙が続いた後、ユートが語り始めた。


 促されたわけではない。質問されたわけでもない。ただ——昨夜のアルトの言葉が、ユートの中で何かのたがを外したのだろう。「お前の気持ちは本物だ」と言われたことが——逆に、ユートに自分の根を掘り返す勇気を与えた。


「……俺の故郷は、大陸の西にある小さな村だった」


 静かに、ぽつぽつと。言葉を選びながら。声は低いが安定している。混線ではない。これはユート自身の記憶だ。


「山に囲まれてて、秋になると紅葉がすごくてな。村全体が赤く燃えてるみたいに見えるんだ。村の裏には丘があって、そこから見下ろすと——谷底まで赤が続いてる。子供の頃は毎年、その丘に登って眺めてた。何が楽しかったのか、今でもよくわからないけど——ただ、綺麗だった」


 アルトは黙って聞いていた。ノートは閉じていた。ペンも持っていない。今は記録する時じゃない。目の前の人の言葉を、そのまま受け取る時間だ。


「あの村に——ある日、女の子が来た。行き倒れみたいに。道端に倒れてたのを、村のばあちゃんが見つけて連れてきた。年は俺と同じくらいか、少し下。ぼろぼろの服を着てて——何日も食べてないみたいに痩せてた」


「……その子が——」


「ああ。ルーナだ。——もちろん、その時は何も知らなかった。名前すら教えてもらえなかったし、俺も無理に聞かなかった。聞いちゃいけない気がしたんだ。あの子は——何か大きなものから逃げてきた顔をしてたから」


 ユートの声が、少し柔らかくなった。記憶の中の風景を辿るように——目が遠くなる。焚き火の向こうに、別の時間が見えている。


「ばあちゃんの家に置いてもらって、少しずつ体力を取り戻して。俺は毎日、畑仕事の帰りにばあちゃんの家に寄って——最初は、あの子何も喋らなかった。目だけ動かして、こっちを見てた。怯えたような——でも、興味のあるような」


「それが——少しずつ、変わっていったんですか」


「ああ。三日目くらいかな。俺が丘に登ろうとしたら——後ろからついてきた。何も言わずに。俺も何も言わなかった。ただ二人で丘に登って、座って、空を見てた」


 焚き火が爆ぜた。赤い火花が闇に散る。


「そしたら、夜になって——月が出た。満月だった。綺麗な、まんまるの月。あの子がそれを見て——初めて、声を出したんだ」


「何て?」


「『きれいだね』って。——それだけ。たった一言。でもその声が——すごく……嬉しそうで。ずっと黙ってた子が、初めて感情を見せた瞬間だった。俺は——」


 ユートの声が詰まった。


「俺は——その一言で、あの子のことが気になって仕方なくなった。何者なのかも、どこから来たかも関係ない。あの子がもう一回笑ってくれたら——って、ただそれだけ思った」


 静かな告白だった。十五歳か、その頃の少年の——純粋で不器用な記憶。


「三ヶ月くらい一緒にいた。何をしたってわけでもない。畑の手伝いと、たまに山へ散歩に行って、夜になると丘に座って月を見る。あの子は——月が出ると嘘みたいに穏やかになった。月の光の下だと、表情が柔らかくて——時々、花を摘んで俺の隣に置いた。何も言わずに。それが——どういう意味だったのか、今でも分からない」


 ミラは隣で杖を抱え、静かに聞いていた。口を挟まない。ユートの話に口を出す権利があるのは——今はアルトだけだとわかっていた。ただ、聞く。全部を。


「それが——ある日、突然いなくなった。朝起きたら、ばあちゃんの家にもういなかった。布団が綺麗にたたまれてて——枕元に、小さな花が一輪置いてあった。いつも丘で摘んでた花と同じやつ。それだけ残して——消えた」


 ユートの拳が膝の上で握りしめられた。


「村のばあちゃんは何も言わなかったが、表情が暗かった。それから二日後に——魔族が村を襲った。村はほぼ壊滅した。生き残ったのは数人だけだ」


 焚き火の音だけが続いた。長い沈黙。


「今ならわかる。魔族があの子を捜しに来て、その過程で村を巻き込んだんだ。あの子が逃げ出した先が——たまたま俺の村だったんだ。あの子は——自分を追ってきた魔力の気配を感じたんだと思う。だから黙って村を出た。俺たちを守るために」


「……ユートさん」


「俺はずっと——ただ心配してた。あの子がどうなったかだけが気がかりで、それが俺が旅に出た理由の一つだった。村が壊れて、行く場所もなくなって——あの子を探すことだけが、俺を動かしてた」


 ユートは両手で顔を覆った。声が震えている。


「エイルと出会ったのは偶然だった。旅の途中で——命を救われた。エイルも、俺と同じことを言ったよ。『月が好きな子がいた』って。その子がルーナだと知って——世界が繋がった。偶然が全部、一本の線になった」


「エイルさんも——ルーナさんのことを」


「ああ。エイルはルーナの幼馴染だった。妖精族の里で一緒に育った。俺が会ったのと同じ子を——でもエイルは全部知ってた。あの子が何者か。何をしてしまったか。なぜ世界に恐れられているか。——俺だけが何も知らなかった。月が好きな子、としか知らなかった」


 手が顔の上を滑り落ちた。目が赤い。泣いてはいない——だが、限りなく近い。


「問題は——ここからだ。今の俺の中には、エイルの記憶がある。エイルが見たルーナの記憶。幼い頃の、花畑で笑ってるルーナ。妖精族の里で暮らしてたルーナ。迫害されて苦しんでるルーナ。暴走して——魔王と呼ばれるようになったルーナ。全部が——流れ込んでくるんだ」


「それが——苦しいんですね」


「苦しい。——俺自身のルーナの記憶と、エイルのルーナの記憶が、混ざるんだ。丘の上で月を見て『きれいだね』と笑ったあの子の顔に——魔王として世界を滅ぼそうとする少女の顔が重なる。穏やかに花を摘んでた手が——一瞬で、世界を壊す力を行使した手に変わる。どっちを見てるのか——もう、わからなくなるんだよ」


 ユートの手が、折れた勇者の剣の柄を無意識に握った。金色の光が穏やかに明滅する。剣もまた——この話に反応しているかのように。


「俺はあの子を助けたいのか。エイルの代わりに助けたいのか。——わからない。俺の気持ちなのか、エイルの遺志なのか。区別がつかない。——怖いんだ。もし俺がルーナを助けたいと思ってるのが全部エイルの感情だとしたら——俺って何なんだ、って」


 長い沈黙が落ちた。焚き火が弱まっている。薪を足す者はいない。暗くなっていく炎の中で——アルトが、静かに口を開いた。


「ユートさん。僕が思ったこと、言っていいですか」


「……何だ」


「もし——エイルさんの感情だけが残っていて、ユートさんの感情が一切ないんだとしたら。あの子を助けに行くのは、エイルさんの遺志を背負った『誰か』であって、ユートさんじゃないはずです」


 ユートが、息を呑んだ。


「——でも、今、ここで苦しんでるのは、ユートさんですよね。『俺の気持ちなのか』『俺って何なんだ』って苦しんでるのは」


「……」


「エイルさんの感情だけが残ってる人は、こんな風には苦しまないと思います。『自分』を疑うことができるのは、『自分』がいるからです」


 ユートが——目を見開いた。


「混ざってるのは、たぶん事実です。ユートさんが故郷で会った時の気持ちも、エイルさんから流れ込んだ気持ちも、ぐちゃぐちゃに絡んでて——今は、区別できない」


 アルトは、続けた。声は静かだった。


「でも、それは『ユートさんがいない』ことじゃなくて——『ユートさんが、エイルさんの感情ごと、あの子を抱えてる』ってことだと思います。今は、混ざったままで、それでもユートさんなんです」


「……」


「あの子を助けたいって気持ち——どっちか分からないかもしれない。でも、その気持ちを抱えて『助けに行こう』って決めるのは、ユートさんです。誰でもない、ユートさんが」


 ユートは——唇を噛みしめた。

 目頭が熱くなった。


 ——泣いていいんだ。これは借り物の感情じゃない。これは——俺の気持ちなんだから。


「……ありがとう。アルト」


「いえ。当たり前のことしか言ってないですよ」


「お前のその——『当たり前のこと』の言い方が、効くんだよ。参った。完全に参った」


 ユートが笑った。涙を拭いて——笑った。こわばっていた肩が少し降りた。背中が——ほんの少しだけ、柔らかくなった。


 * * *


 翌朝。


 山道を歩きながら、ミラが何気なく見回した。

 木々の間に——見慣れない花が咲いていた。小さな白い花。一つ一つは控えめだが、群れて咲いていると霧のように見える。朝露が花弁に載って、光を散らしている。


「この花——妖精族の領域に多い種だわ」


 ミラが立ち止まって、花に触れた。指先に微かな魔力の感触。自然に蓄積された、とても古い魔力。人の手で染めたものではなく——何百年もかけて大地に染み込んだ、妖精族の生活の名残。


「痕跡が濃くなってますね。妖精族の集落が——この先、近づいてるんじゃないでしょうか」


 アルトがノートに花の群生位置と方角を書き込みながら言った。


「この先の谷を下れば——もしかすると」


 バルが不意に声を上げた。


『……おい。この匂い。知ってる』


「知ってるのか?」


『知ってる気がする。でも俺の記憶じゃねぇ。もっと——古い。もっと遠い。何百年も前の——でも確かに、懐かしい匂いだ。土の中の、根っこの匂い。妖精が歩いた道の匂い』


 バルの声は——いつもの荒々しさが消えていた。静かで、どこか寂しげで。残滓が反応しているのだ。この土地に刻まれた、遥かな記憶に。


 三人と一つは歩き続けた。

 白い花が——道案内のように、ゆるやかに北東を指していた。


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