第84話:似ている背中
集落を発って二日後の朝。
山道は古い石段のある区間に入っていた。昨日からこの石段が続いている。苔と蔓に覆われて崩れかけているが、人の手で積まれたものであることは間違いない。かつてここを行き来していた者たちがいた。何百年も前——あるいは、それ以上前に。
石段を一段ずつ登りながら、ユートはアルトの背中を見ていた。
見ていた、というよりも——目が離せなかった。
先頭を歩く十六歳の少年。肩幅は広くはないが、背嚢とバルの重さを支えて安定している。歩幅は一定。段差が変わるたびに微調整しているが、リズムが崩れない。枝を払う手つき。足元を確認しながら瞬時に後方を気にする首の動き。全部が——何かと重なる。
——あの村での戦い方。仲間を死角に入れず、自分だけが矢面に立つ。地形と敵の数を全部計算して、負担を配分する。俺たちの弱点を、本人にバレないように補う。叱りもせず指摘もせず——ただ自然に、自分が多く背負う。
ユートは知っている。その動き方を。かつて——エイルが、やっていた。旅の中で。仲間を生かすために。自分の命を天秤の軽い方に置いて、重い方に全員を乗せる。微笑みながら。当たり前の顔をして。
首筋の紋様が——微かに脈打った。
エイルの残滓が反応している。「見覚えがある」と告げるように。あるいは——「懐かしい」と。
「ユート。どうかした?」
ミラが隣に並んだ。杖を右手に、左手で背嚢の肩紐を押さえている。歩きながらも術式のシミュレーションを頭の中で回し続けているはずだが、ユートの表情の翳りに気づいたらしい。
「……ああ。少し、考え事を」
「アルトのこと? 背中ばっかり見てたけど」
鋭い。ミラは——感情の機微を読む目が昔から突出している。数字や理論だけでなく、人の心の微細な揺れまで計測してしまう。
「あいつを見てると——時々、既視感に襲われる。エイルの記憶と混ざってるのか、俺自身の印象なのかわからなくなるんだ。あの背中を見てると——こう、胸の奥がざわつく。懐かしいような、苦しいような」
「エイルに似てるって?」
ミラの声が低くなった。慎重に。確認するように。
「……ミラは、どう思う」
「私は——エイルを直接知らないわ。あなたの口から聞いた話と、紋様を通じて出てきた断片的な記憶だけ。だから比較はできない。でも——アルトが無茶をする方向性は、あなたが話してくれたエイルの行動原理とよく似てるとは思ってる。自分を後回しにして仲間を前に出す。痛みを隠して笑う。全部一人で背負おうとする」
ミラは言葉を選びながら、石段を一段ずつ登った。
「ただ——似てるのと、同じなのは違うでしょ。アルトにはアルトの二年間がある。バルと二人で歩いた二年間が。その中で身につけたものが今のあの子を作ってる。エイルの焼き直しなんかじゃない。——あなたがそうやって混同してしまうのは、あなたの中のエイルがあの子を見て反応してるだけよ」
「わかってる。わかってるんだ。だが——」
ユートの声が詰まった。紋様が再び明滅する。抑えろ。これは俺の感情なのか。エイルの残滓が見せる幻なのか。どっちだ。どっちなんだ。
* * *
昼の休憩。開けた岩場に座って干し肉を齧っている時、アルトが地図を広げて次の行程を説明していた。
「この先、山の稜線沿いに北東へ回り込めば、谷底の水源地帯に出るはずです。妖精族の集落があるとしたら、水と森が豊かで、かつ人間の目が届きにくい場所でしょうから——」
ユートはアルトの横顔を見ていた。日の光の下で見る、十六歳の顔。頬はほんの少し痩けている。目の下に薄い隈がある。いつからだろう——気づかなかったのか、気づかないふりをしていたのか。だが目そのものは鋭く、明瞭で、地図を指差す手には剣だこがある。手の甲には古い傷跡が幾つも。二年間の痕跡だ。
——お前は、誰だ。お前を見ている、俺は誰の目で見ているんだ。
ユートの口が——勝手に動いた。
「アルト。お前は——エイルに似ているな」
空気が固まった。
ミラが息を飲む音が聞こえた。バルは黙っている。石段の向こうで鳥が鳴いた。
アルトは——一瞬だけ、手を止めた。地図を指差していた手が宙に浮いて、静かに下ろされた。
そして——ゆっくりと顔を上げて、ユートを見た。
「僕はアルトですよ、ユートさん」
否定ではなかった。抗議でもなかった。怒りも困惑もない。
ただ——自分の名前を、事実として述べた。穏やかに。当たり前のように。水は流れるし、太陽は昇るし、僕はアルトだ。それだけのことだと言うように。
ユートは——はっとした。
今、自分が何を言ったかを理解した。アルトの背中にエイルの影を重ねていたのは——ユートの混線だ。エイルの記憶が、アルトを通して過去を見ていた。ユート自身の目ではなく——借り物の視界で、目の前の少年を見ていた。十六歳の少年を——失われた勇者の代替品として見ていた。
「すまん。——今のは、俺の問題だ。お前に言うべきことじゃなかった」
「気にしないでください。ユートさんの中のエイルさんが、そう感じるのは自然だと思います。でも——」
アルトは地図をたたみ、ノートに何かを書き込みながら言った。表情は変わらない。傷ついた様子もない。ただ——事実を、丁寧に並べていく。
「僕は、エイルさんになりたいとも思ってないし、なれるとも思ってない。エイルさんがどれだけすごい人だったかは、ユートさんの話で知ってます。でも、僕は僕のやり方で——前に立ってるだけです。二年間で身につけたこと。バルと歩いてきた道。リアラと一緒にいた時間。——エイルさんとは違う根っこから生えてるんです」
「……ああ」
「でも、ユートさんがそう感じること自体は——嫌な気はしないですよ。エイルさんが大切な人だったから、その大切な人に似てるって言われるのはうれしいです。それに、それは——ユートさんの感情です。借り物じゃない。混線でもない」
アルトの言葉は、難しくなかった。理論的でもなかった。ただ——事実を静かに並べて、ユートの足元に置いた。拾うかどうかはユートに任せて。判断を強制しない。でも逃がさない。
ユートは——しばらく黙っていた。
拳を握って。開いて。また握って。紋様が穏やかに明滅している。
「……お前は、いつからそんなにしっかりしたんだ」
「しっかりしてないですよ。ただ——二年間、一人で歩いてたから。バルしか話し相手がいなかったから。色々考える時間だけは、山ほどありました」
「お前に言われると——なんか、こう——年下に諭されてる気分で——」
「言い過ぎですね、すみません」
「——いや、そうじゃない。ありがとう」
ユートが苦笑した。自嘲でも虚勢でもない——本当のユートの笑い方。ほんの少しだけ、借り物の記憶から一歩離れられた、そんな笑み。紋様の明滅が——少しだけ穏やかになった。
* * *
午後の道中。小規模な魔物との遭遇戦があった。
今度はアルトが「ユートさん、先に行ってください」と言った。
「え?」
「ユートさんの構えを見ておきたいんです。さっきの話もあるし——ユートさん自身の型を、もう一回確認しませんか。初動で一拍遅れる癖があるの、気づいてますか? エイルさんの型が浮きかけるから、そこを押し戻すのに時間がかかってる」
見抜かれていた。ユートが隠していたつもりの——戦闘の中の混線を。あの少年はちゃんと見ていたのだ。指摘するタイミングを待ちながら。
「……ああ。わかった」
ユートは直剣を構えて前に出た。四体の小型獣。
最初の一体に踏み込む瞬間——やはり、構えが揺れた。両手持ちの大振りな型。エイルの剣術。古の、もっと重い剣のための型。
——違う。これは俺の型じゃない。
ユートは歯を食いしばって、押し戻した。右手の握りを変える。片手持ちの機動型。自分の体格、自分のリーチ、自分の反射速度に合った構え。
一体目を斬り伏せた。速い。自分の型は——速いのだ。
二体目に踏み込む時——今度は、揺れなかった。自分の型のまま、踏み込んだ。迷いがない。三体目も同じ。四体目を仕留めた時——体が覚えた。この感触。この手応え。これが俺の剣だ。
「ユートさん、二体目からの構え、いい動きでした。あれがユートさんの型ですね」
後方からアルトが声をかけた。的確な観察。余計な解説はなく、ただ「見えた」ことを伝えるだけ。良い動きだった、と。敵の数は少なかったが——ユートにとっては、この四体の戦闘が何よりの収穫だった。
「……ああ。ありがとう」
「何がですか?」
「見てくれてたことが、だ」
* * *
夜。焚き火を囲んで座っている時、ユートが不意に口を開いた。
「……アルト。お前に一つ聞いてもいいか」
「何ですか」
「お前は——リアラのことを、どう思ってる」
アルトの手が止まった。ノートに書きかけていたペンが、文字の途中で止まっている。焚き火の炎が揺れ、アルトの横顔に影を落とした。
「……どう、って」
「いや、変な意味じゃない。ただ——あの子を追ってるお前の動機を聞いてみたかっただけだ。どうしてそこまで必死になれるのか」
アルトはしばらく黙っていた。焚き火の薪が小さく爆ぜた。夜の虫が鳴いている。風が山の木々を揺らす音が遠くに聞こえる。
「……リアラは——僕が二年間で、初めてできた友達です。バル以外の」
「友達」
「うん。それだけって言うと軽く聞こえるかもしれないけど。——あの子がいたから、俺は笑い方を思い出した。二年間、バルと二人だけで歩いてた時は——笑うことを忘れてた。笑わなくても生きていけるから。でもリアラと一緒にご飯を食べて、くだらない話をして、あの子が『大丈夫?』って聞いてくれて——」
アルトの声が少しだけ揺れた。ほんの微かに。
「あの子が『大丈夫』って言ってくれたから。俺は——まだ、大丈夫でいられてる」
ユートは——その言葉を、静かに受け止めた。
俺も同じだ。故郷で出会ったあの子——月を見て笑っていた女の子。名前も知らなかった。一緒にいた時間は三ヶ月だけ。それでも——あの時間が今でも、俺の中で一番穏やかな記憶だ。
あの子が魔王だったと知った時——世界が裂けるような気がした。でも今こうして追いかけている。救いたいと思っている。それは——エイルの代わりじゃない。
——俺自身の気持ちだ。
「……そうか。お前がそう言うなら——お前の気持ちは本物だな。嘘がない」
「ユートさんも——ですよね」
「ああ。——俺も、同じだ」
焚き火が揺れた。赤黒い空の下で——二人は、それぞれの大切な人のことを思っていた。形は違う。時間も違う。でも——「あの子を助けたい」と思う心は、同じ場所から来ている。自分自身の、取り替えのきかない記憶から。
ミラは焚き火の向こう側で寝たふりをしながら、全部聞いていた。目を閉じて。杖を握って。
——あの二人は、まだ前を向ける。大丈夫。
そう思いながら——ミラの頭の中では、新理論の術式が、一つの変数を加えて再構成されていた。「乱れた感情」と「乱れた魔力」は——構造が似ている。ぶれているように見えて、根っこには法則がある。
探せば——必ず見つかる。




