第83話:前に立つ者
山を越えた先に、小さな集落があった。
人口は三十人にも満たないだろう。石壁と木造の屋根を組み合わせた簡素な家が七つ八つ、谷間の緩やかな斜面に肩を寄せ合うように建っている。畑が少し。井戸が一つ。門と呼べるほどのものはなく、獣除けの柵が集落の外周をぐるりと囲んでいるだけだ。
柵は何度も補修された痕跡があった。新しい板と古い板が継ぎ接ぎになっていて、一部は蔓で無理やり結びつけている。——だが、その柵の外側に、新しい爪痕が幾筋も走っていた。木が裂けた断面はまだ白い。一日か二日前のものだ。
「最近、攻撃を受けたようですね」
アルトが柵の傷を指でなぞりながら言った。爪の幅から推測して——中型の獣系魔物。しかも複数の個体が同じ方向から来ている。統率された群れだ。
集落に入ると、住人たちが怯えた顔でこちらを見ていた。痩せた子供が母親の服の裾を掴んで隠れる。老人が薪を持ったまま立ち尽くしている。冒険者の装いを見て少しだけ表情が緩んだが、それでも——警戒は解けない。当然だ。世界がおかしくなってから、人を信じることも難しくなっている。
村長格の老人が杖をつきながら現れた。白髪が風に乱れ、目の下に深い隈がある。何日も眠っていないのだろう。
「あんたら、冒険者か。……悪いが、この村には依頼を出す金もない。ギルドに助けを求めたが、今はどこも人手が足りないと追い返されての」
「お金は要りません。通りがかりなので、状況だけ聞かせてください」
アルトの声は穏やかだった。威圧しない。急かさない。相手の目線に合わせて、少し屈んで話す。二年間の旅で覚えた、「怯えている人から情報を引き出す」ための間合いの取り方だ。声の高さ、姿勢、表情——全部を相手に合わせる。
老人が語ったところによると、一ヶ月ほど前から魔物の出現が急激に増えた。最初は一匹二匹だったのが、今では毎晩のように群れで柵を攻めてくるという。柵は何度も補修しているが、そのたびに破られる。若い男が六人いたうち、二人が負傷し、残る四人が交代で夜通し見張りに立っている。彼らの顔にも疲弊の色が濃い。
「特に三日前の夜は——十体以上が来ました。何とか追い返しましたが、息子が一人、脚をやられて……。もう次が来たら、持たないかもしれません」
「方角は」
「東から。いつも東からです。あの赤い空の——一番濃い方から」
アルトの目が細くなった。東——この先の丘陵を越えた方に、赤黒い筋が最も濃くなる地帯がある。魔力の乱れが魔物を狂わせて、この集落に押し寄せてきているのだろう。源流に近づくほど魔物は凶暴化する。この村は——その流れの中に、ぽつんと置かれた石ころのようなものだ。
「夜まで待ちます。今夜来たら——僕たちが対処します」
アルトの声には迷いがなかった。老人の目に——かすかに、水の膜が張った。
* * *
日が傾き始めた頃。
アルトは村の東側の地形を一人で歩き回り、ノートに詳細な地図を描いていた。斜面の角度。木の位置と太さ。岩場の高さ。柵の強度と破損箇所。風の向きと匂い。地面の硬さ。全部を計測し、一歩ずつ確認して記録する。
足で地面を踏んでは土の硬さを確かめ、木に手をかけて揺らし、体重を預けられるか確認する。石を蹴って転がり方を見る。しゃがんで草の高さを眺め、視線が遮られる位置を記録する。
『何やってるんだ、ノロマ』
バルが背中から言った。
「魔物が来る前に、地形を頭に入れてる。夜は視界が利かないから、今のうちに全部の足場を体で覚えておかないと。——ここから三歩で岩場。岩場を右に回ると窪み。窪みの出口は柵の破損箇所の正面。五歩先に太い木の根——」
アルトは歩きながら口に出して確認していた。暗闇の中では目が使えない。だから、足が道を覚えるように焼き付けておく。
『……相変わらずだな。地味なことをチマチマと』
「地味なことが命を分けるんだよ。お前が教えてくれたじゃないか。昔——まだ二人だけで旅してた頃に」
『俺か? そんなこと言った覚えねぇぞ』
「言ってないよ。でも、お前が魔物を喰う時にいつも『不味い』とか『上等だ』とか品定めしてたの覚えてる。あれも一種の観察だろ。相手を知って、自分の力との相性を見極めてから動く。——俺はお前を見て、それを学んだ」
『……一緒にすんな。俺のは美食家の舌だ。お前のは雑草を見分ける農民の目だろ』
「褒め言葉として受け取っておくよ」
アルトが笑った。バルが『褒めてねぇよ』と返した。いつもの掛け合い。だがその間も、アルトの足は止まらず、目は地形を記録し続けていた。
* * *
夜。
月は見えない。赤黒い空にぼんやりとした光がある程度で、地上はほとんど闇に沈んでいる。虫の声が途絶えていた。嵐の前のような静けさ。
アルトは村の東門の前に立っていた。剣を腰に提げ、観察ノートを閉じて懐にしまった。後ろにユートとミラが控えている。村の若い男たちには「家の中にいてください」と伝えてある。
「陣形の確認です。僕が前線で接敵。柵の外に出て戦います。ユートさんは二列目——柵の内側で、突破した個体を払ってください。ミラさんは——」
「広域魔法を使うのは危険ってことでしょ。わかってるわよ」
ミラの声に苛立ちが滲んだ。だが、刻は切迫している。ミラ自身も、ここで意地を張る余裕がないことは理解していた。
「探知の精度は低くても、方角と大まかな数の報告はできるわ。それと——もし個体が孤立したら、近距離の精密射撃なら多少はいけるかもしれない」
「それだけで十分です。ミラさんの目が一番広い。方角と数を伝えてくれるだけで、僕の動き方が格段に変わります。お願いします」
アルトの即答は、ミラのプライドに配慮しながらも、的確に役割を割り振っていた。探知が乱れていても、ミラの魔力感知は三人の中で最も鋭い。完璧でなくても——その「目」がいるといないでは全く状況が違う。
「バル。何か感じたら教えてくれ。お前の嗅覚も当てにしてる」
『……はっ。当てにしてくれて結構だけどよ、俺は今ただのお荷物だぞ。何の力もねぇ』
「お荷物じゃない。お前は僕の背中にいるから、僕の死角を嗅いでくれ。右後ろから来るやつは僕には見えない。でもお前なら匂いで——」
『……知らねぇよ。勝手に期待してろ』
バルの声は不機嫌だったが——断ってはいない。それが前よりもずっと穏やかな拒否であることに、アルトは気づいていた。
* * *
東の闇が、動いた。
「——来た」
ミラが杖を地面に突き立てた。目を閉じ、微かな探知の波を送る。乱れたノイズの中から——熱量の塊をかき分けるように。
「六……いや、八体。獣型。速い。地面を走ってる——四足。柵まであと三十秒——」
「了解。八体。ユートさん、左側に二体漏れます。昼間見た柵の破損箇所から入ってくるはず。そこをお願いします」
「わかった」
ユートが直剣を構えた。折れた勇者の剣ではなく、実戦用の直剣だ。構えは安定している——が、アルトは一瞬のずれを見逃さなかった。初動で構えが揺らぐ。大振りの型が浮きかける。それを押し戻して、自分の型を選ぶ。その一拍の遅れ。
——だから、先に正面の数を減らす。ユートさんに回る数を最小にする。
アルトは柵を飛び越えた。
闇の中に——赤い目が光った。八つの光点。グレイファングの群れだ。本来なら北方の山岳地帯にしか生息しない中型獣。それがここまで南に降りてきている。魔力の乱れが——ここまで生態系を狂わせている。
八体の群れが扇形に展開しながら突進してくる。先頭の個体は口から粘液を垂らし、目が完全に血走っている。正気を失っている。
アルトは剣に魔力を流した。淡い青白い光が刃を包み、闇の中に一筋の筋を描く。
昼間に歩いた地形が——頭の中に広がった。暗闇の中でも迷わない。足が道を覚えている。
一体目。正面から突っ込んでくる最速の個体を、半歩右にずれてやり過ごした。すれ違いざまに首筋を薙ぐ。手応え。骨に当たる感触。刃が通った。闇の中でも動作に迷いがない。足元は昼間に確認した固い地面。右足を軸に回転できる。
二体目と三体目が同時に来た。左の岩場に向かって走り、つられて追ってくる二体を——岩場の角で待ち構えた。先に回り込んだ方の前脚を低い斬撃で払い、体勢を崩したところで頭部に一撃。もう一体が飛びかかってくるのを、岩の角を利用して上方に跳び、着地と同時に背骨を叩き割った。
四体目、五体目。右側面から回り込んできた二体を、魔法剣の光で一瞬牽制した。獣の目が光に怯んだ隙に踏み込む。木の根がある場所——昼間に確認した。根に足を取られた一体を仕留め、もう一体は木の幹を盾にして背後に回り、心臓を穿った。
『右後ろ! 一体来てるぞノロマ!』
バルの声。死角からの奇襲を嗅ぎ取った。アルトは振り向かずに左に跳び——右後方から飛びかかった六体目が、元いた場所の空を切る。着地した瞬間を背中越しに斬りつけた。魔法剣の光が弧を描き、闇を裂く。
六体。二十秒。
残り二体が柵の破損箇所から入り込んだ。予想通りだ。
「左二体、行きます!」
「任せろ」
ユートが動いた。柵の隙間から飛び込んできた一体目を直剣で叩き伏せる。動きは鋭い——だが、やはり一拍遅れた。二体目がユートの横をすり抜けようとした。
アルトが既にそこにいた。
柵を回り込み、ユートの死角に入り込んだ二体目を、背後から魔力を纏った刃で仕留める。刃が獣の背骨を貫き、一撃で絶命させた。
最後の一体はいなかった。——ミラが仕留めていた。三十歩以内に孤立した個体に、精密な炎弾を一発。頭部に命中。
「ミラさん! 撃てたんですか!」
「まぐれよ。近かったから」
ミラの声は平坦だったが——杖を握る手が、微かに震えていた。嬉しさか、安堵か。久しぶりに——魔法で仲間を守れた、その感触。
「——終わりです」
戦闘時間、一分弱。
* * *
村人たちが柵の内側から、信じられないという顔で見ていた。
白髪まじりの老人が、口をぱくぱくとさせている。
「た、たった三人で……あの群れを……」
「怪我人はいませんか? 柵の修理、手伝います。あと、東側の柵はこのままだとまた同じ場所を狙われるので、明日の昼に補強の仕方を教えますね」
アルトは血のついた剣を拭いながら、事務的に言った。英雄然とした態度は微塵もない。ただ「やるべきことをやった」という顔。振り返りもせず、既に次の作業を考えている。
ユートは——黙ってアルトの背中を見ていた。
あの少年は、戦闘の前に全部組み立てていた。地形。魔物の動線。仲間の特性と弱点。ミラの精度が落ちている分を、自分の先行索敵で補い、ユートの初動の遅れを想定して最も危険な正面を引き受けた。バルの嗅覚を死角のカバーに活用した。ミラにも孤立した個体を任せることで、全員が「役に立った」と感じられる配分をした。
全部が——計算されていた。しかもそれを、誰にも気取られないように自然にやっている。
——似ている。
ユートの胸の奥で、エイルの残滓がかすかに脈打った。
仲間を守るために前に立ち、自分の命を道具のように使い、全員の穴を一人で埋める。それはかつてエイルがやっていたことだ。勇者として。仲間のために。ルーナを守るために。
その背中が——重なった。一瞬だけ。アルトの背中に、エイルの影が映った。
ユートは首を振った。拳を握って——自分に言い聞かせた。
——違う。あいつはエイルじゃない。あいつはアルトだ。二年間を一人で歩いてきた少年だ。あいつの強さは、誰かの焼き直しじゃない。
だが——胸の奥の既視感は、振り払っても消えてくれなかった。
* * *
夜明け前。
村人たちが焚き火を囲んで、温かいスープを三人に差し出してくれた。干し肉と根菜の入った素朴なスープ。器は欠けているが、中身は温かい。村にとっては貴重な食料のはずだ。
「ありがとう……本当にありがとう。あんたたちがいなかったら、今夜で終わりだった」
「いえ。——明日以降は、柵の東側をもう少し補強した方がいいです。あと、見張りは高い場所に。こっちのノートに——」
アルトが観察ノートの一ページを破り、簡単な地図と防衛の注意点を走り書きして渡した。柵の弱点。魔物が入りやすい角度。見張りの最適な位置。一晩の戦闘だけでなく——去った後のことまで考えている。
「お兄ちゃんすごいね」
村の子供が、アルトを見上げている。丸い目に焚き火の光が映っている。
「すごくないよ。やることをやっただけ」
アルトが笑った。穏やかで、年相応の笑み。
だがその笑みの裏で——右手の人差し指が、かすかに震えていた。戦闘中は微塵も感じなかった緊張が、終わった今になって体を遡ってくる。八体を二十秒で仕留めたあの集中力の反動が——指先に、小刻みな震えとして現れている。
それを——ミラだけが、見ていた。杖を握ったまま、スープを啜るふりをして——アルトの右手を、じっと。




