第82話:俺がやるから
谷を越えた翌日。山道は急勾配になり、道幅も狭くなった。
人の通った形跡がほとんどない。獣道に近い細い筋を、アルトが先頭で切り拓きながら進んでいる。枝を払い、足場を確認し、後続の二人が通りやすいように道を作る。蔦を剣で断ち、不安定な石を蹴り出し、滑りやすい苔の表面を足裏で擦って足がかりを刻む。
——当たり前のように。息をするように。
ユートとミラが続く。ユートは折れた剣を腰に提げ、周囲を警戒しながら歩いている。紋様の脈動は穏やかだ。剣を持ってからは、急激な暴走は起きていない。ただし——長時間の行軍で体力が削られると、明滅の頻度が微かに上がる。
ミラは歩きながら術式の構造を頭の中で組み上げ続けていた。杖を持つ手の指先が、時折ぴくりと動く。見えない設計図を空中に描いているのだ。新理論の骨格はできている。だが検証が追いついていない。この乱れた環境で実地テストをしなければ、机上の理論で終わってしまう。
「アルト。休憩にしない? もう三時間歩いてるわよ」
ミラが後方から声をかけた。
「もう少しだけ。あの尾根を越えたら開けるはずです。そこで——」
「あんた、朝から何も食べてないでしょ」
「食べましたよ。パン半分」
「半分で足りるわけないでしょう。あんた、昨日も夕飯少なかったじゃない」
ミラの声が尖った。些細なことだ。パン半分か一個か。たったそれだけの差。だが——ミラの目は、その差の裏側にあるものを見ている。
食料の残りが少ないことは、三人とも知っている。次の補給地まで何日かかるか、わからない。アルトは自分の食べる分を減らして、ユートとミラに回しているのだ。無言で。何も言わず。気づかれていないと思って。
だがアルトは振り返らず、黙々と枝を払い続けた。
「大丈夫ですよ。——あ、ほら、尾根が見えてきました」
話を逸らす笑顔。自然で、穏やかで——だから余計に、ミラは胸の奥が軋んだ。
* * *
尾根を越えると、視界が開けた。
谷間を挟んだ先に、森に覆われた丘陵地帯が広がっている。空気が変わった。湿っていて、甘い匂いがする。微かに花の香り。それも見知らぬ花の——どこか遠い記憶を呼び覚ますような、不思議な甘さ。植生も違う。見慣れない花や苔が岩肌を覆い、木の幹には蔓のように光る苔が巻きついている。夜になれば発光するのだろう。ここは——人間の領域とは、明らかに違う場所だ。
「——この空気。魔力の密度が変わってるわ」
ミラが杖を翳した。目を閉じて、大気中の魔力を読む。集中。額に薄く汗が浮かぶ。
「今までの山道と比べて——魔力が濃い。でも乱れてる。特に東の方角がひどい。波が大きくて、探知がまともに——」
ミラが術式を展開した。探知魔法。周囲の生体反応と魔力源をスキャンする。杖の先端に魔力を収束させ、波紋のように空気中に送り出す。
映像が——歪んだ。
ノイズだらけの映像の中に、複数の光点が見える。だが位置が安定しない。ちらちらと動き、消え、また現れる。霧の中で蛍を追うような不確かさ。
「……ダメね。この密度だと、正確な位置が掴めない」
「範囲を狭めれば?」
「やったわよ。百歩。五十歩。——三十歩まで狭めても、まだぶれる。これは……」
ミラの顔に、困惑が浮かんだ。唇を噛む。
「この場所に来てから、一段とひどくなった。私の魔法は——ここでは、ほとんど使い物にならないかもしれない」
重い沈黙が落ちた。風が木の葉を揺らす音だけが残った。
「ミラさん。あの新理論は——」
「まだ組み上がってない。骨格はできてるけど、検証と調整が全然追いついてないの。あと数日——いや、もっとかかる。ここの環境で実地テストしないと、使い物になるかどうかもわからない」
ミラの声は平坦だった。だが、その平坦さの裏に——悔しさが滲んでいた。天才と呼ばれた魔法使い。どんな場面でも最適解を叩き出してきた頭脳。それが今——世界の側が壊れたせいで、力を発揮できずにいる。
「じゃあ——当面は、僕が索敵を全部やります」
「アルト——」
「大丈夫です。これでも2年近く一人旅してたんですよ?近距離なら十分カバーできます。ミラさんは理論の組み立てに集中してください。戦闘が起きたら、僕が前に出ますから」
ミラが何か言おうとした。口が開いて——閉じた。
アルトは既に前を向いて歩き出していた。背中にバルを背負い、手には剣。軽快な足取り。不安の影など微塵も見えない——見えないように、してる。
* * *
午後。
丘陵の森の中を進んでいた時、魔物が出た。
今度は小型ではなかった。中型の甲殻魔物——ロックシェルが三体。灰色の硬い外殻を纏い、六本の脚で地面を掴みながら突進してくる。体当たりで木をなぎ倒しながら迫ってきた。地面が振動する。重い。一体一体が、大人の男四人分ほどの体躯を持っている。
「ユートさん、左のを! バル——」
『やれるかボケ。今の俺にゃ何の力も——』
「わかってる。じっとしてて。——ミラさんは下がって!」
「下がるって——私だって戦えるわよ!」
「今のミラさんの火力だと、精密な攻撃が必要なロックシェルには——」
言いかけて——アルトは口を噤んだ。言い過ぎた、と気づいたのだ。だが、すでに遅かった。
「……っ」
ミラの手が止まった。
アルトの言葉は、正しい。ロックシェルの弱点は甲殻の継ぎ目。厚い外殻の間に走る数センチの隙間。ピンポイントで炎を叩き込まなければ、硬い外殻に弾かれて終わる。今のミラの精度では——外す可能性が高い。外した炎が味方に飛ぶリスクまである。
正しい。だからこそ——残酷だった。
ミラは杖を下ろした。
それが——どれほど悔しかったか。唇を噛みしめ、拳を震わせながら。
アルトは前に出た。
剣を構え、一体目の突進を横に跳んでかわす。甲殻の隙間を目で追い——見つけた。右前脚の付け根、三センチほどの隙間。そこに刃を差し込み、魔力を流し込む。内部で爆ぜるように魔力が炸裂し、ロックシェルが内側から崩壊する。
続けて二体目。回転する体を利用して、甲殻の上を滑るように駆け上がり、頭部の接合部——首と胴体の間の隙間に一撃。魔法剣の光が青白く走り、甲殻の内側に雷のような衝撃を走らせた。
三体目はユートが対処した。直剣の一撃で前脚を叩き折り、足を止める。仰向けに転がったところを甲殻の腹面——最も柔らかい部分に、渾身の一撃を叩き込んだ。一瞬構えが揺れたが——今回は修正が早かった。エイルの構えが浮かびかけたのを、意識的に押し戻して、自分の型で仕留めた。
戦闘時間、二分弱。
「——終わりです」
アルトが剣を収めた。息は上がっているが、傷はない。両手に返り血がついている。それを服の裾で拭いながら、振り返る。
ミラは——立ったまま、何もできなかった自分を見つめていた。
杖を握る手が震えている。怒りなのか。悔しさなのか。それとも——自分への嫌悪か。かつて最強の火力と呼ばれた魔法が、今は——仲間のために使えない。
「ミラさん。大丈夫ですよ」
アルトが振り返って笑った。
「僕がやりますから。ミラさんは新理論に集中してください。ミラさんが理論を完成させたら——その時こそ、本当に頼りにしてますから」
優しい言葉。嘘はない。本心だ。アルトは心からミラを信じている。ミラの頭脳が新しい魔法理論を生み出すと——疑っていない。
だが——ミラはその言葉を聞きながら、胸の奥で何かが軋んだ。
——あの子は、全部引き受けようとしている。
索敵。先頭。戦闘のフォロー。夜の見張りの大半。道の確保。判断。食料の配分。全部。
ユートの代わり。ミラの代わり。バルの代わり。全員の分を——十六歳の少年が、一人で埋めようとしている。
善意だ。責任感だ。仲間を守りたい気持ちだ。
それは間違っていない。だが——
『ミラ。お前、何か言いたそうだな』
バルの小さな声。低い位置から。掠れているが、バルの声だ。
「……何も」
『嘘つけ。さっきから杖を折りそうなくらい握ってるくせに』
「……黙ってなさい、ポンコツバッグ」
『おう、黙ってやる。だが——あのノロマのこと、お前が見てないと、誰も見てねぇぞ』
ミラは答えなかった。だが——バルの言葉は、ミラが考えていたことそのものだった。あの子を止められるのは、自分の仕事を終わらせた後だ。魔法を取り戻して、あの子の肩から荷物を降ろせるだけのものを示して、初めて——「休め」と言える。
* * *
その夜。
アルトは当然のように、一番手の見張りに就いた。二番手はユート。ミラは「理論構築に集中しろ」と言われて、三番手。
ユートの紋様は、ここ数日、夜になると微かに疼いていた。深い眠りに引きずられる夜が、続いていた。
だが——アルトが二番手のユートを起こさずに、そのまま朝まで見張りを続けようとしていたことに、ミラは気づいていた。
深夜。ミラはそっと目を開けた。
焚き火の傍にアルトが座っている。観察ノートを膝に広げ、ペンを走らせている。時折、手が止まる。目を擦る。首を回す。また書き始める。
焚き火の光がアルトの横顔を照らしていた。十六歳の顔だ。二年前の臆病な少年の面影すらある。だが——目の下に薄い隈ができている。頬がほんの少し痩けている。いつからだろう。気づかなかった——いや、気づかないふりをしていた。
——あの子は、眠っていない。
ミラは目を閉じた。
今夜は——まだ、言わない。今の自分には、あの子を止める代わりに差し出せるものがない。魔法が使えないミラが「休め」と言っても、あの子は「大丈夫です」と笑うだけだ。その笑顔を崩すには——言葉じゃなく、力がいる。
だから——先に、自分の仕事を終わらせる。
新理論を完成させる。乱れた世界でも精密に撃てる術式を作る。そうすれば——あの子の肩から、荷物を降ろせる。
ミラは杖を握り直した。暗闇の中で瞳だけが燃えている。術式の構造を頭の中で回し続けた。一つひとつの変数を検証し、乱れた魔力の流れを逆算し、補正項を組み込む。地道で、果てしない作業だ。だがミラは——天才だ。必ず辿り着く。
* * *
朝。
アルトは何事もなかったかのように、最初に起きた顔をして朝食の支度を始めた。
パンを割り、水を汲み、火を起こし、地図を確認する。全部一人で。全部、当たり前の顔で。パンは——自分の分を半分だけ取って、残りをユートとミラの前に置いた。
「おはよう、バル」
『……うるせぇ。今日は起こすな。もう二度寝する』
「はいはい」
アルトが笑う。
その笑顔を見て——ユートが何かに気づいたように目を細めた。
「アルト。お前、昨夜——見張り、通しでやっただろ」
低い声だった。問い詰めるではなく、確認の声。
「え?」
「俺、いつもなら夜中に一度は目が覚める。——昨日は、朝まで起きなかった。あんなに深く眠ったのは、久しぶりだ」
アルトは——少しだけ目を伏せた。
「……ユートさん、疲れてましたから」
否定はしなかった。それが、答えだった。だが——追及はしなかった。今のアルトに「休め」と言っても、あの少年は頷いて、それでもまた同じことをするだろう。言葉では止まらない。止めるには——ユートが自分自身の問題を解決して、戦力として完全に復帰することが必要だ。
——あいつは、俺やミラの穴を、一人で埋めてるつもりなんだ。
ユートは折れた剣の柄を握り直した。
早く——この剣を直さないと。自分が安定しないと。あの少年が壊れる前に。
出発。
アルトが先頭に立ち、山道を切り拓く。
三人と一つの旅は——ここから、アルトを軸に回り始めた。
それは頼もしさの裏側にある、静かな崩壊の始まりでもあった。




