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『ノロマ、死ぬなよ』〜毒舌カバンと最弱少年の英雄譚〜  作者: 塩とわかめ
第三章:壊れた空と、取り戻すための戦い
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第81話:狩る側の正義

 谷間の道を下りかけた時、煙の匂いがした。


 焚き火ではない。もっと重くて、焦げた布と血の混じった匂い。風に乗って断続的に届いてくる。

 アルトが先頭で足を止め、手を上げた。指で三つ数えて——索敵の仕草。二年間の独り旅で身体に刻みつけた習慣が、危機察知を反射に変えている。


「——止まって。前方に人がいる。複数。七……八人。いや、もっといる。動いてない連中もいる」


 アルトの声は低く、平坦だった。感情を挟まない報告の声。だがその目は——何かを見つめて、険しくなっていた。


 木々の隙間から見下ろすと、谷底の開けた場所に——惨状が広がっていた。


 焼け跡。

 粗末な天幕が三つ、半分崩れた状態で骨組みだけを晒している。焼け残った布の端が風に揺れ、周囲の地面には黒い焦げ跡と、暗い色の血痕が点々と散っている。日用品が散乱している。木の器、壊れた水瓶、焼け焦げた毛布。そして——数体の亡骸。

 人型だったが、頭部に小さな角を持つ者。耳が長く尖っている者。肌が淡い青みを帯びている者。純血の魔族ではない。混血だ。人間と魔族の——あるいは、妖精族の血を引く者たち。


 そのそばに、灰色の布を巻いた男たちが立っていた。十人前後。全員が武器を構え、焼け跡を漁っている。死体を蹴って仰向けにし、角の有無を確認する者。天幕の残骸から物資を引っ張り出す者。声を上げて笑う者。


 アルトの拳が——白くなるまで握りしめられた。


「——魔族狩りだ」


 ユートが低く言った。声に感情を抑えた硬さがある。


「あの灰色の布。前に会った自警団の連中と同じ印だ。あの時は冒険者証を見せて通してもらったが——」


「あいつら——この野営地を襲ったのか。こんな小さな……子供の靴が落ちてる」


 アルトの声が硬くなった。

 下の野営地は、どう見ても戦闘キャンプではない。天幕の大きさ、残された日用品の種類。家族単位の避難キャンプに近い。戦う力など持たない者たちが、人里を追われて山の中に身を寄せ合っていた場所だ。


「逃げた奴がいる! 北の斜面だ! 追え!」


 男の一人が叫んだ。集団の半数が、斧や剣を握ったまま谷の北側に走り出した。


「……追うの?」


 ミラがアルトに聞いた。どちらの意味にも取れる言葉だった。追うべきなのか——それとも、見て見ぬふりをすべきなのか。


「——待ってください。今の僕たちが介入すると——」


 アルトの頭が、一瞬だけ戦術的に回転した。ユートの紋様を見られるリスク。バルの声を聞かれるリスク。ミラの魔法の不安定さ。追っ手は十人前後。戦えば勝てるだろうが、殺すわけにはいかない。相手は魔物ではなく人間だ。しかも家族を失った人間だ。


「あいつら、逃げてる相手を殺す気よ。待てるの?」


 ミラの声は静かだった。だが——目が据わっていた。


 アルトの歯が食いしばられた。ノートに書いた方針。面倒を避ける。目的に集中する。リアラに辿り着くまでの時間を一秒でも短縮する。それが——最適解のはずだ。

 だが——子供の靴が、目の前に落ちている。


「……行きます。全員は助けられないかもしれないけど、追われている人だけでも」


 三人は谷底に降りた。


 * * *


 北の斜面。

 追っ手の五人が、逃げる二人の影を追い詰めていた。若い女と、その腕にしがみつく子供。女の頭には小さな角。子供の耳はわずかに尖っている。混血だ。


 女は足を引きずっていた。右脚に切り傷がある。血が草を濡らしている。それでも——子供を庇うように体を前に出し、背中で隠している。母親なのだろう。


「やめろ! 子供まで殺す気か!」


 アルトが木々の間から飛び出し、追っ手の先頭の男の前に立ちはだかった。剣を抜いている。刃は光らせていない。威嚇のための構えだ。


「何だてめぇ。邪魔するな。こいつらは魔族だ」


「魔族だろうが、戦わない者を狩る理由は——」


「空を見ろ、ガキ」


 男が上を指した。赤黒い筋が走る空。木々の隙間から見えるそれは、地上に近づくほどに色を増しているように見える。


「あれを見てもまだ言えるのか。魔王が復活して、世界は割れかけてる。魔物は増え、封印は破壊され、町は襲われてる。——全部、魔族のせいだろうが。こいつらの同族が、こいつらの王が、全部やったんだ」


「だからって——この子供が何をした」


「子供は育つ。角のあるガキは、いずれ力を持つ。その前に潰すんだ」


 男の目に——憎悪があった。だが、それだけではない。恐怖。絶望。失ったものへの悲しみ。全部が混ざって一つの塊になり——暴力という形を取っている。正義の皮を被った絶望。


「俺たちは家族を失ってんだ。女房も子供も——隣の村が魔物に壊滅させられた時に。お前にその痛みがわかるか。あの空の下で家族を喰われる恐怖がわかるか。わかんねぇだろ。だから綺麗事が言えんだ」


 アルトは——言い返す言葉を持っていた。家族を失う痛み。大切な人を奪われる恐怖。知っている。知りすぎている。目の前で仲間を失い、リアラを連れ去られ、バルが沈黙し、ユートが冷たくなった夜を——知っている。


 でも——ユートの方が先に、崩れた。


「——っ」


 ユートが膝を突いた。直剣を杖代わりに地面に突き立て、片手で顔を押さえている。


「ユートさん!」


 首筋の紋様が明滅している。だが——暴走ではない。もっと静かに、もっと深い場所で——何かが揺れている。エイルの残滓が、目の前の光景に反応している。


「……やめろ……やめてくれ……」


 ユートの声が掠れた。目の焦点が合っていない。ここではない場所を——遠い過去の場所を見ている。


「あの子は——あの子たちは何もしていない。ただ、生まれた場所が違っただけで——ただ、角があるだけで——」


 その声は——ユートの声だった。だが、言葉の裏に、もう一つの記憶が流れている。

 ルーナが迫害された記憶。妖精族の里が焼かれた記憶。人間に恐れられ、憎まれ、排除された記憶。エイルの中に残っていたルーナの痛みが——今、目の前の光景と重なって、ユートの感情を根こそぎ引きずり出している。


「ユートさん。大丈夫。ここにいてください。——ミラさん!」


「わかってる!」


 ミラが杖を構え、追っ手たちとアルトの間に結界を張った。

 だが——結界の形が歪んだ。壁が途中で途切れ、半透明の膜が震えるように明滅する。完全な壁にならない。穴が空いている。


「……っ、やっぱり。この距離でも乱れが——」


 不完全な結界。だが——追っ手たちは怯んだ。杖から迸る魔力の波動だけで、ただの自警団には十分な威圧になる。結界の穴に気づくほどの魔法の知識は、彼らにはない。


「退きなさい。私たちはあんたたちと戦う気はない。でも——子供を殺すなら、止めるわ」


 ミラの声は冷たく、鋭い。天才魔法使いの気迫を、その声だけで纏っている。

 追っ手たちは顔を見合わせ、先頭の男が唾を吐いて——舌打ちした。


「覚えてろ。魔族の味方をする奴も——いずれ同じ目に遭うぞ」


 捨て台詞を残して、引き下がった。報復するほどの戦力ではないと判断したのだろう。


 * * *


 逃げていた魔族の女は、子供を抱きしめたまま小刻みに震えていた。

 アルトが声をかけると、女は怯えた目でこちらを見た。瞳が揺れている。信じていいのかどうか——判断する力すら摩耗しているような目。


「大丈夫です。もう追っ手はいません。——怪我を見せてください」


「……なぜ。人間が、私たちを助けるの」


「理由が必要ですか」


「……私たちは——何もしていない。ただ逃げていただけ。ただ……生きていただけ。あの人たちが来て——仲間はみんな——」


 女は泣いていた。声を殺して。子供はもう声も出ない。母親の服を握りしめて、顔を埋めている。


 アルトは黙って傷の手当てをした。清潔な布で血を拭い、薬草を当てる。手馴れた動作だった。こういう仕事も——二年間の旅で、幾度となくやってきた。


 ユートはまだ座り込んでいた。紋様の光は収まったが、顔色が悪い。ミラが横について、水を差し出している。


「……ユート。あんた、さっき——ルーナのことを思い出してたでしょう」


「……ああ。目の前で起きてることと、エイルの記憶が——同じだった。人間が魔族を追い詰めて、角があるというだけで殺す。ルーナの故郷で起きたこととまったく同じだ。——エイルの記憶が、俺にそれを見せた」


 ユートは拳を握った。骨が白く浮くほどに。


「ルーナが怒るのは——無理もないのかもしれない。こんなことが何百年も続いたなら。何百年も——角があるだけで、耳が尖っているだけで、殺されてきたなら」


「それは——」


「救済の理由が一つ増えた、ということだ。ルーナを『かわいそうだから助ける』んじゃない。この世界に——根っこから直さなきゃいけないものがある。ルーナを救うことは、その入口になる」


 重い言葉だった。

 だがアルトは——今はそこに踏み込まなかった。ユートの言うことは正しいかもしれない。だが、今の自分たちにできるのは——この旅で、目の前の人を一人でも多く救うことだけだ。世界の構造を変えるのは、自分たちではない。


「ミラさん。あの女性たちを、安全な方角に案内できますか? この先の山道に、小さな集落があったと思います」


「——そうね。今の私の探知でも、その程度なら」


 ミラが頷いた。だがその横で——杖を持つ手が震えていた。

 さっきの結界。半分しか張れなかった。もしあの追っ手たちがもう少し多かったら。もし相手が結界の穴に気づいていたら——防ぎきれなかったかもしれない。守れなかったかもしれない。


 * * *


 魔族の母子を最寄りの集落の方角に案内してから、三人は元の道に戻った。

 日が傾いている。木々の影が長く伸びて、足元が暗くなっている。重い空気が——まだ残っていた。


『……お前ら』


 バルが口を開いた。声は低いが、バルの声だ。


『さっきの——あの集落が焼かれたのを見て、俺も何か感じた。でもあの時のは——俺の感情じゃねぇと思う。中の何かが反応した。魔王の側……のような。人間に対する怒り。煮えたぎるような……怒り。それが——俺の腹の底からぶわっと来やがった』


「バル——」


『大丈夫だ。押さえ込んだ。……だが、気持ちわりぃのは確かだ。あいつらの——あの魔王が持ってた怒りが——わかるんだよ。なんでだかは知らねぇけど。角があるだけで殺される側の気持ちが——俺の中の残滓を通して、わかっちまう』


 誰も何も言わなかった。

 バルの中には、エイルと——ルーナの残滓の両方がある。勇者の悲しみと、魔王の怒り。その両方が、今日の出来事で揺さぶられた。


 夜の闇が降りてくる中で——ミラが不意に、杖を振った。小さな火を灯す。焚き火を作るために。

 だが——火は目標地点に落ちなかった。


 炎が、二歩離れた地面に着弾した。乾いた草が焦げ、白い煙が上がる。火は小さいが——狙いとは完全にずれていた。


「……やば」


 ミラが慌てて消火した。誰にも怪我はない。だが——ミラの表情に、今日初めてはっきりとした焦りが浮かんでいた。プライドの高い天才魔法使いの顔が——一瞬だけ、崩れた。


 アルトは何も言わず、自分で火を起こした。火打ち石で、手際よく。

 それが——ミラにとっては、何よりも辛いフォローだったことを、アルトはまだわかっていなかった。


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