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『ノロマ、死ぬなよ』〜毒舌カバンと最弱少年の英雄譚〜  作者: 塩とわかめ
第三章:壊れた空と、取り戻すための戦い
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第80話:お前はバルだ

 山に入って二日目の朝。


 空気が変わり始めていた。平地を歩いていた時と比べて、空気の中の魔力の密度が明らかに上がっている。息を吸うだけで、舌の奥にかすかに甘い味がする。妖精の領域が近い——とミラは言った。妖精族が暮らしていた土地の周辺は、長い年月をかけて大地に魔力が染み込み、特有の「場」を形成するのだと。

 だが、その場もまた——歪んでいた。


 朝露が苔むした岩に輝く中、アルトは背中のバルに話しかけた。二年間ずっとそうしてきたように——たとえ返事がなくても、たとえ返事が変でも。


「バル。おはよう。今日も天気は微妙だけど——」


『うるせぇ。朝からベラベラ喋るな。……つーか、お前の声で目が覚めるの何日目だよ。人の安眠を妨害するんじゃねぇ』


「お前、寝てるのか?」


『知らねぇよ。寝てんのか起きてんのかわかんねぇんだ。意識があったりなかったりする。つーか——体がねぇんだから寝るも起きるもあったもんじゃねぇ』


 バルの毒舌。聞き慣れた調子。

 だが、朝のうちはいつもこの口調が安定している。問題は——午後から夜にかけてだった。疲弊なのか、魔力の影響なのか。時間が経つほどに混線が増える。朝の明快なバルが、夕方には別の誰かの言葉を語り始める。その繰り返しが——少しずつ、全員の心を削っていた。


 * * *


 昼過ぎ。山道が古い石段に変わった。苔と蔦に覆われているが、人工物であることは間違いない。かつてここを歩いた者たちがいた。何百年も前——あるいは、それ以上前に。


「この石段、随分古いわね。少なくとも数百年は経ってる。接合に使ってる石材が、妖精族の建築様式に似てるわ」


 ミラが足元の石を撫でながら言った。魔法理論の構築を続けながらも、こういう観察は怠らない。知的好奇心が消えないのは、ミラの強さだった。


 アルトは石段の上方を見上げた。木々の隙間から——かなり上の方に、崩れかけた石柱のようなものが見える。


「ユートさん。この道、見覚えありますか」


「……いや。だが——」


 ユートは折れた剣の柄に手を添えた。微かな明滅。共鳴が——反応している。


「剣が、何かに反応してる。この先に……何かがあるのは、間違いないと思う」


 三人は石段を登り始めた。

 その時だった。バルの声が——変わった。


『……この道は、覚えがある』


 アルトが足を止めた。


「バル? この道を通ったことがあるのか?」


『わからん。だが——この匂い。土と苔の。湿った岩の匂い。どこかで……とても長い時間、歩いた記憶が——』


 バルの声が、いつもより低い。落ち着いている。荒っぽさが消えて——代わりに、静かで、どこか達観したような響き。ユートに似ている、とアルトは思った。いや——ユートに似ているのではない。もっと古い。もっと深い場所から出てくる声だ。


『——ああ。あの子と一緒に、このあたりを旅したことがある。まだ世界がもっと穏やかだった頃に』


「あの子?」


『月が好きな子だった。丘の上に座って、いつも空を見上げてた。俺は隣で——いや』


『——は? 誰の話だ? 俺は何を——くそ、また混ざりやがった!』


 バルの口調が一瞬で戻った。荒っぽく、苛立ちに満ちて。だが——その苛立ちの奥に、明確な恐怖がある。


『おい、アルト。今——俺、変なこと言ったか?』


「……うん。『あの子と一緒に旅した』って。月が好きな子がいたって」


『俺はそんなことは言ってねぇ。……いや、言った。言ったんだろうな。だが俺の言葉じゃねぇ。中の何かが勝手に——くそ。くそっ』


 バルの布地が激しく震えた。怒りではなく——怯え。自分の中に、自分ではないものがいる恐怖。自分の口が、自分の知らない言葉を語る恐怖。


『気持ちわりぃんだよ。自分の口で自分の知らない言葉が出てくるのは。前はこんなこと——前は俺は俺だけだった。核が二つあったけど、あれは俺の一部だった。使いこなしてたんだ。でも今は——抜け殻の中に、知らん奴の記憶がこびり付いてる。俺の意志なのか、残滓の反響なのか、区別がつかねぇんだ』


 声が震えていた。

 世界最強の魔道具を自称する傲慢なバッグが——こんなに怯えた声を出したのを、アルトは初めて聞いた。


『俺はバルだ。バルなんだよ。なのに——こいつらが……勝手に……』


「バル」


 アルトが立ち止まった。背中からバルを下ろした。

 両手で持ち上げて——正面から見つめた。黄色い布地。口金の金具。使い込まれて擦り切れた角。銀色の紋様はもう消えていて、ただの古びたバッグのように見える。

 だが——この手触り。この重さ。この温かみ。アルトの手が知っている。


「聞いてくれ」


『……何だよ』


「お前はバルだ」


 静かに。はっきりと。


『そんなこた自分でわかってるっての——』


「わかってるなら、それでいい。中に何が混ざってても、誰の声が口から出ても——お前が自分で『俺はバルだ』って言えるなら、お前はバルだ。それだけだよ」


 沈黙が落ちた。

 風が木々を揺らす音。遠くで鳥が鳴く声。石段の苔の匂い。


『……根拠はあんのかよ、それ』


「ない」


『ねぇのかよ!』


「でも、二年間お前を背負って旅してきたから。お前が黙ってた時も、声が出なかった時も、呼びかけて返事がなくても。ずっと一緒にいたから」


 アルトの声は、揺るがなかった。目に涙は浮かんでいなかった。泣いているのではない。ただ、真実を言っているだけだ。嘘や慰めではなく——二年間の日々が裏書きする、ただの事実。


「お前がバルかどうかは、俺が一番知ってる。世界中の誰より」


 バルは何も言わなかった。

 だが——布地の震えが、少しずつ収まっていった。激しい波が凪いでいくように。


『……クソガキが。偉そうなこと言いやがって。お前ごときに保証されなくても、俺様は俺様だっての』


「うん。知ってる」


『……うるせぇ』


 最後の「うるせぇ」は——いつものバルの声だった。怒りと照れと、言葉にできない何かが混ざった、バルだけの声。


 * * *


 午後の休憩。開けた岩場で荷物を下ろし、干し肉を齧りながら座っている時、ユートがアルトの隣に来た。


「さっきの——よかったな」


「何がですか」


「バルへの言葉。あれは、お前にしか言えない」


 ユートは折れた剣の柄を親指で撫でながら言った。


「俺も——似たようなもんだ。自分が誰かわからなくなる時がある。エイルの感情が混ざって、俺自身の意志なのか借り物なのか、区別がつかなくなる。さっきバルが怯えてたのと——同じだよ。俺も怖い。だから、ああやって『お前はお前だ』って断言してくれる奴がいるのは、たぶんすごく大きい」


「ユートさんにも、言いましょうか。ユートさんはユートさんだって」


「——ははっ。お前に言われると、何か照れるな。でも——ありがとう。言われなくても、お前がそう思ってくれてるのは伝わってるよ」


 ユートが苦笑した。だがその目は——少しだけ、安堵していた。怖くないわけじゃない。だが、怖がっている自分を認めてくれる人間がいること。それだけで、紋様の脈動がほんの少し穏やかになる気がした。


 ミラは二人の会話を少し離れた場所から聞いていた。杖の先で空中に術式の図を描きながら——新理論の骨格を組み立てている最中だったが、手が止まっていた。


 ——あの子の言葉。あの二人には効く。


 バルの恐怖を受け止め、ユートの不安を和らげる。十六歳の少年が、二十歳以上の二人の心を支えている。それは素晴らしいことだ。だが——あの子自身は、誰に「お前はお前だ」と言ってもらうんだろう。

 あの子の中にも、きっと「自分でい続けること」の重圧があるはずだ。二年間一人で戦い続けた少年が、今度は三人分の穴を埋めている。その重さに潰されそうな時、あの子は誰に助けを求めるのか。


 その思いを、ミラは飲み込んだ。今はまだ——言葉にする資格がない。自分の仕事を果たしていないミラには。


 * * *


 夕方。山道が開けた場所に出た。

 眼下に、広い谷間が見えた。谷の向こうには、さらに高い山々が連なっている。山肌に霧がかかり、夕日が紅く染めている。壮大で美しい景色だ。だがその美しさの中に——どこか歪んだものがある。空の赤黒い筋が、山々の輪郭に重なって蛇のように走っている。


『……あの先に、何かある』


 バルが呟いた。今度はバルの声だ。荒っぽいが、真剣な。


「匂いか?」


『匂いっていうか——感覚だ。あの向こうに、俺に関係があるものがある気がする。何かは……わかんねぇけど。遠くて曖昧だ。だが——確かに、ある』


 アルトはノートに書き込んだ。バルの感覚が指し示す方角。ユートの記憶が示唆する鍛冶場の位置。空の歪みが最も濃くなる方角。

 全部の線が——あの山の向こうで交差している。


「明日から谷を越えます。——近づいてきてるかもしれない」


 その夜。山の中腹で火を焚いていると、遠くの麓の方で複数の松明の光が動いているのが見えた。


「あれは——」


「人間だ。まとまった集団が、何かを追ってる」


 ユートの目が鋭くなった。夜間に集団で山を動く人間。狩りか——あるいは。


「魔族狩りか。この辺りまで活動範囲を広げてるのか」


「触らない方がいいわね。今の私たちが関わると——ユートの紋様を見られたら面倒なことになる」


 ミラの判断は正しかった。冷静で、合理的で、的確だ。だが——明日以降、避け続けられるとは限らない。街道から山に入ってもなお、人間の狂気は追ってくる。世界が壊れた時、最初に壊れるのは——人の心なのかもしれない。


 山の向こうに何があるのか。そこに辿り着けるのか。

 不安は消えない。だが——足は止まらない。


 アルトの横で、バルが小さく呟いた。


『……おい、クソノロマ』


「ん?」


『さっきの……ありがとう、とか。そういうのは言わねぇからな』


「知ってるよ」


『……ふん』


「でも、言わなくてもわかるから。大丈夫。——おやすみ、バル」


『……うるせぇ』


 虫の声が戻ってきていた。山の匂いがする。苔の匂い。木の匂い。星は見えないが、赤黒い空の隙間から——ほんの微かに、月の光が落ちていた。

 この夜だけは——静けさが、穏やかだった。


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