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『ノロマ、死ぬなよ』〜毒舌カバンと最弱少年の英雄譚〜  作者: 塩とわかめ
第三章:壊れた空と、取り戻すための戦い
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第78話:壊れたままの再出発

 バルが声を出した翌朝。


 空はまだ赤黒い筋に覆われていたが、木漏れ日だけは金色に輝いて森の地面に模様を描いていた。朝露が草を濡らし、靴を踏むたびにじゃりと音がする。空気は冷たいが不快ではない。山の匂い。土の匂い。どこかで鳥が一羽だけ鳴いている。世界が壊れかけていても——朝は来る。


 三人と一つは、北東街道に戻り、再び歩き始めた。

 昨日と同じ道を同じように歩いている。だが——空気が違った。昨日までの、全員がどこか息を詰めていた旅とは。バルが——たとえ不安定でも、たとえ声が小さくても——戻ってきた。それだけで、三人の肩がほんの少し下がった。


『おい。揺らすな』


 バルの声がした。掠れていて、途切れることもある。しかし紛れもなくバルの声だった。


「ごめん。でも背負わないと運べないだろ」


『背負うのは……許す。だが、こんなガタガタの道を歩くな。振動が直に来るんだよ。もっと……平らなところを選べ、ノロマ』


「見てわかるだろ、この道に平らな場所なんかないよ」


『じゃあ……飛べ』


「無茶言うな」


 何でもないやりとり。毒舌と文句。何の意味もない軽口。

 だがアルトの目尻が——少しだけ熱くなった。こういう会話が、どれだけ欲しかったか。二年間、返事のないバルに毎晩話しかけ続けてきた。「また明日な」と言い続けた。その「明日」が——今日、来たのだ。


 ただ——完全に元通りではないことにも、アルトは気づいている。


 バルの喋り方は以前ほど勢いがない。声量も足りない。早口で捲し立てるようなあの機関銃トークが出てこない。そして——時々、口調がぶれる。


『……あの崖の向こうに、確か……いや。何でもねぇ』


「バル? 何か思い出したのか?」


『思い出してねぇっつってんだ。……ああくそ、頭ん中がごちゃごちゃしやがる。前はもっとスッキリしてたのに。自分の考えてることが全部自分のかどうか——わかんなくなる時がある』


 バルは不機嫌にそう言ったが、声の底に苛立ち以外のものが混ざっていた。不安。あるいは——恐怖。自分の中の「ごちゃごちゃ」に、バル自身が戸惑っている。それはかつての傲慢で自信に満ちた「世界最強の魔道具」の姿とは——少しだけ、違った。


 * * *


 午後。

 街道が森に入りかけた場所で、気配があった。


「止まって」


 アルトが手を上げた。

 前方——木と木の間に、複数の影が動いている。こちらを観察するような位置取り。散開しているが統制が取れている。


 魔物ではない。動きが知的すぎる。足音の立て方が——訓練を受けた者のそれだ。


「盗賊か?」


 ユートが剣の柄に手を置いた。だがアルトは首を振った。


「違います。もっと装備がいい。動きに統率がある。——たぶん、自警団の類」


 林から出てきたのは、五人の武装した男たちだった。全員が胸に灰色の布を巻いている。統一された印——所属を示す目印だ。グレンフォードの衛兵が言っていた「魔族狩り」の連中と同じ印。


「通行証を見せろ」


 先頭の男が言った。顎鬚を蓄えた壮年の男で、腰に手斧を二本提げている。剣ではなく斧。実戦慣れした選択だ。


「この先の街道は俺たちが管理している。魔物と魔族の排除を請け負ってるんだ。通るなら身元を明かせ」


「冒険者ギルドの管轄ではないんですか」


 アルトが静かに問い返した。声は落ち着いている。挑発ではなく、事実確認の口調。


「ギルドは役に立たねぇよ。空がああなってから、この辺りの治安はギルドの手に負えなくなってる。だから俺たちが代わりにやってるんだ。——文句あるなら引き返しな」


 自警団か過激派か——明確な判別はつかない。だが武装と練度から見て、ただの農民の寄せ集めではない。元兵士か元冒険者が核にいるタイプの集団だろう。


「荷物検査をさせてもらう。それと——そっちの男」


 男の視線が、ユートに向いた。


「首の紋様。何だ、それは」


 ユートの首筋に浮かぶ金色の紋様。今は薄いが——日の光の下では、注意深く見れば確かに浮き出ている。


「古傷みたいなものだ。魔法の後遺症でな。気にしないでくれ」


「古傷にしちゃ光って見えるぜ。——ま、いい。通していいかは隊長に聞く。ちょっと待ってな」


 男の一人が森の奥に走った。残りの四人がこちらを囲むように展開する。敵意というよりは——過剰な警戒。世界がおかしくなってから、人間は人間を信じにくくなっている。


 アルトは冷静だった。ここで揉めるのは下策だ。先に進むことが最優先。時間を使えば使うほど、リアラから遠ざかる。


「通してもらえると——」


『おい』


 バルの声がした。アルトの背中から——他の誰にも聞こえない程度の、低い声。


『このガキども……なんか嫌な匂いがするぞ』


「匂い?」


『魔族の血の匂いじゃねぇ。もっと……何つーか。人間が人間を追い詰めた時の……焦げた怒りみたいな匂い。いや——違うな。これは俺の感覚じゃねぇ。誰かの——中に混ざってるやつの。あ、くそ。またごちゃごちゃする——』


 バルの声が途切れた。

 アルトは素早くバルを手で押さえた。今の発言が相手に聞こえていたら厄介だ。幸い、男たちはバルを荷物としか見ていない。


 数分後、隊長格の男が現れ、三人の冒険者証を検めた上で通行を許可した。ユートの紋様についてしつこく聞かれたが、ミラが前に出て「魔法の後遺症よ。私が管理してるから問題ないわ」と嘘を通した。目を見て、堂々と、一分の隙もなく。さすがだった。


 * * *


 一団を離れてしばらく歩いてから、アルトが口を開いた。


「さっき、バルが何か感じたって言ってたんですけど——」


『嫌な匂い、か。言ったな。でもあの時の感覚は本当に気持ちわりぃんだよ。俺のものなのか、中の何かのものなのか、区別がつかねぇ。ただ——あいつらが纏ってた空気が、ぞわっとした。人間同士で殺し合いした後の残り香みたいなやつだ。こういう感覚は前はなかったと思う』


「混線の一種かもね」


 ミラが歩きながら言った。考え込むような表情。


「バルの中にあった二つの核——勇者と魔王。両方の感覚の残滓がバルに影響を与えてるとしたら、人間の悪意に反応したり、魔族への敵意に反応したりしてもおかしくない。普通のバルならスルーするようなものを、核の残滓が拾ってしまう」


『迷惑な話だぜ……。俺は自分の鼻だけで十分なんだよ。余計な五感を増やすな』


 バルの毒舌。だがその声に——隠しきれない不安が滲んでいた。


 * * *


 夕暮れ。

 街道沿いの川辺に野営地を作り、戦闘訓練を兼ねた軽い模擬戦をした。


 ユートとアルトが剣を交える。木刀ではなく実剣。刃こそ引いているが、動きは本番に近い。

 ユートの太刀筋は鋭い。ブランクを感じさせない切れ味で、アルトの防御を崩しにかかる。一歩踏み込み、二歩引いて間合いを作り、三歩目で斬り込む——


 だが。途中で構えが変わった。

 ほんの一瞬。直剣の片手持ちが——両手持ちの大振りな構えに切り替わりそうになった。エイルの時代の剣術。今のユートの型とは違う、もっと古い、もっと重い剣の振り方。


 ユートはそれを自覚し、歯を食いしばって修正した。片手に戻す。間合いを測り直す。その一拍で——アルトの魔力を纏った刃が肩口を掠めた。


「——止め。十分です」


 アルトが剣を引いた。


「お前、強くなったな」


 ユートが汗を拭きながら言った。苦い笑み。


「正直に言うと——今の俺より安定してる。構えが混線するぶん、お前の方が戦闘中の判断が速い」


「そんなことは——」


「事実だ。受け止めろ、アルト。お前に頼ることが——この先、増えると思う。すまないが、頼む」


 真っ直ぐな目だった。

 アルトは一瞬——何か言いかけて、飲み込んだ。そして頷いた。


「——はい。任せてください」


 迷いのない返答。

 ミラは焚き火の近くからそのやりとりを見ていた。杖を膝に置いて、術式の図を空中に描きながら——手が止まっていた。


 ——あの子、全部引き受けようとしている。


 ユートの代わりの戦闘力。ミラの代わりの索敵。バルの代わりの判断。

 三人ぶんの穴を——十六歳の少年が、当たり前の顔で埋めている。


 頼もしい、と思う。

 だが同時に——そのうしろ姿が、少しだけ無理をして広がっているように見えた。


 今は——まだ、言わない。言う根拠がない。今のミラには、指摘の代わりに差し出せるものがない。火力を失った魔法使いが「休め」と言っても、説得力がない。


 だから——先に、自分の仕事を終わらせる。

 新理論を完成させる。そうすれば——あの子の荷を、降ろせるかもしれない。


 夜が更けた。

 アルトが観察ノートに今日の戦闘記録を書き込んでいるのを、ミラはしばらく眺めてから——目を閉じた。


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