第77話:折れた剣の目覚め
それは、夜明け前に起きた。
三人は街道から外れた森の中で野営をしていた。小さな窪地を見つけ、周囲を太い木の根が囲んでいる天然の陣を利用した。ミラの防護結界が半径十歩ほどの円を描き、焚き火の残り火が赤い光を地面に落としている。
アルトは背中にバルを背負ったまま、木の根に寄りかかって浅い眠りに就いていた。背中に当たるバルの布地が、かすかに温かい。一ヶ月前から——声を漏らしたあの夜から——バルの布地は微かな温度を持つようになっていた。
ユートは二番手の見張り。焚き火の傍に座り、直剣を膝に置いて、赤黒い筋の走る空を見上げている。ミラは先に横になっていた。
虫の声がしない。
それが異様だった。森の夜には虫の声がある。それが当然の音風景だ。だが今夜は——ぴたりと止んでいる。まるで森全体が息を潜めているかのような、異質な静寂。
最初に変化が起きたのは、ユートの体だった。
首筋の金色の紋様が——一瞬で全身に広がった。
首から鎖骨へ。鎖骨から胸へ。胸から両腕へ。腹へ。背中へ。指先の一本一本にまで。まるで体の内側に埋め込まれた回路が一斉に点灯したように——ユートの全身が金色の光に包まれた。
「——っ!」
声にならなかった。
膝を突いた。地面に手をついた。指の間から金色の光が漏れている。痛みではない。もっと深い場所から——根を張るように——記憶が、溢れてくる。
——知らない街。青い月。街路に白い花が咲き乱れている。石畳が月明かりで銀色に光っている。誰かの手を握っている。小さくて温かい手。指が絡まるようにユートの——いや、エイルの指に触れて——
——声が聞こえる。「ねえ、あの星なんて名前かな」。ルーナの声だ。あの、優しくて透き通った声。まだ何も壊れていなかった頃の——
——場面が変わる。鍛冶場。暗い天井の下で、炉の火が赤々と燃えている。金槌の音が規則正しく響く。カン、カン、カン。火花が散る。銀色の鉄塊が叩かれるたびに、その形が少しずつ変わっていく。剣になっていく。妖精の鍛冶師が——小柄で、白い髪の老人が——何か語っている——
——「この剣に、想いを込めろ。お前が何を守りたいかを。それが、この剣の芯になる」——
——「守りたいもの?」とエイルが答える。若い声。迷いのない声。「わかってます。ずっと、わかってた」——
「ユートさん!」
アルトが飛び起きた。眠りは浅かった——光が視界に飛び込んできた瞬間、体が反射で動いていた。剣を掴みながら周囲を確認する。敵影なし。結界は維持されている。だが——ユートの体が光っている。尋常ではない光量で。
ミラも跳ね起きていた。杖を掴み、身構える。
「敵じゃないわ。ユートの——残滓が暴走してる!」
「ユート! しっかりしなさい!」
ミラが駆け寄った。だがユートの目は虚ろだった。焦点が合っていない。ここではない場所を見ている。記憶の奔流に呑まれて——今、この場所にいない。
金色の光が脈動するたびに、周囲の空気が震える。木の葉が揺れ、焚き火の炎が不自然に伸び縮みする。ユートの体から発せられる魔力が、周囲の空間を歪ませている。
そして——同時に。
アルトの背中で、バルが光った。
黄色い布地の縫い目という縫い目から、銀色の光が漏れ出した。微かな光ではない。はっきりと強い、白銀の輝き。
バルの内側で何かが共鳴している。ユートの紋様の光と——同じ周波数で。同じリズムで。片方が脈打てば、もう片方が応える。まるで、離れた場所にある二つの楽器が同じ旋律を奏でるように。
「バル!? バル!」
アルトが背中からバルを下ろした。
布地が激しく震えている。脈打つというよりも——苦しんでいる。膨張と収縮を交互に繰り返し、口金の金具ががちがちと鳴っている。まるで中から何かが出ようとしているのに、出口が見つからないかのように。
そして——声が漏れた。
『——ぁ——』
「バル! バル、聞こえるか!」
『——ぐ、ぁ……なか、の……硬い……やつ、を——』
声だった。バルの声だ。だがいつものバルの声よりも低く、掠れていて、苦痛に歪んでいた。一つ一つの音を絞り出すように——壁の向こうから叫んでいるような、遠い声。
「中の硬いやつ? 何だ、何のことだ!」
『取、れ……取り出……せ……中に……ある。硬い……棒のような——剣、みたいな——取ら、ないと……共鳴して……俺の中が——っ』
バルの布地が一段と激しく震えた。銀色の光が眩しいほどに膨れ上がり——その直後、ぷつりと途切れた。光が消え、声が止まり、バルは布切れのように力なく垂れ下がった。
「バル! おい、バル! 返事しろ!」
アルトは迷わなかった。
バルの口を開いた。金具を引っ張り、布地を広げ、中に手を突っ込んだ。
以前のバルの内部空間は膨大な亜空間だった。魔物を丸ごと呑み込み、武器を何十本も収納できるほどの。だが今——手を入れた感触は、狭い。小さな袋の底に手を入れたように、すぐに行き止まりがある。内部空間そのものが縮んでいるのだ。
指先に、硬い物が触れた。
冷たい。金属。細長い——棒のような。刃のような。指を這わせると、途中でぷつりと途切れている。折れている。だがその断面から——微かな熱が伝わってきた。
アルトは握った。力を込めて——引き抜いた。
* * *
焚き火の残り光が、それを照らした。
剣だった。
折れた剣。中ほどで断ち切れた、銀色の鍔と柄。柄には革紐が丁寧に巻かれ、鍔には繊細な意匠が刻まれている。刃はその半分しかない。断面は鋭いのに、まるで泣き別れるようにきれいに割れていた。
だが——残った部分に、微かな金色の光が脈動している。主を失ってなお、まだ微かに——生きている。
アルトがそれを取り出した瞬間。
ユートの体を包んでいた金色の光が——すっと、引いた。
波が引くように。潮が退くように。全身を覆っていた紋様が薄れ、光が消え、ユートの体が元に戻っていく。
「——は」
ユートが目を見開いた。焦点が戻る。自分の手を見る。地面を見る。焚き火を見る。——ここが今の世界であることを、確認している。
「ユートさん! 大丈夫ですか!」
「……ああ。今のは——何だ。すごい量の記憶が一気に流れ込んで——鍛冶場の映像と、月の下の少女の映像と、剣を鍛える場面と——全部、同時に」
ユートは額の汗を拭い、荒い呼吸を整えた。手が震えている。だが——暴走は止まった。紋様も消えた。今は、ユート自身の呼吸だけが胸を動かしている。
そして——アルトの手の上で焚き火に照らされている、それに気づいた。
ユートの呼吸が、止まった。
声は出なかった。何も言えなかった。
ただ、視線がその折れた剣に縫い止められたまま、動かない。
長い沈黙が落ちた。
アルトもミラも、何を言えばいいか分からなかった。さっきまでの暴走が嘘のような静けさの中で、焚き火の薪が一度、小さく爆ぜた。
「ユートさん——?」
アルトが、おそるおそる、剣をユートの方へ差し出した。
ユートがゆっくりと手を伸ばした。指先が革紐に触れた瞬間——金色の光が穏やかに明滅した。さっきの暴走とはまったく違う。もっと静かで、もっと温かくて、もっと——優しい。心臓の鼓動のような、ゆったりとしたリズム。
「……俺の剣だ」
声が、低かった。
「あの夜、折れて——もう、戻ってこないと思ってた」
ユートの指先が、革紐の編み目を辿った。一目、また一目。鍔の彫り込みに触れ、刃の根元の傷をなぞる。何度も握ってきた手が、何度も振ってきた腕が、その形を全部覚えている。
——だが、覚えているのは、ユートだけではなかった。
ユートの手の中で、別の誰かの記憶が、静かに動いている。
「……いや」
ユートが、小さく言い直した。
「エイルの剣だ。あいつが鍛えてもらって、あいつが振るって——最後まで握ってた剣だ」
ユートの中で、二つの認識が静かに重なっていた。「俺の剣」と「エイルの剣」。ユートとして使ってきた感触と、エイルとして鍛えた記憶。どちらも嘘ではなかった。どちらも、この手にあった剣だった。
その境目は、今はもう、はっきりとは引けない。
「……共鳴してる」
ミラが杖の先端を剣に近づけて魔力を探りながら呟いた。声が緊張している。
「この剣に残ったエイルの魔力と、ユートの中の残滓が——同じ波長で動いてる。鍵と鍵穴みたいに、ぴったり噛み合ってる。……さっきの暴走は、たぶんこれが原因よ。バルの中にあったこの剣が、ユートの残滓と引き合って共鳴した。その振動がバルの内部構造を刺激して——バルの意識を引き上げたの」
「だから同時に光ったんですね。バルとユートさんが」
「ええ。でも——剣を取り出したことで共鳴が安定した。ユートが直接剣に触れることで、残滓と剣の魔力が直結して、暴走する必要がなくなったの。だから光が引いた」
「じゃあ——この剣を持ってれば、ユートさんの暴走が——」
「抑えられる、かもしれない。少なくとも今、さっきまでの激しい脈動はほぼ収まってる。ゼロじゃないけれど——ユートの中の嵐が、一段階静まった感じ」
ミラの言葉が、そこで一度途切れた。
剣を見つめる目に、別の考えが過ぎる。表情が、次第に——硬くなっていく。
「……それと、たぶん」
声が、少しだけ低くなった。
「バルの傷が塞がってたのも——この剣のせいよ」
アルトが顔を上げた。
「ずっと不思議だったの。あの日、激流に流された後にあなたが目を覚ましたら、バルの傷が消えてた——って言ってたでしょう。あの白い光が一瞬で治したんだと、私もそう思ってた。でも、それじゃ説明がつかないのよ。あんな深い穴が、ただ一度の閃光で塞がるなんて。傷の質も、修復の精度も——ありえない」
「ずっと、塞ぎ続けてた——ってことですか」
「そう。剣がバルの中で、エイルの魔力を流し続けてたの。傷を治して、封印を保って——内側からバルを守ってた。二年間、ずっと」
アルトの視線が、膝元のバルに落ちた。
黄色い布地が、焚き火の光をまだら模様に映している。さっきまで激しく震えていた体は、今は静かに、ゆっくりと脈打っている。
——お前の中で、ずっと、誰かが守っててくれてたのか。
声には、出さなかった。胸の奥が詰まって、呼吸が一度だけ浅くなる。
ユートはしばらく、折れた剣を見つめていた。
欠けた刃。革紐の感触。鍔に刻まれた意匠。何もかもが——在りし日の手の痕跡を残している。誰の手の、とはもう言えない。
ただ——この剣は、最後の最後まで、誰かを守るために働いていた。バルの中で。二年間、誰にも見えない場所で。
「……お前、ずっとそこにいたのか」
ユートが、ぽつりと呟いた。
その声が、手の中の剣にかかったものなのか、膝元のバルにかかったものなのか——アルトには、分からなかった。
* * *
「バル」
アルトがバルに向き直った。
バルは——まだ動いていた。さっきの激しい脈動は収まったが、布地がゆっくりと上下している。呼吸のような、微かな律動。
「バル。聞こえてるか。お前、喋ったぞ。さっき」
沈黙が数秒続いた。長い数秒だった。焚き火の薪が爆ぜる音がやけに大きく聞こえた。
『……うるせぇ……』
声。小さくて、掠れていて、力もない。だが——バルの声だ。あの傲慢で、偉そうで、口の悪い声。
「バル!」
『……うるせぇっつってんだ、クソガキ。朝っぱらから……耳元で怒鳴るな。頭に……響くんだよ……』
アルトの目から涙が落ちた。止めようと思う前に——ぼたぼたと、バルの布地の上に。温かい雫が黄色い布地に染みていく。
『おい。何泣いてんだ、ノロマ。誰が……許可した。涙で布地が……湿気る……だろ。やめ……ろ』
「ごめん。ごめん、止まんない——」
『止めろっつってんだよ……マジで気持ちわりぃな、朝から泣く男は……』
バルの声は途切れ途切れだった。一言ごとに間が空く。喋ること自体に膨大な集中力を使っているようだった。
だが、声は——確かにバルだった。
『……すまん。今、ちょっと——頭ん中がぐちゃぐちゃで。喋るのに……すげぇ集中がいるんだ。いつもみてぇに流暢にはいかねぇ。悪ぃ、少し……黙ってていいか』
「うん。うん、全然いいよ。いくらでも黙ってていい。——おかえり、バル」
『…………帰ってなんかいねぇよ。俺様はずっと……ここにいただろうが。ずっとお前の……背中に』
最後の言葉は、ほとんど聞き取れなかった。
バルの布地が静かになる。また沈黙に戻った——だが、今度の沈黙は前とは違う。完全な無ではない。かすかに——確かに——脈打っている。生きている沈黙だった。
ミラが何も言わずに、アルトの肩に手を置いた。
「……帰ってきたわよ。あの口の悪いバッグ」
「はい。——帰ってきました」
アルトは涙を拭って——笑った。泣きながら、笑った。
* * *
夜明けの光が、森の木々の隙間から差し込んできた。
焚き火を整え直し、残り少ない干し肉と硬いパンで朝食を摂りながら、三人は折れた剣を中心に話し合った。
「まとめると——この剣がユートさんの暴走を抑える鍵になる可能性が高い。でも折れたままでは不完全。だから修繕が必要」
「ああ。さっきの記憶の断片に鍛冶場が見えた。妖精の鍛冶師がこの剣を打っていた場面だと思う。青い湖のほとりに白い木が何本も立っていて——石造りの低い建物が並んでいた」
「妖精族の鍛冶場……。場所はわかりますか?」
「方角だけなら。記憶の中で——北東の空が見えた。今俺たちが向かっている方角と、近い」
アルトがノートに書き込んだ。
「リアラの足跡が北東。勇者の剣を打った鍛冶場も北東。——向かう先は、同じかもしれません」
「都合が良すぎる気もするけど」
ミラが腕を組んだ。だがその表情は否定ではない。可能性を吟味している顔だ。
「でも、剣に残った共鳴がユートの暴走を抑えたのは事実よ。この剣を修繕すれば——ユートの残滓も安定する可能性がある」
「少なくとも試す価値はある」
アルトが頷いた。
「目標を整理します。リアラを追うこと。ルーナさんを救うこと。バルの状態を安定させること。そして——勇者の剣を修繕すること。全部の方角が合うなら、まず北東に進みましょう」
ミラが苦笑した。その表情が、少しだけ——前を向いていた。
バルの布地にはまだアルトの涙の跡が残っていたが——背負い直した時、その温かさは消えていなかった。
だがアルトは気づいていなかった。
バルが最後に声を出した時——口調が一瞬だけ、変わっていたことに。
『すまん』。バルはそんな丁寧な言い方を、今まで一度もしたことがない。『悪ぃ』とは言う。『すまねぇ』とも言う。だが『すまん』は——違う。もっと静かで、もっと落ち着いた、別の誰かの言葉遣いだった。
あれは——バルの中に混ざった何かが、ほんの一刹那だけこぼれ落ちた言葉だった。




