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『ノロマ、死ぬなよ』〜毒舌カバンと最弱少年の英雄譚〜  作者: 塩とわかめ
第三章:壊れた空と、取り戻すための戦い
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第76話:乱れた魔力

 グレンフォードを出て、二日目の午後。


 北東街道は、思っていたよりもずっと荒れていた。

 かつては四頭立ての荷馬車が余裕で行き交った幅広の道も、今は雑草が石畳を割って伸び、所々で路面がひび割れている。道の脇に打ち込まれていた里程標は苔に覆われ、文字すら読めなくなっているものが多い。まるで——道そのものが、人に忘れられたがっているかのようだった。


 風がない。この季節なら山から吹き下りてくるはずの冷たい風が、今日はぴたりと止まっている。空気が重い。湿気というよりも——大気に何かがのしかかっているような圧。呼吸に支障はないが、歩いていると知らず知らずのうちに肩が凝る種類の重さだった。


「人通りが減ったのは、ここ一ヶ月らしいわね。ギルドの警報が出てからは商隊も護衛を増やしたけど、それでも出発を見合わせる商人が多いって」


 ミラが淡々と言った。左手に杖。右手で背嚢の肩紐を整えながら、視線は常に前方に向けている。足取りは確かだが、時折——ほんの一瞬だけ——杖を持つ手が開閉を繰り返す。魔力の通りを確かめているのだ。癖になっている。


「魔物の出現率、確かに上がってます。昨日だけで三回、痕跡を見ました。全部、街道から百歩以内。——以前ならこの区間で見つかるのは月に一、二回の獣型ですけど、今は種類も頭数も増えてる」


 アルトが答えた。二年間の独り旅で培った索敵の習慣は、もう体の一部だ。街道の脇の土を踏むたびに、足裏で地面の質を読む。木の幹に残った爪痕の深さから獣の体格を推し量り、葉の裂け方から通過した方角を読み取る。

 ノロマと呼ばれていた少年が、いつの間にか一行の目と耳になっていた。


「——来た」


 ユートが足を止めた。直剣の柄に手が伸びる。自然な動きだが——ほんの一瞬、指が躊躇うように宙を彷徨い、それからしっかりと握った。


 アルトも同時に気づいていた。前方の林の奥から——魔力の圧。小さいが、複数。散発的に動いている。木の葉が不自然に揺れている場所が二つ、三つ。地面が微かに振動している。


「魔物の群れです。数は六から七。小型が多いけど、一つだけ中型がいる。足音の重さからして甲殻系じゃない——たぶん獣型」


「了解。ユートさんは後方警戒を。ミラさん——」


「わかってるわよ。中型を先に潰す」


 ミラの杖が光を帯びた。空気中の魔力を引き寄せ、杖の先端に収束させる。二年間で何千回と繰り返してきた工程。息をするように自然に——


 林の中から、灰色の魔物が飛び出してきた。

 グレイファング。狼型の魔物で、通常は三から四の群れで行動する。だが今日の群れは六体——しかも目が異常に血走っている。瞳孔が開ききり、唾液が糸を引いて顎からこぼれている。魔力の乱れが魔物にも影響を与えているのだろう。本来なら人間を見れば距離を取るはずの獣が、理性を失って突進してくる。


 アルトは魔法剣を抜き、流れるように前に出た。一体目の突進を半身で避け、すれ違いざまに首筋を薙ぐ。刃に魔力を流す——斬撃が獣の毛皮を貫き、一撃で沈める。返す刀で二体目の前脚を払い、体勢を崩したところを頭蓋に刃を叩き込んだ。

 二年前には考えられなかった動作だった。迷いがない。恐怖で足が止まることもない。観察し、判断し、実行する。その一連が、ほとんど反射の速度で回っている。


 ユートが背後から迫った一体を直剣で弾き飛ばした。剣圧で獣を三歩後退させ、追撃で仕留める。動きは鋭い。ブランクを感じさせない——だが。

 一拍。攻撃に移る瞬間、ほんの一拍だけ初動が遅れた。構えが揺れたのだ。一瞬だけ——別の構えが腕に浮かんで、それを押し戻すために意識を使った。誰にも気づかれないほどの、微かな躓き。


 そして——ミラが動いた。


「〈フレイムランス〉!」


 杖を高く掲げ、真っ直ぐに振り下ろす。中型のグレイファングに向けて、炎の槍を放った。

 ミラが最も得意とする攻撃魔法。火属性の高密度魔力を槍状に圧縮し、一点に叩き込む。射程、精度、破壊力——すべてにおいて一級品の魔法。二年間の実戦で、この魔法だけで何十体もの魔物を倒してきた。狙いも出力も、手の内を知り尽くした一撃——


 ——炎が、ずれた。


 着弾点が、右に三歩分逸れた。

 狙った獣の横を通り過ぎ、背後の大木に直撃する。幹が内側から爆ぜるように炸裂し、火花と木片が派手に散った。木のてっぺんに棲んでいた鳥が悲鳴を上げて飛び去る。焼けた木の匂いが鼻を衝いた。

 中型のグレイファングは止まらず、牙を剥いてミラに突進してくる。


「ミラさん!」


 アルトが横から飛び込んだ。残っていた小型を蹴り飛ばし、中型の顎下に潜り込むようにして魔法剣を切り上げる。刃が喉を裂き、魔力の一閃が獣の体内を駆け抜けた。一撃で仕留め、転がる体からすぐに距離を取る。


「——大丈夫ですか」


「触らないで」


 ミラの声が硬かった。怒りではない——もっと深い場所で、何かが軋んでいる声。

 目の前に飛び散った木片の残骸を見つめている。杖を放った位置。狙った位置。着弾した位置。その三つの点が描く三角形の大きさを——たぶん、正確に理解している。


「……ミラさん?」


「大丈夫よ。少し——風で流されただけ」


 嘘だ。アルトにはわかる。今日は無風だ。髪の一本も揺れていない。大気は重く凪いでいる。風で炎が三歩も流れるはずがない。


 残りの小型を片付けながら、アルトは難しい顔で考えていた。ミラの魔法がずれたのは、今日が初めてではない。三日前にも、野営中の防護結界の展開がほんの少し遅れた。五日前は探知魔法の映像がぶれて範囲が狭くなった。一週間前は焚き火の火力調整で、一瞬だけ炎が大きくなりすぎた。

 どれも些細だった。致命的にはならなかった。だが——頻度が上がっている。そして今日、初めて戦闘に影響した。


 * * *


 戦闘後。街道脇の岩場に腰を下ろし、傷の手当てと呼吸の整えを兼ねて、三人はしばらく黙っていた。

 焼け焦げた大木がまだ煙を上げている。炭の匂いが流れてくる。ミラはその煙を見ないようにしていた。


「……ユートさん。さっきの戦闘、初動が少し遅れてたように見えたんですが」


「ああ——正直に言うと、少しな。体を動かそうとした瞬間に、一瞬だけ……別の動きが浮かんだ。俺の構えじゃなくて、もっと——違う剣術の型が。片手剣じゃなくて両手剣の、もっと大振りな構え」


「エイルさんの?」


「たぶん。昔の戦い方が身体の記憶として混ざるみたいでな。理屈では押さえ込めるんだが——反射の段階で、一拍取られる。ただ、戦えないほどじゃない。今のところは」


 ユートは冷静に自分の状態を言語化していた。その客観性に、アルトは少し安堵した。少なくともユートは自分の異変から目を逸らしていない。隠そうともしていない。


 問題は——もう一人だ。


 ミラは岩場の端に座り、杖を立てて黙っている。膝の上に置いた左手が、かすかに震えていた。目を閉じている。考えているのか——怒りを呑み込もうとしているのか。


「ミラさん」


「——何?」


「さっきの魔法のずれ。本当に風のせいですか」


 長い間があった。

 林の奥で鳥が鳴いた。焼けた木がぱきりと音を立てて崩れた。


「……アルト。あんたに本当のことを言うわ」


 ミラが目を開けた。苛立ちと——認めたくないものを認めた後の、苦い表情。それでもなお、真っ直ぐ前を見ている。折れてはいない。


「私の魔法は、ここ一ヶ月ずっとずれてる。最初は体の問題だと思った。二年間の蓄積疲労とか、左腕の後遺症とか。でも——違うの」


 ミラは杖を地面に突き立てた。杖の先端から淡い光が漏れ、空気中の魔力が可視化されるように揺らめいた。


「世界の魔力そのもの——大気中に遍在する魔力の流れ自体が、乱れてるの。私たちの魔法はね、空気中の魔力を杖や身体回路を通して操作する仕組みなの。川から水を汲んで、管を通して畑に流すようなもの。その大元——川そのものが、歪んでる」


「川が歪んでる……」


「そう。水量が変動してるの。普段は安定してる流れが、急に速くなったり遅くなったり、方向が微妙にぶれたりする。小さな歪みだけど、精密な魔法ほど影響を受ける。生活魔法——火をおこすとか、光を灯すとか——ならほとんど気にならない誤差の範囲よ。でも戦闘魔法は別」


 ミラの声が低くなった。


「出力を上げるほど、ずれが大きくなる。さっきのフレイムランスで三歩ずれたでしょう。同じ魔法を全力で撃ったら——もっとずれる。着弾範囲を考えると、最悪——」


「味方を巻き込む」


「……ええ」


 ミラの唇が一瞬噛まれた。自分の口からその言葉を出すことが、どれほど悔しかったか。ミラの魔法は——仲間を守るための力だ。それが仲間を傷つけるかもしれないという可能性は、ミラのプライドの根幹を揺るがす。


 アルトは息を呑んだ。

 ミラの魔法が戦力として計算できなくなりつつある。それは、この旅における最大の攻撃力が不安定になったことを意味していた。


「ミラさん。それ、直せますか」


「……わからない。原因が私の側にあるなら、訓練や微調整で補正できる。けど世界の側が狂ってるなら——私がどれだけ完璧な術式を組んでも、根本は直らない」


 そう言ってから——ミラは顔を上げた。

 その目に、ミラらしい炎が燃えていた。折れていない。折れる気もない。


「でもね。やりようはあると思うの。世界が乱れてるなら——乱れた状態に合わせた術式に組み直す。今までの『教科書通りの魔法理論』じゃなくて、この狂った環境に適応した新しい理論体系を——私が、作る」


「新しい理論……」


「簡単じゃないわよ。既存の魔法理論を根底から組み替えるようなことだもの。天才の私でも——時間がかかる。でも」


 ミラが不敵に笑った。口角を上げ、わずかに首を傾げて——あの、自信に満ちた表情。その笑みの下にどれだけの焦りが渦巻いているか、アルトにはわかっていた。でも今は、その強がりに乗った方がいい。ミラには、ミラの戦い方がある。


「頼りにしてます、ミラさん」


「当然でしょ。私を誰だと思ってるの」


 * * *


 日が暮れて。野営の準備をしながら、アルトはバルに水をかけていた。

 意味があるかはわからない。だが水をかけると、布地がほんの微かに脈打つ気がする。乾いた布に水が染みていくように——何かが、中に届いているのかもしれない。


「バル。聞こえてるか。——今日はちょっと危なかったんだ。ミラさんの魔法がずれて。でも大丈夫だった。僕がフォローした。お前がいたらたぶん——うるせぇ、とか言いながら文句言って、結局全部食って解決してくれるんだろうけどな」


 返事はない。


「……まあいいよ。お前のペースで起きてくれ。待ってるから」


 アルトはバルをテーブル代わりの平たい岩の上に置き、焚き火に戻った。


 その夜。

 二番手の見張りに就いたユートが——不意に、頭を押さえた。


「——っ」


「ユートさん!」


 アルトが即座に目を覚まして飛び起きた。焚き火の光の中で、ユートの顔が歪んでいる。


「大丈夫……大丈夫だ。ただ——今、一瞬だけ。見えた。知らない場所の……」


 ユートは額を拭い、息を整えた。紋様が明滅して——収まる。


「青い湖があった。水面に白い木が映ってて——周りに、低い石造りの建物が並んでる。森の中の集落みたいな。そこで——誰かが、金槌を振っていた。小さな妖精の……鍛冶場のような」


「妖精の、鍛冶場」


「エイルの記憶だ。あいつが——」


 ユートは自分の手のひらを見つめた。金色の紋様がうっすらと脈打ち、その奥で、別の誰かの記憶が静かに動いている。


「——あいつが剣を鍛えてもらった場所を、覚えてる」


 アルトは黙ってノートを取り出し、ユートが見た映像の詳細を書き留めた。青い湖。白い木。石造りの集落。鍛冶場。


 その夜のノートには、こう書き加えられていた。


 ——ユートさんの記憶流入、頻度・鮮明度ともに上がっている。

 ——ミラさんの魔法不安定、原因は世界側。本人は新理論の構築で対処する方針。

 ——バルの状態、変わらず。

 ——三人分の穴を、僕が埋められているうちは大丈夫。


 最後の一行を書いてから——少しだけ、手が止まった。

 消そうかと思った。でも、消さなかった。


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