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『ノロマ、死ぬなよ』〜毒舌カバンと最弱少年の英雄譚〜  作者: 塩とわかめ
第三章:壊れた空と、取り戻すための戦い
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第75話:壊れた空の下で

 空が、おかしい。


 北東の街道沿いに建つ小さな交易町——グレンフォード。石造りの城壁は低く、常駐する兵の数も多くはない。内陸の穀倉地帯と港湾都市を繋ぐ中継地として栄えてきた、ただの通過点のような街だった。

 だが、ここ一ヶ月。この街の住人たちは空を見上げるたびに口を噤み、子供たちは夕焼けを怖がるようになった。


 赤黒い筋。

 薄い雲の隙間を縫うように走る、血の色をした光の帯。日中はほとんど見えないが、夕暮れになると濁った空の底からじわりと浮き上がり、夜には不気味な脈動を繰り返す。最初の数日は珍しい気象現象として酒場の話題になった程度だった。だが一ヶ月経っても消えない。むしろ——少しずつ、太くなっている。

 それと歩調を合わせるように、街道沿いの魔物の出現が増え始めていた。


「またか」


 街の東門で荷馬車の検問を担当している衛兵のトマスが、夕空を見上げて呟いた。

 赤黒い筋がくっきりと走っている。もう慣れたはずなのに、見るたびに胃の底が冷える。この空を見ていると、世界の底が少しずつ抜けているような——そんな気がしてならない。


「隊長。ギルドの方から連絡です。北街道で魔物の出現がまた増えてるそうで——先週の三倍だって」


 部下の若い兵士が駆け寄ってきた。


「知ってる。四日前から警報が二段階上がってる。商隊の護衛費も跳ね上がったし、北東からの通行者はめっきり減った。嫌な時代だ」


 トマスは欠伸を噛み殺しながら、東向きの街道に目を向けた。

 夕暮れの逆光が地平線を焼いている。砂利混じりの街道が、赤い陽に照らされて血のように見える。

 その中に——三つの影が浮かんだ。

 まだ遠い。だが、人影であることは間違いない。街に向かって、ゆっくりと歩いてくる。


 * * *


 三人は、ぼろぼろだった。


 先頭を歩く少年は、背中に不釣り合いなほど大きな黄色いバッグを背負っている。使い込まれた革のジャケットは所々が裂け、右腕には古い斬り傷の跡が幾筋も走っていた。だが歩調は安定していて、両目は鋭く前方を捉えている。十六、七だろうか。この歳でこの目をしている人間を、トマスは何人も見てきた。大抵は——早すぎる修羅場を潜ってきた者たちだ。

 その半歩後ろに、背の高い男。長い黒髪を後ろで一つに束ね、腰に使い込まれた直剣を提げている。一見して穏やかな印象だが、首筋から鎖骨にかけて金色の紋様がうっすらと浮いていた。刺青ではない。もっと有機的な——まるで肌の下を何かが這っているかのような、生きた模様。そしてそれが、時折——蛍のように明滅するのを、トマスは見逃さなかった。

 最後尾に、赤みがかったブラウンの長い髪の女。右手に細身の杖、左腕を庇うように歩いている。纏うマントには複数の焦げ跡と縫い跡が散り、目の下にはうっすらと隈が浮かんでいた。だが目つきだけが妙に鋭い。諦めた目ではなく——何かを睨み据え続けている者の目。


「……冒険者か」


 トマスは城壁の上から彼らを見下ろした。見たことのない顔だ。この街を通る冒険者は、大抵が商隊護衛か魔物駆除の依頼持ちだが——あの三人からは、そういう実務的な空気が感じられない。もっと切迫した何かを背負っている。


「止まってくれ。入街検問だ。身分証か冒険者証の提示を——」


「これでいいですか」


 先頭の少年が、躊躇なく胸元から冒険者証を取り出した。銀ランク。トマスは目を瞠った。この歳で銀ランクというのは、並の実力ではない。

 名前を読んだ。


「アルト……。用件は」


「情報収集です。——こちらの方面で、強大な魔力の発生源……あるいは、銀髪の魔族や銀色がかった青の髪の少女の目撃情報はありませんか」


「銀髪の魔族? いや、そんな魔族の話は聞かんな」


 トマスは首を振った。最近この手の問い合わせが多い。行方不明者の情報。離散した家族の探索。世界がきな臭くなると、そういう仕事が増える。この少年の探しているものもその手のものだろうか。


「ただ、ここ一ヶ月は通行者自体が減ってる。空がああなってからは特にな。北東に向かう者はほとんどいない。——あの空の赤い筋、北の果てに行くほど濃くなってるって噂だ。あんたら冒険者なら忠告しておくが、妙な連中に気をつけな。最近この辺りを巡回してる過激な一団がいる。『魔族狩り』を名乗ってて、角のある者はおろか妖精の血筋まで標的にしてるって話だ」


 先頭の少年——アルトの目が、一瞬だけ細くなった。奥から何かが光ったようにも見えた。だが、すぐに丁寧に頭を下げた。


「——ありがとうございます。助かります。宿はどちらに?」


「東通り突き当たりの『灰色狼亭』。この時期でも空きはあるだろう」


 三人が門を通過していく。トマスはその背中を無言で見送ったが、嫌な感触が拭えなかった。


 あの三人。とりわけ——真ん中の男の首筋に浮いた紋様。あれは普通の呪痕やまじないの類ではない。魔族の刻印に酷似している。加えて、あのバッグ。少年が背負った黄色い大きな鞄は——何の気配も出していないが、布地が微かに脈動しているように見えた。気のせいだろうか。

 そして最後尾の女。あの目は、追い詰められた獣のそれではない。追い詰められてなお牙を剥き返している者の目だ。


 あの三人は、何かを運んでいる。

 この街が歓迎すべきではない何かを。


 トマスは門の記録簿にペンを走らせながら、背中に冷たいものが走るのを感じていた。


 * * *


 灰色狼亭。二階の三人部屋。


 石壁に木の梁を渡しただけの質素な部屋だった。ベッドが二つと、床に敷く藁の寝床が一組。小さな窓からは、夕暮れの赤い光が差し込んでいる。

 荷物を下ろし、水と布で顔の汚れを拭い、アルトが観察ノートを広げた頃には、窓の外はすっかり暮れていた。赤黒い筋が夜空にくっきりと浮かんでいる。月の光すら、少し歪んで見えた。大気中の魔力が乱れている証拠だ——ミラがそう言っていたことを、アルトは思い出した。


「この街でも、有力な情報は出なかったな」


 ユートがベッドの端に腰を下ろしながら言った。直剣を壁に立てかけ、首筋を押さえている。紋様はまた薄くなっていたが、たった今の会話の間にも一度、微かに明滅した。


「方角は合ってます。二人ともあの祭壇から一瞬で消えたけど、ルーナさんの魔力の残滓を追って北東へ進んできた。さっきの衛兵の話と総合すれば——あの空の赤い筋が一番濃くなる場所、大陸北岸のさらに向こうに、魔王の拠点があるはずです」


 アルトはノートの地図に赤い印を足した。ここ一ヶ月で集めた情報が、少しずつ一つの方角に収束していく。確証はまだない。だが空間に残った強大な魔力の痕跡と、各地の噂が、北東を指している。


「問題は、北東に進むほど魔物の出現率が上がってることね。ギルドの警報は北東ほどランクが高い。さっきの検問でも言ってたわ——過激派もいるって」


 ミラが壁に背を預けて座り、杖を膝に立てていた。右手の指先が杖の先端を無意識に撫でている。癖だ。魔法の調子が悪い時、ミラはよくこれをやる——アルトはそれを知っていた。


「足は止めません。ルーナさんの足跡を辿れる限り、先に進みます」


「……ああ。リアラは——待ってるだろうからな」


 ユートがそう言った。

 静かな声だった。だが言い終わった直後——首筋の金色の紋様が、瞬くように光った。ほんの一瞬。まばたきすれば見落とすほどの明滅。すぐに消える。


「ユートさん?」


「何でもない。少し——疲れただけだ。今日はよく歩いたからな」


 アルトは黙って水差しをユートに渡した。疲労のせいではないことくらい、二人のあいだでは言わずとも通じている。だが今夜はそこを掘り下げない。全員、休む必要がある。


 バルは部屋の隅のテーブルの上に置かれている。

 沈黙。一ヶ月前にかすかに声を漏らして以来、また黙り込んでいる。だが——完全に死んではいない。注意深く見れば、布地が微かに脈打っているのがわかる。呼吸というよりは、もっと深い場所での蠢き。何かが奥底で——形を取ろうとしている。


 アルトはノートにペンを走らせながら、三人の状態を整理した。


 ユートさん。——動ける。笑える。剣も振れる。だが紋様の明滅は日を追うごとに頻度を増していて、フラッシュバックの内容も鮮明になっている。エイルの残滓が何をどこまで侵食しているのか、本人すら把握しきれていない。一番怖いのは——本人がそれを「まだ大丈夫」で済ませていること。

 ミラさん。——左腕はほぼ回復した。戦えるし、魔法も撃てる。だが小さな魔法のズレが積み重なっている。焚き火の火力がぶれる。防護結界が一瞬明滅する。本人は「調整の問題」と言い張るが、それだけじゃない気がする。何かもっと根本的な——世界の側の異変が、ミラの魔法に影響している。

 バル。——反応はある。ただし安定しない。中で何が起きているのかも、まだわからない。


 そして——自分。


 アルトは観察ノートから顔を上げ、自分の両手を見た。傷は癒えている。魔法剣の感触も良い。体力もある。三人の中で——一番安定している。自覚はある。

 だから。


「明日から北東街道を進みましょう。偵察と索敵は僕がやります。ユートさんは体力温存を優先で。ミラさんには広域探知をお願いしたいですけど——」


「やるわよ。探知くらい」


 ミラの返答が即座に返ってきた。プライドの声だ。できないとは言わない——ミラは絶対に、自分から弱音を吐かない。


「……わかりました。何かあったらすぐに言ってください」


「あんたこそ。全部一人でやろうとしないでよ」


 ミラの目が、一瞬だけ鋭くなった。冗談ではない視線だった。

 アルトは微笑んで頷いた。穏やかで、真っ直ぐな笑み。だがその笑みが——少しだけ形だけのものに見えたことに、ミラは気づいていた。


 * * *


 深夜。


 アルトとミラが寝息を立てた後も、ユートだけが起きていた。


 窓辺に腰を下ろし、赤黒い夜空を見上げている。月が霞んでいる。雲のせいではない——大気そのものが濁っているのだ。世界の空は、まだ歪んだまま。あの夜——ルーナが復活したあの夜から、空は一度も元に戻っていない。

 胸の奥で、エイルの残滓が脈打つ。仮の心臓。借り物の鼓動。それが今の自分を動かしている。


 ——大丈夫だ。抑えられる。まだ——


 そう言い聞かせた時だった。


 首筋の紋様が——突然、強く光った。


 金色の線が肌の上を走るように広がる。首から鎖骨へ。鎖骨から腕へ。腕から手の甲へ。ユートは声を殺して歯を食いしばった。痛みではない。熱でもない。ただ——見知らぬ感覚が、体の内側から堰を切ったように溢れ出てくる。


 映像が、瞼の裏に走った。

 知らない街。夜。石畳の路地裏に雨が降り注いでいる。水たまりに映る月が揺れて、誰かが走っている。背中が見える。細い肩。振り上げられた剣——自分の腕じゃない。もっと細い、もっと若い、まだ何者でもなかった頃の——


 エイルの記憶だ。


 鮮明すぎる。今までの断片とは比べものにならない解像度で、映像が頭の中を駆け抜けた。匂いまで感じる。雨の匂い。石畳の匂い。血の匂い。

 一瞬で——消えた。

 紋様の光も、すっと引いていった。まるで何事もなかったかのように。ユートは額の汗を手の甲で拭い、荒い呼吸を整えた。


 ——今のは、何だ。


 いつもとは違う。あの時は「混ざる」感覚だった。ミラの横顔にルーナの面影が重なるような、曖昧で淡い混線。今のは——もっと鮮明で、もっと強い。まるで、エイルの記憶そのものが体を押し開こうとしたような。


 ユートは自分の手を見た。

 紋様は消えている。ただの自分の手だ。五本の指。剣だこのある掌。これは間違いなく——ユートの手だ。


 ——まだ、大丈夫。


 そう思った。

 だが、その「まだ」という言葉が——今夜は特に重く、胸の底に沈んだ。


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