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幕間 第8話:消えてねぇ

 暗い。

 また——暗い。


 前にもこの暗闇にいた気がする。いつだったか。どれくらい前だったか。時間という概念が、ここでは意味を持たない。

 封印の底。バッグの内側。かつて魔物を喰らい、魔力を貯め、世界最強の魔道具として誇っていた空間。今はただ——空っぽの闇。


 ——俺は、バルだ。


 名前を思い出す。前にもこうした。何度もこうした。暗闇の中で名前を握り直して、消えないように、溶けないように。


 だが——今回は、前と違う。


 前の暗闇には、アルトの声が聞こえていた。

 封印越しに、遠くぼやけて、それでも確かに——あのノロマの声が届いていた。戦いの報告。今日食ったもの。行き先の独り言。そして「また明日な」。

 あの声だけが、バルの輪郭を保っていた。


 今は——それすらない。


 * * *


 最後に覚えているのは、光だった。


 ユートの胸。赤黒い魔核。あれに噛みついた。アルトが「殺してくれ」と頼んだユートを——殺す代わりに、バルがあの核を喰おうとした。

 勇者の核と魔王の核。その両方を体内に持っていたバルだから、もしかしたら——。


 だがあの瞬間。核に触れた途端、すべてが弾けた。

 勇者の核が剥がされた。魔王の核が剥がされた。バルという器の中核を成していた二つの柱が、根こそぎ引き抜かれた。


 そして——落ちた。


 今のバルにあるのは、空洞だ。

 勇者でも、魔王でもない。もう何も持っていない。

 ただの——布切れ。


 * * *


 暗闇の中で、バルは自分の輪郭を探した。


 以前はできた。名前を思い出せば、輪郭が戻った。アルトの声が聞こえれば、意識が固まった。

 今は——名前を呼んでも、形にならない。


 俺はバルだ。

 喋るバッグだ。毒舌で、偉そうで、大飯食いで——


 ——で、何だ?


 それだけじゃないか。

 勇者の魂を預かっていたのも、魔王の核を封じていたのも、全部——他人のものだ。それを引っこ抜かれたら、残ったのは何だ。

 口の悪い布袋。アルトに背負われて、偉そうにしていただけの——。


 暗闇が、ぐっと深くなった気がした。

 沈む。意識が重い。


 ——俺は、何だ。


 前の時は違った。封印で凍結されていたが、中身はあった。核を二つ抱えた、確かな構造があった。アルトの声を聞いて「いつか叩き起こされてやる」と思えるだけの地盤があった。

 今は——地盤そのものがない。


 器だけが残って、注ぎ込まれていたものが全部抜かれた状態。

 酒瓶から酒を抜いたら、残るのはただのガラスだ。


 ——俺は、ガラス瓶か?


 自嘲にすらならない。笑えない。笑う口がない。


 * * *


 どれくらい沈んでいただろう。


 暗闇の底で——何かに触れた。


 光、ではない。音でもない。匂いでも、温度でもない。

 ただ——かすかに、何かが脈打っている。バルの残骸のどこか奥の、もう機能していないはずの場所で。


 古い。

 とても古い、微かな鼓動。


 勇者の核でも、魔王の核でもない。あれらが載る前から——バルという存在の一番底にあったもの。核を二つ支えていた「器そのもの」の脈動。


 ——これは……何だ。


 触れようとする。手がないから、意識を向ける。

 かすかに——温かい。蜂蜜色の、ほんの微かな残光。


 あの頃の記憶が滲んだ。

 アルトが最初にバルを拾い上げた時の手の温度。ゴブリンの魔力を初めて喰った時の、安っぽいが確かな味。焚き火の横で、あのノロマが毎晩毎晩語りかけてきた声。


 ……あれは、勇者の核のおかげじゃない。

 魔王の核のおかげでもない。


 あの時——アルトの声を聞いて、消えまいと思ったのは。

 核の力じゃなく、バル自身の——


 ——待て。


 意識が、少しだけ固まった。


 ——俺の、意志か? これは。


 暗闇の中で。

 器だけになった空っぽの底で。

 それでも——バルの意識は、沈みきっていなかった。


 理由はわからない。論理もない。

 ただ、一つだけ——自分でもよくわからない確信がある。


 ——まだ、終わってねぇ。


 復活できるかはわからない。声が出せるようになるかもわからない。体が動くかも、魔力が戻るかも、何一つ保証はない。

 だが——消えてはいない。


 消えてねぇ。


 暗闇に向かって、声にならない声で吠えた。


 ——聞いてんのか、クソノロマ。俺は消えてねぇぞ。お前の声が聞こえなくたってな。勇者の核がなくたって、魔王の核がなくたって——俺は俺だ。空っぽだろうが何だろうが、消えてやるもんか。


 返事はない。誰にも聞こえない。

 暗闇は変わらない。


 だが——あのかすかな鼓動は、まだ続いていた。

 バルという存在の一番深い場所で、核とは関係のない何かが——まだ脈打っている。


 * * *


 暗闇の底で、バルは再び沈黙に沈んでいく。


 だが今度は——前とは違う。

 完全な無ではない。空っぽの底に、かすかに——ほんのかすかに——熱がある。


 世界最強の魔道具。

 その看板を支えていたものが全部剥がされて。

 残ったのは、ただの意地だった。


 それが何なのかは、まだわからない。

 だが——消えていない。それだけは、確かだった。


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