第45話:目覚めの咆哮
山岳地帯を抜け、西の平原へ差し掛かった日の夕方だった。
空が広かった。
木々に遮られない地平線が遠くまで伸びていて、草原を渡る風はひんやりと冷たい。アルトとリアラは、古い石橋のたもとで野営の準備を始めていた。
苔の生えた石橋は半ば崩れ、欄干も欠けている。その下を流れる細い川が、静かな音を立てていた。
リアラが薪を拾い集めている。
アルトはその少し後ろで、周囲に意識を伸ばしていた。
(……いる)
魔物の気配ではない。
もっと不均一で、息遣いがあって、打算を持った気配。
風の向きが変わり、かすかに鉄の匂いが混じる。
「リアラ」
「ん?」
「こっちに来て。静かに」
リアラはすぐにアルトの声色の変化に気づいたらしく、何も聞かずに薪を置いた。歩幅を乱さず、音も立てずに近づいてくる。
このあたりは、もうかなり呼吸が合っていた。
次の瞬間、石橋の上と左右の茂みから、男たちが姿を現した。
「動くな」
十人近い。
粗悪な剣、メイス、短弓。泥の紋様を顔に塗った連中の目には、飢えと下卑た光が浮かんでいる。
盗賊だ。
「おいおい、ガキが二人か」
頭目らしい大柄な男が、笑いながら歩み出る。
「そのでかい袋、金になりそうだな」
アルトは剣の柄に手をかけた。
背中側で、リアラの呼吸が少し速くなるのが分かる。
魔物より面倒だ、とアルトは思った。
人間は動きが読みにくい。卑怯なことを躊躇しない。しかも今回は、守る相手が後ろにいる。
「お金も荷物も渡します」
アルトは冷静に言った。
「だから見逃してください」
「へぇ、物分かりいいじゃねぇか」
頭目がにやりと笑う。
「じゃあ荷物置いてけ。……ああ、そっちの嬢ちゃんもな」
その視線がリアラへ向いた瞬間、アルトの中で何かが冷えた。
「無理です」
「あ?」
「リアラには触らせません」
声に怒鳴りはなかった。
ただ、そこから先は通さないと告げているだけだった。
頭目の顔から笑みが消え、すぐに苛立ちが浮かぶ。
「ガキが粋がるな。やれ」
四方から盗賊たちが動いた。
* * *
アルトは強かった。
二年間で積み上げた剣技と観察眼は、粗い連携の盗賊たちを正面から上回っていた。最初の三人を一瞬で無力化し、次の二人の間合いを潰し、剣の腹と体捌きだけで地面へ転がす。
五人が倒れるまで、十秒とかからなかった。
けれど、盗賊は魔物より性質が悪い。
「おい、嬢ちゃんの方だ!」
頭目の怒鳴り声が飛んだ。
アルトではなく、背後のリアラへ狙いを変える。
その瞬間には、もうアルトは動いていた。
ナイフを振りかぶった男の腕を弾き、リアラへ伸びた手を足払いで崩し、背後から迫るもう一人の顎へ柄打ちを叩き込む。
二年前なら、間に合わなかった。
誰かの前へ立つことすらできなかった。
でも今は違う。
リアラの前に、ちゃんと立てた。
「……大丈夫?」
「う、うん」
リアラの返事を聞くより先に、アルトは次の動きへ移ろうとした。
だが——その一瞬、意識が後ろへ向いた隙を、頭目は見逃さなかった。
「もらった!」
背後からメイスがアルトの背中を捉えた。
重い衝撃が抜け、前へ吹き飛ばされる。石橋脇の地面へ叩きつけられ、視界が明滅した。
「アルト!」
「ふん。ガキはガキだ。後ろががら空きじゃねぇか」
頭目がメイスを肩に担ぎ、倒れたアルトに歩み寄る。残った盗賊三人も、にたにたと笑いながら包囲を狭めてくる。
「これ以上暴れるなら、もう容赦しねぇぞ。次は頭をカチ割ってやる」
アルトが起き上がろうとする。だが背中の衝撃がまだ抜けず、腕に力が入らない。視界が二重に揺れている。
「やめて……っ!」
リアラが叫んだ。
(また……。私のせいで、アルトが……)
あの日のことが蘇る。危険だと言われたのに前に飛び出して、アルトを危険にさらした。あの時と同じだ。自分がいるせいで、アルトが傷つく。
でも。
(違う。あの時とは違う。アルトは私を守ってくれた。今度は……私が)
リアラの中で、何かが決壊した。
恐怖ではない。怒りでもない。ただ、守りたいという一念。
「アルトに……触らないでッ!!」
ドクンッ。
リアラの瞳がエメラルドグリーンに変色した。
全身から凄まじい魔力が溢れ出す。大気が震え、地面の小石が浮き上がり、草が根こそぎ引き抜かれて宙に舞った。盗賊たちが弾き飛ばされるほどの魔力の奔流が、リアラを中心に爆発的に放出される。衝撃波が同心円状に地面を走り、砂埃が壁のように立ち上がった。
前回よりもはるかに強烈だった。前回は恐怖で暴発した。だが今回は、守りたい相手がいた。その想いが、魔力の方向を定めて放たれる。
盗賊たちは悲鳴を上げて吹き飛ばされ、地面に転がる。頭目は岩に背中をぶつけ、白目を剥いてそのまま気を失った。
* * *
リアラの魔力の波が、アルトの背中のバルに到達した瞬間。
ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ……!!
バルの中心部。あの銀色の縫い目が、突然眩い光を放ち始めた。
二年間沈黙し続けていた封印が、リアラの魔力との共鳴で、軋み始めていた。
だがアルトはまだ気づいていなかった。
朦朧とした意識の中で、最初に目に入ったのはリアラだった。
魔力の余波が収まり、リアラが膝から崩れ落ちていた。エメラルドの瞳は元のブラウンに戻っている。顔色が真っ白だ。
「リアラ……!」
アルトは背中の痛みを無視して這い寄り、リアラの肩を支えた。
「大丈夫ですか。しっかり」
「……大丈夫。アルトこそ……背中、大丈夫?」
「僕は平気です。それより……」
「平気じゃないでしょ。額から血、出てるよ」
リアラが弱々しく笑った。
アルトはその笑顔を見て、ようやく背中のバルの異変に気づいた。
「……温かい?」
背中のバッグが、脈打っていた。まるで心臓が動き出したかのように、リズミカルに、力強く。二年間ずっと冷たかった生地が、生き物のように脈動している。
バルの分厚い口が、ゆっくりと自力で開いた。
中から漏れ出したのは、微かな光と。
『…………っせぇ、な……』
声だった。
掠れていて、途切れ途切れで、かつての威勢の欠片もない弱々しい声。
だが、間違いなくあの声だった。毎晩毎晩、聞きたくて堪らなかった、あの声。
『何百年……眠らせる気だ……この……ノロマ……ッ!』
アルトの全身が震えた。
目から涙が溢れた。止められなかった。二年間、泣いてはいけないと思っていた。泣いたら弱くなると思っていた。でも、もう無理だった。
「バル……ッ! バル、お前——!」
『う……っせぇ……泣くな、ノロマ……俺様の前で泣くんじゃ……ねぇ……っ!』
バルの声が途切れる。まだ完全に目覚めたわけではない。封印の力は依然として強く、バルの意識を押さえつけようとしている。
声を絞り出すだけで、精一杯なのだ。
だが、開いた。
二年間の沈黙を破って、あの声が、帰ってきた。
アルトは涙を拭うことも忘れて、バルを強く抱きしめた。
膝が震えていた。嗚咽が止まらなかった。強くなった。Bランクの魔物を一撃で倒せるようになった。でも今、泣き崩れている自分は、あの十三歳の頃と何も変わらない。
「……お帰り、バル」
『帰っ……て、ねぇ……ただ起き……ただけだ……このっ……メソメソ野郎……がっ……』
毒舌すらまともに言えないほど弱々しいバルの声が、それでもアルトの胸を温かく満たしていく。
* * *
魔力の衝撃波で吹き飛ばされた盗賊たちは、恐怖で顔を真っ青にして逃げ去っていた。武器を捨て、仲間を引きずりながら、一目散に闇の向こうへ消えていく。
リアラはアルトの隣に座ったまま、呆然とバルを見つめていた。
「……ねえ、アルト。今、バッグが喋った……?」
『……誰だ、このガキ……。おい……ノロマ……女連れ込んで……やがったの、か……? この……ませガキ……』
「バル、黙ってていいから。無理しないで——」
『うるっ……せぇ……俺様に指図、すん……な……っ』
そこで、バルの声は完全に途切れた。
封印が再び締まったのか、バルの口が閉じ、光も消えた。
だが、バッグの表面にはまだ微かな温もりが残っていた。さっきまでの冷たい布切れとは違う。生きている温度が、確かにそこにあった。
「……バル? バル!」
返事はない。だが、前とは違う。
あの冷たい「ただの布」の感触ではない。生きている温もりが、確かにそこにあった。
アルトは、泥まみれの顔にぐしゃぐしゃの涙を浮かべたまま、笑った。
二年ぶりに、心の底から。みっともなくて、ぐちゃぐちゃで、でも今まで見せたどんな表情よりも、人間らしい笑顔だった。
「……帰ってきてくれた」
リアラは、その笑顔を見て、初めてアルトの「本当の顔」を見た気がした。




