第44話:古い観察ノート
二人旅の生活は、不思議なくらい早く形になった。
朝はアルトが夜明け前に起きて素振りをする。
リアラが起きる頃には鍋に水がかかっていて、火が熾っている。
朝食を作って、荷をまとめて、街道を歩く。
アルトが前を歩き、リアラが少し後ろをついてくる。危ない場所では自然に間合いが縮まり、何もない場所では少しだけ離れる。
夕方になれば野営地を探し、火を熾し、食事を作る。
最初の頃はアルトが一人で全部やっていたことが、今はごく自然に分担されていた。
リアラは本当に足手まといではなかった。
戦えないだけで、それ以外のことはよく見ていて、よく動く。
安全な水場を見つけるのも早いし、薪の乾き具合を見分けるのも上手い。野草の扱いにも慣れていた。
そして何より、温かいものを作るのがうまかった。
「……リアラ、料理うまいですね」
その日の夕食は、干し肉と木の実の煮込みだった。
大した材料じゃないのに、やけに染みる。
「今さら?」
リアラが笑う。
「村の酒場、たまに手伝ってたから」
「それにしたって、すごいです」
「アルトがひどすぎたんじゃないの。今まで何食べてたの」
「干し肉です」
「……毎日?」
「だいたい」
リアラは本気で嫌そうな顔をした。
「よく生きてたね」
アルトは少しだけ肩をすくめた。
実際、よく生きていたと思う。
一人の旅では、食事は腹を満たせればそれでよかった。
温かいものがあること、誰かと座って食べること、そのために火を囲むこと。そういう時間の価値を、忘れかけていた。
温かい煮込みを飲み込むたびに、張り詰めていた何かが少しだけ緩む。
それが心地よくて、でも少し怖い。
こういう感覚に慣れたら、また失った時に痛いから。
* * *
ある日の昼下がり。
街道沿いの大きな木の下で休憩を取っていた時、リアラがアルトの荷物の中からボロボロのノートを引っ張り出した。
「ねえ、これ何?」
黄ばんだ表紙。角は擦り切れ、背は何度も補修された跡がある。
アルトが慌てて手を伸ばす。
「あ、それは——」
「観察ノート?」
リアラはもう開いていた。
中には、拙い字と図がびっしりと並んでいる。
「『ゴブリン。右利きが多い。左側から入る方が通る。バルの錆びた短剣だと間合いが足りないので、次回は投擲も試す』……何これ、めっちゃ細かい」
アルトは少し赤くなった。
「最初の頃のです」
「最初からこんなの書いてたの?」
「書かないと死ぬので」
リアラが次のページをめくる。
「『刃こぼれした槍。柄は長いが重心が前に寄りすぎている。振り回すより、突きか支えに使う方がいい』」
さらに次のページ。
「『折れた戦斧。斧としては失格。でも欠けた側を前にして使うと、一応受けに使える気がする』」
リアラが顔を上げた。
「アルト、必死だったんだね」
茶化しではなかった。
ただそう思った、という声音だった。
「……選べなかったので」
「うん」
リアラはまたページをめくる。
そこには、戦闘メモ以外の走り書きも混じっていた。
ユートの剣筋について。
ミラの詠唱パターンについて。
バルの機嫌と武器の質の関係について。
「『ユートさんの横薙ぎは、最後に手首を返す。あれで威力が乗ってる気がする。真似したい』」
「『ミラさんの魔法は、最初の音で属性、次で出力が決まるっぽい。怖いくらい頭の回転が速い』」
「『バルは絶対、僕に合わせて武器を出してる時がある。言わないけど。絶対言わないけど、分かってる』」
リアラの目が少しやわらかくなる。
「……アルト、この頃からちゃんと見てたんだ」
さらにページが進み、あるところで手が止まった。
欄外に、小さな字で書かれていた。
——『今日もみんな無事だった。明日もこの四人で旅を続けたい』
風がページを揺らした。
リアラは黙ってその行を見ていたが、やがてそっとノートを閉じる。
「……ごめん。見すぎた」
「いえ」
アルトはノートを受け取った。
表紙の擦り切れた角を、親指でなぞる。
あの頃の字は今より丸くて、少し幼い。
でも間違いなく、自分の字だった。
あの十三歳の自分と、今の自分は繋がっている。
失ったものばかりじゃない。今も体の中に残っているものがある。
「……いい仲間だったんだね」
リアラが小さく言う。
「はい」
アルトは頷いた。
「だから探すんです。何年かかっても」
リアラは少しだけ目を伏せて、それから笑った。
「そっか」
その返事は短かった。
けれど、妙にあたたかかった。
* * *
その日の夕方。
野営地で火を熾し終えたあと、アルトは少し離れた場所でノートを開いていた。
焚き火の向こうでは、リアラが鍋を見ている。
火の光の中に、その横顔がある。
アルトはさっき読まれたページを見返した。
四人で旅をしていた頃の、自分の字。
明日もこの四人で旅を続けたい——そう書いた日の気持ちを、まだ覚えている。
失ってからの二年間、その行をまともに見返せなかった。
見ると息が詰まるから。
でも今日は、少しだけ違った。
痛みはある。ちゃんとある。
それでも、ノートを閉じたあと、最初に感じたのは昔の寂しさじゃなかった。
焚き火の向こうに、誰かがいる。
今、ここに。
「アルト、どうしたの?」
リアラが鍋をかき混ぜながら聞く。
「……いえ」
アルトはノートを丁寧に閉じた。
「なんでもないです」
そして、荷物のいちばん大事な場所にしまう。
あの日書いた「明日もこの四人で旅を続けたい」という願いは、まだ叶っていない。
でも今は、隣に五人目がいた。




