表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『ノロマ、死ぬなよ』〜毒舌カバンと最弱少年の英雄譚〜  作者: 塩とわかめ
第二章:沈黙の相棒と、孤独な剣士の反撃
39/82

第35話:二年の空白。最弱と呼ばれた少年の今

 ——もう二年にもなる。


 薄暗い酒場の片隅で、青年は一人、木のジョッキに口をつけた。

 安物のエールは相変わらず不味い。だが、味なんてとうの昔にどうでもよくなった。


 酒場は賑わっていた。冒険者と傭兵と商人が入り混じり、煙草の煙と安酒の匂いが天井近くで渦を巻いている。壁には使い古された冒険者の寄せ書きが何枚も貼りつけてあり、カウンターの奥では酒場の主人が汗を拭きながら樽からエールを注いでいる。

 喧騒の中に、笑い声と怒鳴り声と、時折グラスが割れる音。

 この手の店は、どの街でもだいたい同じだった。二年間、剣一本で大陸を渡り歩いてきたアルトには、もう見慣れた光景だ。


 青年の名はアルト。

 かつて冒険者ギルドの最底辺で、震えながら薬草を摘んでいた十三歳の少年の面影は、もうどこにもない。

 ライトアッシュグレーの短髪は無造作に伸び、やや鋭さを増した目元には、年齢以上の疲弊が刻まれている。小柄な体躯は変わらないが、纏う空気が違う。静かで、冷たく、隙がなかった。

 酒場の騒がしさの中にいても、この青年だけがどこか切り離されているように見える。周囲のざわめきが、ガラスの壁一枚を隔てた向こう側の出来事みたいに遠い。

 そして、その背中にはあの頃と変わらず——不釣り合いなほど巨大な、黄色い肩がけバッグが背負われている。


 酒場の喧騒が、耳の奥でぼんやりと響いていた。


「おい兄ちゃん、そのでっかいカバン邪魔なんだけど?」


 酒場の奥から、酔った荒くれ者が肩を揺らしながら近づいてきた。傭兵崩れだろう、腰に無骨な剣を提げている。顎に無精髭を生やした大柄な男で、目が据わっている。酒の匂いが、数歩手前から鼻を突いた。

 アルトはジョッキから口を離さなかった。


「聞いてんのか。退くか、その黄色いゴミ袋をどけるか、好きな方を選べよ」


 男がアルトの肩を掴もうとした。

 しかしその手は、空を切った。

 アルトは微動だにしていないように見えた。だが、男の手が触れる寸前にほんのわずかに身を逸らしただけで、酔っ払いの腕は虚空を掻いたのだ。


「——触らないでください」


 低く、平坦な声だった。怒りも恐怖もない、ただそこに事実だけを置くような声。

 二年前のアルトなら、あの頃なら——「す、すみません!」と縮こまって席を譲っていただろう。「ひぃっ」と声を上げて、テーブルの下に潜り込んでいたかもしれない。

 でも、今は違う。

 荒くれ者の背筋に、酔いでは説明できない悪寒が走った。この小柄な若者の纏う空気に、本能的な何かが警鐘を鳴らしている。


「な、なんだよ……気持ち悪りぃガキだな……」


 男は舌打ちをして離れていった。

 周囲の冒険者たちが一瞬だけアルトを見て、すぐに目を逸らした。関わりたくない——そんな判断が、酒場の空気から読み取れた。


 アルトはそれ以上視線を向けることなく、背中のバッグ——バルに、そっと手を触れた。

 黄色い生地は冷たかった。かつては魔力を食らう度に妙に温かくなっていた生地が、今はただの布と変わらない。

 返事はない。もう二年間、一度も。


「……今日もダメだったよ、バル。ユートさんの手がかりも、ミラさんの情報も、何も見つからなかった」


 独り言のように呟く。声は酒場の喧騒に溶けて、誰の耳にも届いていない。

 黄色いバッグは沈黙したままだった。あの毒舌も、理不尽な悪態も、何一つ返ってこない。

 アルトはそれでも毎晩、こうしてバルに話しかけることをやめなかった。


「……また明日な」


 ジョッキを空にしたアルトは、銅貨を三枚カウンターに置いて酒場を後にした。

 夜風が冷たかった。見上げると、通りの向こうに細い月が浮かんでいる。街の灯りが滲む夜空に、星はほとんど見えない。

 背中のバルの重みだけが、唯一の温もり——いや、もう温もりですらない。ただの重さだった。それでもアルトは、この重さを下ろそうと思ったことは一度もない。


 * * *


 翌朝。ギルドの依頼掲示板の前で、アルトは一枚の紙を剥がし取った。

 朝の支部は混み合っていた。依頼書を品定めするパーティや、仲間と作戦を練り合う冒険者たち。二人組、三人組、多いところは五人。誰もが仲間と声を掛け合いながら掲示板を見ている。

 その中で、一人だけの影。


『街道北の廃鉱付近に大型魔物出没。討伐求む。推奨ランク:B以上。報酬:金貨八枚』


 Bランク推奨。かつてのアルトなら見向きもできない高難度の依頼だ。

 受付の女性が心配そうに声をかける。


「あの……ソロで受けるんですか? この魔物、かなり凶暴で……パーティを組まれた方が——」


「大丈夫です」


 アルトは短く答え、ギルドを出た。

 背後で受付の女性が何か言いかけたが、アルトの足は止まらなかった。


 * * *


 街を出ると、街道は次第に荒れていった。

 石畳が途切れ、踏み固められた土の道になり、やがてそれも草に呑まれていく。廃鉱に近づくにつれ、辺りの空気が変わった。木々は葉を落とし、地面には灰色の苔が這っている。魔力が淀んだ土地に見られる特有の荒廃だった。

 鳥の声が消えた。風の匂いに、かすかに鉄錆の混じったような不快な気配が混じる。


 廃鉱の入り口に辿り着いたのは、昼過ぎのことだった。

 崩れかけた木の支柱が、洞窟の口を骨格のように支えている。内側からは冷たい風が吹き出しており、その奥で低く唸るような振動が伝わってくる。大型の魔物——報告書によれば、岩の体表を持つ『鉄甲熊アイアンベア』。通常の剣では傷一つつけられない装甲を持ち、Bランクパーティでも苦戦する難敵だ。


 アルトは無言で腰の剣を抜いた。

 それはバルから引き出した武器ではない。旅の途中で手に入れた、何の変哲もない鋼の直剣だった。バルが沈黙してからの二年間、アルトは自分の力だけで戦い続けてきた。

 剣の柄を握りしめ、洞窟に足を踏み入れる。暗闇が、飲み込むようにアルトを包む。


 闇の奥から、地響きと共に巨大な影が突進してきた。

 鉄甲熊。全長四メートルを超える巨躯に岩のような装甲。開かれた口から覗く牙は、鉄板すら噛み砕く。洞窟の壁を弾き飛ばしながらの突進で、岩の欠片が砕け散り、粉塵が視界を覆う。


 かつてのアルトなら——間違いなく腰を抜かしていた。

 ゴブリンですら怖かった。スライムにだって囲まれたら泣きそうだった。


 だが、今のアルトは違う。

 粉塵の向こうから突進してくる鉄甲熊の軌道を、その鋭い目が一瞬で読み取っていた。


(右前脚が僅かに外側に開いている——突進のあと、左に旋回する。装甲の継ぎ目は……首の付け根、右側に二箇所)


 観察眼。

 二年前と変わらないアルトの最大の武器。だが、それを活かす『力』が、今のアルトにはあった。


 鉄甲熊の突進を紙一重で躱しながら、アルトは直剣の刃に意識を集中させた。

 刀身が淡い青白い光を帯びる。空気が震え、剣の周囲に目に見えない力場が形成される。


 ——魔法剣。


 バルの魔力武器を何年も使い続けたことで体に染みついた「魔力を直接扱う感覚」と、ミラの魔法を観察し続けたことで理解した「魔力運用の理論」。その二つが掛け合わさった、どの種族の常識にも属さない、アルトだけの技。

 本来、人間が魔道具なしに魔力を直接操作するなんて、それだけで常識外れのことだ。

 だが、アルトにはそんな自覚はない。ただ生き残るために、必死に試行錯誤を繰り返した結果が——この光だった。


「——斬る」


 静かな宣言と共に、アルトの直剣が弧を描いた。

 青白い魔力を纏った刃が、鉄甲熊の装甲の継ぎ目を正確に捉える。

 通常の剣では弾かれる岩の装甲が、魔力の刃の前では紙のように裂けた。


 グォォォッ……!


 致命傷を負った鉄甲熊が、断末魔の咆哮を上げて崩れ落ちた。洞窟全体が揺れ、天井から砂が降り注ぐ。

 その残響が消える前に、アルトは血振りをして剣を鞘に収めていた。表情は変わらない。心拍も乱れていない。


 かつて、ゴブリン一匹に腰を抜かしていた少年。

 バルの変な武器がなければ何もできなかった少年。

 その少年が今、Bランクの魔物を単独で、一撃で仕留めた。


 ——だが、そこに喜びはなかった。


 強くなった。間違いなく。

 しかし、その強さを認めてくれる仲間はいない。

 バルの「まだ雑だな、ノロマ」も、ミラの「ちょっとはやるじゃない」も、ユートの「よくやった」も、もう聞こえない。

 洞窟の中に響くのは、鉄甲熊の体が崩れる音と、アルトの静かな足音だけだった。


 アルトは廃鉱を出ると、沈み始めた太陽を見上げた。

 西の空が赤く燃えている。枯れた木々のシルエットが、燃える空を切り裂くように黒く浮かび上がっていた。

 その目は、強く——そして、どこまでも寂しかった。


 * * *


 ギルドに戻り、報酬を受け取る。受付嬢が驚いた顔で「もう終わったんですか!?」と声を上げたが、アルトは小さく頷いただけだった。

 周囲の冒険者たちが、ちらちらとこちらを見ている。あのソロの若者が、Bランク依頼を半日で片づけて帰ってきた——そんなひそひそ声が聞こえる。だが、誰も声をかけてはこない。声をかけていい空気を、この青年は纏っていない。


 宿屋に戻り、質素な夕食を済ませる。

 干し肉と硬いパンと、薄いスープ。味はしない。いや、するのかもしれないが、もうどうでもよかった。腹を満たせばそれでいい。明日も戦える体を維持するための燃料、それ以上でもそれ以下でもない。


 ベッドに腰掛け、バルを膝の上に置く。

 ランプの灯りが、黄色いバッグの表面をオレンジ色に照らした。縫い目のところにうっすら残る銀色の紋様が、光を受けて微かに光って見える。あの白い光が残した修復の跡だ。

 二年間で習慣になった、夜の「報告」の時間だ。


「今日は鉄甲熊を一匹倒した。魔法剣の出力はだいぶ安定してきたけど……まだ、制御が甘い。もっと鍛えないと」


 沈黙。


「この街にも手がかりはなかった。次は西の山岳地帯に行ってみる。……どこかに、いるはずなんだ」


 沈黙。


「お前さ、いい加減起きてくれよ。一人で喋ってると、馬鹿みたいだろ」


 声が、少しだけ震えた。

 十五歳の少年が、暗い宿屋の一室で、黄色いバッグに話しかけている。もし誰かが見ていたら、おかしな奴だと思うだろう。

 でも、アルトにとってはこれが唯一の——仲間との時間だった。


 アルトは黄色いバッグを抱きしめるように抱え、灯りを消した。


 暗闇の中、目を閉じると——脳裏に浮かぶのは、いつもあの日の光景だった。


 爆風に吹き飛ばされ、崖を越えて落ちていく中で見えた、ユートの顔。

 血まみれで、ディアルの腕を掴んだまま——それでも、笑っていた。

 口が動いた。「生きろ」と。

 そしてミラの叫び声。バルの最後の咆哮。

 何もできないまま、激流に呑まれた自分。


(もう二度と、あんな思いはしない)

(強くなる。全部取り戻すまで、絶対に止まらない)


 十五歳のアルトは、暗い天井を見つめながら静かに拳を握った。

 窓の外で、細い月が雲に隠れていく。

 孤独な旅は、まだ終わらない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ