第35話:二年の空白。最弱と呼ばれた少年の今
——もう二年にもなる。
薄暗い酒場の片隅で、青年は一人、木のジョッキに口をつけた。
安物のエールは相変わらず不味い。だが、味なんてとうの昔にどうでもよくなった。
酒場は賑わっていた。冒険者と傭兵と商人が入り混じり、煙草の煙と安酒の匂いが天井近くで渦を巻いている。壁には使い古された冒険者の寄せ書きが何枚も貼りつけてあり、カウンターの奥では酒場の主人が汗を拭きながら樽からエールを注いでいる。
喧騒の中に、笑い声と怒鳴り声と、時折グラスが割れる音。
この手の店は、どの街でもだいたい同じだった。二年間、剣一本で大陸を渡り歩いてきたアルトには、もう見慣れた光景だ。
青年の名はアルト。
かつて冒険者ギルドの最底辺で、震えながら薬草を摘んでいた十三歳の少年の面影は、もうどこにもない。
ライトアッシュグレーの短髪は無造作に伸び、やや鋭さを増した目元には、年齢以上の疲弊が刻まれている。小柄な体躯は変わらないが、纏う空気が違う。静かで、冷たく、隙がなかった。
酒場の騒がしさの中にいても、この青年だけがどこか切り離されているように見える。周囲のざわめきが、ガラスの壁一枚を隔てた向こう側の出来事みたいに遠い。
そして、その背中にはあの頃と変わらず——不釣り合いなほど巨大な、黄色い肩がけバッグが背負われている。
酒場の喧騒が、耳の奥でぼんやりと響いていた。
「おい兄ちゃん、そのでっかいカバン邪魔なんだけど?」
酒場の奥から、酔った荒くれ者が肩を揺らしながら近づいてきた。傭兵崩れだろう、腰に無骨な剣を提げている。顎に無精髭を生やした大柄な男で、目が据わっている。酒の匂いが、数歩手前から鼻を突いた。
アルトはジョッキから口を離さなかった。
「聞いてんのか。退くか、その黄色いゴミ袋をどけるか、好きな方を選べよ」
男がアルトの肩を掴もうとした。
しかしその手は、空を切った。
アルトは微動だにしていないように見えた。だが、男の手が触れる寸前にほんのわずかに身を逸らしただけで、酔っ払いの腕は虚空を掻いたのだ。
「——触らないでください」
低く、平坦な声だった。怒りも恐怖もない、ただそこに事実だけを置くような声。
二年前のアルトなら、あの頃なら——「す、すみません!」と縮こまって席を譲っていただろう。「ひぃっ」と声を上げて、テーブルの下に潜り込んでいたかもしれない。
でも、今は違う。
荒くれ者の背筋に、酔いでは説明できない悪寒が走った。この小柄な若者の纏う空気に、本能的な何かが警鐘を鳴らしている。
「な、なんだよ……気持ち悪りぃガキだな……」
男は舌打ちをして離れていった。
周囲の冒険者たちが一瞬だけアルトを見て、すぐに目を逸らした。関わりたくない——そんな判断が、酒場の空気から読み取れた。
アルトはそれ以上視線を向けることなく、背中のバッグ——バルに、そっと手を触れた。
黄色い生地は冷たかった。かつては魔力を食らう度に妙に温かくなっていた生地が、今はただの布と変わらない。
返事はない。もう二年間、一度も。
「……今日もダメだったよ、バル。ユートさんの手がかりも、ミラさんの情報も、何も見つからなかった」
独り言のように呟く。声は酒場の喧騒に溶けて、誰の耳にも届いていない。
黄色いバッグは沈黙したままだった。あの毒舌も、理不尽な悪態も、何一つ返ってこない。
アルトはそれでも毎晩、こうしてバルに話しかけることをやめなかった。
「……また明日な」
ジョッキを空にしたアルトは、銅貨を三枚カウンターに置いて酒場を後にした。
夜風が冷たかった。見上げると、通りの向こうに細い月が浮かんでいる。街の灯りが滲む夜空に、星はほとんど見えない。
背中のバルの重みだけが、唯一の温もり——いや、もう温もりですらない。ただの重さだった。それでもアルトは、この重さを下ろそうと思ったことは一度もない。
* * *
翌朝。ギルドの依頼掲示板の前で、アルトは一枚の紙を剥がし取った。
朝の支部は混み合っていた。依頼書を品定めするパーティや、仲間と作戦を練り合う冒険者たち。二人組、三人組、多いところは五人。誰もが仲間と声を掛け合いながら掲示板を見ている。
その中で、一人だけの影。
『街道北の廃鉱付近に大型魔物出没。討伐求む。推奨ランク:B以上。報酬:金貨八枚』
Bランク推奨。かつてのアルトなら見向きもできない高難度の依頼だ。
受付の女性が心配そうに声をかける。
「あの……ソロで受けるんですか? この魔物、かなり凶暴で……パーティを組まれた方が——」
「大丈夫です」
アルトは短く答え、ギルドを出た。
背後で受付の女性が何か言いかけたが、アルトの足は止まらなかった。
* * *
街を出ると、街道は次第に荒れていった。
石畳が途切れ、踏み固められた土の道になり、やがてそれも草に呑まれていく。廃鉱に近づくにつれ、辺りの空気が変わった。木々は葉を落とし、地面には灰色の苔が這っている。魔力が淀んだ土地に見られる特有の荒廃だった。
鳥の声が消えた。風の匂いに、かすかに鉄錆の混じったような不快な気配が混じる。
廃鉱の入り口に辿り着いたのは、昼過ぎのことだった。
崩れかけた木の支柱が、洞窟の口を骨格のように支えている。内側からは冷たい風が吹き出しており、その奥で低く唸るような振動が伝わってくる。大型の魔物——報告書によれば、岩の体表を持つ『鉄甲熊』。通常の剣では傷一つつけられない装甲を持ち、Bランクパーティでも苦戦する難敵だ。
アルトは無言で腰の剣を抜いた。
それはバルから引き出した武器ではない。旅の途中で手に入れた、何の変哲もない鋼の直剣だった。バルが沈黙してからの二年間、アルトは自分の力だけで戦い続けてきた。
剣の柄を握りしめ、洞窟に足を踏み入れる。暗闇が、飲み込むようにアルトを包む。
闇の奥から、地響きと共に巨大な影が突進してきた。
鉄甲熊。全長四メートルを超える巨躯に岩のような装甲。開かれた口から覗く牙は、鉄板すら噛み砕く。洞窟の壁を弾き飛ばしながらの突進で、岩の欠片が砕け散り、粉塵が視界を覆う。
かつてのアルトなら——間違いなく腰を抜かしていた。
ゴブリンですら怖かった。スライムにだって囲まれたら泣きそうだった。
だが、今のアルトは違う。
粉塵の向こうから突進してくる鉄甲熊の軌道を、その鋭い目が一瞬で読み取っていた。
(右前脚が僅かに外側に開いている——突進のあと、左に旋回する。装甲の継ぎ目は……首の付け根、右側に二箇所)
観察眼。
二年前と変わらないアルトの最大の武器。だが、それを活かす『力』が、今のアルトにはあった。
鉄甲熊の突進を紙一重で躱しながら、アルトは直剣の刃に意識を集中させた。
刀身が淡い青白い光を帯びる。空気が震え、剣の周囲に目に見えない力場が形成される。
——魔法剣。
バルの魔力武器を何年も使い続けたことで体に染みついた「魔力を直接扱う感覚」と、ミラの魔法を観察し続けたことで理解した「魔力運用の理論」。その二つが掛け合わさった、どの種族の常識にも属さない、アルトだけの技。
本来、人間が魔道具なしに魔力を直接操作するなんて、それだけで常識外れのことだ。
だが、アルトにはそんな自覚はない。ただ生き残るために、必死に試行錯誤を繰り返した結果が——この光だった。
「——斬る」
静かな宣言と共に、アルトの直剣が弧を描いた。
青白い魔力を纏った刃が、鉄甲熊の装甲の継ぎ目を正確に捉える。
通常の剣では弾かれる岩の装甲が、魔力の刃の前では紙のように裂けた。
グォォォッ……!
致命傷を負った鉄甲熊が、断末魔の咆哮を上げて崩れ落ちた。洞窟全体が揺れ、天井から砂が降り注ぐ。
その残響が消える前に、アルトは血振りをして剣を鞘に収めていた。表情は変わらない。心拍も乱れていない。
かつて、ゴブリン一匹に腰を抜かしていた少年。
バルの変な武器がなければ何もできなかった少年。
その少年が今、Bランクの魔物を単独で、一撃で仕留めた。
——だが、そこに喜びはなかった。
強くなった。間違いなく。
しかし、その強さを認めてくれる仲間はいない。
バルの「まだ雑だな、ノロマ」も、ミラの「ちょっとはやるじゃない」も、ユートの「よくやった」も、もう聞こえない。
洞窟の中に響くのは、鉄甲熊の体が崩れる音と、アルトの静かな足音だけだった。
アルトは廃鉱を出ると、沈み始めた太陽を見上げた。
西の空が赤く燃えている。枯れた木々のシルエットが、燃える空を切り裂くように黒く浮かび上がっていた。
その目は、強く——そして、どこまでも寂しかった。
* * *
ギルドに戻り、報酬を受け取る。受付嬢が驚いた顔で「もう終わったんですか!?」と声を上げたが、アルトは小さく頷いただけだった。
周囲の冒険者たちが、ちらちらとこちらを見ている。あのソロの若者が、Bランク依頼を半日で片づけて帰ってきた——そんなひそひそ声が聞こえる。だが、誰も声をかけてはこない。声をかけていい空気を、この青年は纏っていない。
宿屋に戻り、質素な夕食を済ませる。
干し肉と硬いパンと、薄いスープ。味はしない。いや、するのかもしれないが、もうどうでもよかった。腹を満たせばそれでいい。明日も戦える体を維持するための燃料、それ以上でもそれ以下でもない。
ベッドに腰掛け、バルを膝の上に置く。
ランプの灯りが、黄色いバッグの表面をオレンジ色に照らした。縫い目のところにうっすら残る銀色の紋様が、光を受けて微かに光って見える。あの白い光が残した修復の跡だ。
二年間で習慣になった、夜の「報告」の時間だ。
「今日は鉄甲熊を一匹倒した。魔法剣の出力はだいぶ安定してきたけど……まだ、制御が甘い。もっと鍛えないと」
沈黙。
「この街にも手がかりはなかった。次は西の山岳地帯に行ってみる。……どこかに、いるはずなんだ」
沈黙。
「お前さ、いい加減起きてくれよ。一人で喋ってると、馬鹿みたいだろ」
声が、少しだけ震えた。
十五歳の少年が、暗い宿屋の一室で、黄色いバッグに話しかけている。もし誰かが見ていたら、おかしな奴だと思うだろう。
でも、アルトにとってはこれが唯一の——仲間との時間だった。
アルトは黄色いバッグを抱きしめるように抱え、灯りを消した。
暗闇の中、目を閉じると——脳裏に浮かぶのは、いつもあの日の光景だった。
爆風に吹き飛ばされ、崖を越えて落ちていく中で見えた、ユートの顔。
血まみれで、ディアルの腕を掴んだまま——それでも、笑っていた。
口が動いた。「生きろ」と。
そしてミラの叫び声。バルの最後の咆哮。
何もできないまま、激流に呑まれた自分。
(もう二度と、あんな思いはしない)
(強くなる。全部取り戻すまで、絶対に止まらない)
十五歳のアルトは、暗い天井を見つめながら静かに拳を握った。
窓の外で、細い月が雲に隠れていく。
孤独な旅は、まだ終わらない。




