第36話:孤独な旅路
アルトが冒険者として本格的に旅を始めてから、もう二年近くが経つ。
——あの激流に飲まれ、目を覚ましたのは名前も知らない辺境の岸辺だった。全身の骨が軋み、擦り傷だらけで、喉の奥には泥水の味が残っていた。
隣には、沈黙したバルだけがあった。
あの日から、アルトは歩き続けている。
来る日も来る日も、一人で。
* * *
次の街へ向かう山道を、アルトは黙々と歩いていた。
早朝の空気は冷たく、息が白く曇る。背中のバルの重みだけが、いつも通りそこにある。足元の土は夜露で湿り、枯れ葉を踏むたびに柔らかい音が林の中に消えていく。
山道は勾配がきつく、曲がりくねっていた。左手は切り立った崖、右手は暗い針葉樹の森。時折、遠くで鳥が鳴くのが聞こえるが、それ以外は自分の足音と、風が木々の間を通り抜ける音だけだった。
ここ数ヶ月、アルトは大陸の東側を中心に回っていた。各地のギルドに立ち寄り、依頼をこなしながら情報を集めている。探しているのは二つ。ユートの消息と、ミラの行方だ。
しかし、手がかりはほとんどなかった。
ユートに関しては、完全に消息が途絶えている。あの崖の上で何が起きたのか——ディアルがユートをどうしたのか——アルトには知る術がなかった。崖から落ちる直前、ユートが笑っていた顔だけが記憶に焼きついている。生きていてほしい。だが、あの状況では……。
考えるたびに、胸の奥がぎしりと軋む。だからアルトは、考えすぎないようにしていた。考える暇があったら、一つでも多くの街を回る。一人でも多くの人に聞き込みをする。足を動かしている方が、ずっと楽だった。
ミラについては、時折「赤い髪の魔法使い」の目撃情報が耳に入ることがあったが、いつも後を追えば消えている。ミラもまた、何かを追っているのだろう。あの人のことだから、一人で無茶をしているに違いない。
山道の途中、ふと足を止めた。
道の脇に、小さな花が咲いていた。淡い紫の、どこにでもある野花だ。薄い花弁が朝露に濡れて、微かに光を弾いている。
(——ミラさんなら、綺麗だって言うんだろうな)
ほんの一瞬だけ、かつての旅の風景がよぎった。
ミラが「この花、薬草よ! 採っときなさいよアルト!」と命令口調で指差す横で、ユートが「ミラ、それは薬草じゃなくてただの雑草だ」と苦笑していた光景。バルが『花より飯だ! 早く魔物を探せノロマ!』と喚いていた声。
四人の旅路は、いつも賑やかだった。くだらない口喧嘩と、ユートの苦笑と、バルの理不尽な悪態。うるさくて、面倒で——でも、あの時間がどれだけ幸せだったか、失ってようやく分かった。
アルトは花から目を逸らし、再び歩き出した。
振り返らない。振り返ったら、立ち止まってしまいそうで。
* * *
昼過ぎに小さな宿場町に辿り着いた。
街道の分岐点にあたる小さな集落で、木造の家屋が二十軒ほどと、旅人向けの宿が一つ、酒場が一つ。街と呼ぶには小さすぎるが、ギルドの出張所がある分、辺境の村よりはましだった。
通りを歩く人の数は少ない。すれ違う住民たちの表情にどこか影が差しているのに、アルトは気づいていた。
ギルドの出張所で依頼を確認する。魔物討伐が数件。周辺の治安は悪化し始めているらしい。
掲示板には、赤い「要注意」の紙が何枚も貼られていた。一年前はこんなに多くなかったはずだ。
受付の老人が、書類を整理しながらぼやいた。
「最近は妙な話が多くてなぁ。東の貿易都市じゃ魔族らしき影が目撃されたとか、北の国境付近で原因不明の土地の荒廃が広がっとるとか……。魔王が倒されてもう三年以上経つのに、魔物はむしろ増える一方だ」
「……魔族の、影?」
アルトの声に、わずかな鋭さが混じった。
老人は気づかなかったが、アルトの手が無意識に腰の剣に触れていた。
「ああ。まあ噂の域を出ないがね。——おっと、坊主には関係ない話か。ほれ、Cランクの討伐依頼ならこの三つだ」
老人が差し出した依頼書を受け取りながら、アルトの脳裏にはあの男の顔がよぎっていた。
漆黒の髪。感情の抜け落ちた瞳。路傍の石を見るような視線。あの圧倒的な力量差。手足をもぐように腕を振っただけで、ユートの剣を弾き飛ばした男。
(ディアル……あいつは今、何をしている)
アルトは拳を握りしめた。あの時感じた圧倒的な絶望と無力感は、二年経った今でも体の芯に刻まれている。
だが、もうあの頃の自分ではない。あの絶望が、今の自分を作った。
受け取った三件の依頼を全てこなしたのは、夕方前のことだった。
Cランクの魔物相手では、もはや魔法剣を使う必要すらなかった。観察眼で弱点を見切り、通常の剣技だけで十分だ。一体目は森の中のワーウルフ。二体目は川辺に巣を作っていたスワンプリザード。三体目は農地を荒らしていたロックイーター。それぞれ数分で片がついた。
近くの小川で血糥を洗い流し、服の泥を落としてから宿場町に戻ると、受付の老人が目を丸くした。
「三件とも……もう終わったのか? 坊主、一体どこでそんな腕を——」
「ありがとうございます。報酬、お願いします」
アルトは感情を出さずに金貨を受け取り、宿屋へ向かった。
老人の視線を背中に感じながら、アルトは何も思わなかった。驚かれることには慣れた。驚いてくれたところで、嬉しくもない。
* * *
「——あの激流に落ちた後のこと、話したっけ」
宿屋の部屋で、アルトはベッドに寝転びながらバルに語りかけていた。もう聞こえていないと分かっていても、この習慣だけはやめられない。
天井の板は黒ずんでいて、隅に蜘蛛の巣が張っていた。窓の外から虫の声が微かに聞こえる。ランプの灯りが壁に暖かな影を揺らしているが、部屋の空気は冷えていた。
「目が覚めたら、知らない川岸だった。全身が痛くて、まともに起き上がれなくて……お前を抱えて、這うようにして歩いたんだ」
天井を見上げながら、あの日々を思い出す。
あの岸辺の冷たさは、今でも夢に見る。
「三日くらい彷徨って、ようやく小さな村に辿り着いた。村の人たちが助けてくれたけど……僕は何も話せなかった。ユートさんのことも、ミラさんのことも。話したら、全部本当になっちゃう気がして」
声が、少しだけ落ちた。
「でも、いつまでも寝てるわけにはいかなかった。強くならないとって……そう思って、村の近くに住んでた元冒険者のじいさんに頭を下げたんだ。剣を教えてくださいって」
バルの生地を、指先で撫でる。
銀色の紋様がランプの光を受けて、微かに光って見える。
「そのじいさんのことは……また今度話すよ。とにかく、そこから全部始まった。剣と、魔力操作と、観察ノートと。全部ゼロからやり直したんだ」
アルトは身を起こし、枕元に置いたバッグの口を覗き込んだ。
中は暗く、冷たい。かつてはこの中に手を突っ込めば、バルの生成した変な武器が飛び出してきたのに。錆びた短剣とか、刃こぼれした槍とか、使い道のさっぱり分からない謎の棍棒とか。ろくでもない武器ばかりだったけど——今はそのろくでもなさすら懐かしい。
「……早く起きろよ、バル。お前がいないと、僕の武器はただの鋼の剣しかないんだぞ。お前の変な武器じゃないと、あの……なんて言うんだろ、ちぐはぐな感じがなくて、逆にやりにくい」
冗談を言おうとした。でも笑えなかった。
沈黙だけが返ってきた。
アルトは灯りを消す前に、ベッドの脇に置いた古いノートを手に取った。
表紙はボロボロで、角は擦り切れている。二年前——いや、冒険者になった最初の頃から書き続けている『観察ノート』だ。書き足しを繰り返して分厚くなった一冊は、背表紙が半分剥がれかけていた。
今夜書き加えるのは、今日戦った魔物の行動パターンと、宿場町で聞いた「魔族の影」の噂。
インク瓶の蓋を開け、羽根ペンで丁寧に書き込んでいく。文字は細かく、整っていた。二年間、毎日書き続けた成果だ。
ページをめくると、過去の記録が目に入った。ミラの魔法の発動パターンを細かく記したページ。ユートの剣筋と足運びをスケッチしたページ。バルの武器ごとの重心と特性をまとめたページ。
インクの色が古いものは褐色になりかけていて、新しいものは黒い。二年という時間が、ページの色に刻まれていた。
かつての仲間たちの戦い方が、このノートの中には生きている。
アルトの『魔法剣』は、このノートなしには生まれなかった。ミラの魔力運用の理論と、バルの武器を通じて感じた魔力の直接操作。その二つをノートに書き出し、分析し、試行錯誤して辿り着いた、アルトだけの技だ。
仲間は今ここにいない。でも、仲間が残してくれたものは、自分の中に確かに生きている。
「……明日は西に向かう。山岳地帯の先に、もう少し大きな街がある。そこなら、何か分かるかもしれない」
ノートを閉じ、灯りを消した。
暗闇の中で、アルトは静かに目を閉じる。
明日もまた、一人で歩く。
手がかりを探して。仲間を見つけるまで。
同じ朝が来て、同じように剣を振って、同じように宿屋でバルに語りかけて眠る。その繰り返しだ。退屈でもいい。辛くてもいい。
それでも——あの日の決意は、一日たりとも揺らいでいなかった。




