幕間 第4話:沈黙の底で
暗い。
どこまでも、暗い。
音もない。光もない。温度すらない。
無限に広がる虚無の底に、ぽつんと一つだけ、かすかな意識の欠片が沈んでいた。
——俺は、誰だ?
その問いすら、もう何度目かわからない。
暗闇の中で、意識はゆらゆらと揺れている。覚醒と消滅の間を行ったり来たりしながら、形を保つことすら危うい状態で。
ここは、バッグの内側だった。
黄色い布地の裏側。かつて魔物を呑み込み、魔力を喰らい、武器を吐き出していた場所。だが今は、あの銀色の魔力によって厳重に封印され、何も出入りできない閉じた空間になってしまっている。
——俺は……バル、だ。
名前を思い出す。
それだけで、暗闇の中の「自分」が少しだけ確かなものになった気がした。
バル。
喋るバッグ。毒舌で、わがままで、大飯食いで、偉そうで——
(……俺は、何をしていた?)
記憶が、ぼやけている。
断片的な映像が、暗闇の中で明滅する。
ゴブリンの酸っぱい魔力の味。錆びた短剣をビビりながら振るう小さな手。焚き火の横で必死にノートに何かを書き込んでいる少年の横顔——
(……アル、ト……?)
名前が浮かんだ途端、意識の輪郭が急に鮮明になった。
アルト。あの臆病で、鈍くて、ノロマで——だけど、なぜか手を離してやれないガキ。
(そうだ。俺はあいつの……)
だが、思い出そうとすればするほど、銀色の封印が意識を押さえつけてくる。まるで、目覚めることそのものを禁じるように。思考の輪郭がぼやけ、名前が溶け、感覚が遠のいていく。
(くそ……何だよ、この……っ!)
毒を吐こうにも、喉がない。叫ぼうにも、口がない。
バルという存在は今、自分の身体の中に閉じ込められた「ただの意識」でしかなかった。
* * *
時間の感覚がない。
一瞬だったのか、何ヶ月だったのかもわからない暗闇の中で——ふと、外から何かが聞こえた気がした。
——……る。
声だ。
銀色の封印越しに、外の世界の音が、ほんのかすかに漏れ聞こえてくる。
——ま……だ……な。
遠い。水の底から聞こえる声のように、ぼやけて歪んで、ほとんど意味を成さない。
だが、バルの意識はそれに向かって全力で手を伸ばした。
(誰だ……? おい、誰だ! 聞こえてんのか!!)
叫ぶ。もちろん声にはならない。だが、意識のすべてをそこに集中させる。
——……今日も……った。……法剣の……だいぶ……してきた……もっと……ないと。
断片的に。だが確実に。あの声が聞こえる。
静かで、低くて、昔よりもずっと大人びた——だけど、確かにあの声だ。
(アルト……? おい、アルト!!)
封印の壁が厚すぎて、声は届かない。こちらからは一切の反応を返すことができない。
だが——聞こえた。あいつの声が。
——……お前さ、いい加減起きてくれよ。……一人で喋ってると……馬鹿みたいだろ。
声が、少しだけ震えていた。
(……おい。てめぇ、泣いてんのか? ノロマが。誰が許可した)
バルの意識が、暗闇の中でもがいた。
封印が厚い。分厚すぎる。あの日バルを貫いた剣——あの銀色の魔力が、傷を塞ぐと同時にバルの全機能を凍結してしまっている。声を出すことも、魔力を動かすことも、何一つできない。
だが。
一つだけ、わかったことがある。
(あいつ、生きてやがる)
アルトは生きている。
しかも、あの泣き虫のノロマが、一人で戦いながら、毎晩こうして語りかけてきている。
(……クソガキが。勝手に一人で……強くなってんじゃ、ねぇよ……)
毒舌のつもりだった。だが、その意識の端が——ほんの少しだけ、温かく揺れた。
暗闘の底で、バルは再び沈黙の中に沈んでいく。
だが、今度の闇は、前とは少し違った。
完全な無ではない。暗闇の端に、ほんのかすかに——蜂蜜色の、温かい光の残滓が、ちらちらと揺れていた。
* * *
それから、どれだけの時間が流れただろう。
外からの声は、不定期に聞こえてきた。
戦いの報告。手がかりが見つからない焦り。次の目的地の独り言。
そして必ず最後に、同じ言葉で締めくくられる。
——また明日な。
毎晩。毎晩。一日も欠かさず。
バルが何の反応も返せないことを知っていながら、あの少年は語りかけ続けていた。
(…………)
バルの意識が、暗闇の中でゆっくりと形を取り直していく。
封印は解けない。声も出せない。何もできない。
だが——消えることだけは、しなかった。
あの声が聞こえる限り。
あの馬鹿が毎晩「また明日な」と言い続ける限り。
(……上等だ、クソノロマ。……いつか絶対、叩き起こされてやるから、覚悟しとけよ……)
暗闇の底で、誰にも聞こえない悪態を一つ。
それがバルにできる、たった一つの抵抗だった。




