第129話:ノロマ
黒い太陽が、放たれた。
ルーナの掌から、戦場の空気を吸い込みながら、ゆっくりと前へ進んだ。直径、五歩。光ではなく、闇の塊。それが進む先の空気が、薄くなっていく。地面の草が、太陽に引き寄せられて、根こそぎ抜けて、闇の中に吸い込まれていく。地面の土が、剥がれて、闇に巻き込まれていく。
通り過ぎた跡には、何も、残らなかった。
軌道は——直線だった。
戦場の中心を、まっすぐに進んでいた。
ユートとミラがいる位置を、わずかに逸れていた。
まっすぐ、アルトとリアラのいる場所へ、向かっていた。
速度は、遅かった。だが、避けられる遅さではなかった。じわりと、確実に、迫る速度。一歩、二歩と、近づいてくる。逃げ場はなかった。
アルトの目が、黒い太陽の軌道を、捉えた。
計算する余地は、なかった。直撃する。アルトとリアラに。リアラは意識を半分、失っている。腕の中で、力なく、もたれかかっている。妖精族の力を絞り尽くした体は、軽くもあり、重くもあった。アルトは、リアラを抱えて逃げる速度を、持っていなかった。横に飛んでも、回避距離が足りなかった。
頭の中で、選択肢を、並べた。
逃げる——間に合わない。横へ飛んでも、リアラを抱えたままでは、回避距離が足りない。
ユートとミラに任せる——二人とも、立てない。
反撃する——アルトに、それだけの出力は、残っていない。
バルの防壁を張る。
それが——唯一の選択肢だった。
「バル」
アルトが、低く呼んだ。
「最後の出力、頼む」
返事は、なかった。
バルの軋みは、もう、限界を超えていた。背中で、内部が壊れていく音がしていた。声を出す余裕が、残っていないのが、分かった。
それでも、アルトは、バルの魔力に手をかけた。引き出そうとした。背中から、防壁を、立ち上げようとした。
その時。
バルが——動いた。
アルトの背中から、ふわりと、浮いた。
黄色い、巨大なバッグの形が、宙に浮いた。アルトの背中を、離れた。アルトの肩の紐が、外れた。普段なら絶対に外れない留め具が、自分で外れた。バルが、自分の意志で、外したのだった。
バルが、前へ、進み出た。アルトとリアラの、前に。黒い太陽の、軌道の上に。
「——バル!」
アルトが、叫んだ。
手を伸ばした。掴もうとした。だが、届かなかった。バルが、すでに、アルトの手の届かない位置まで、進んでいた。
バルは、答えなかった。
代わりに、形を、変え始めた。
黄色い表皮が、伸びた。広がった。バッグの形が、崩れた。バルの中の構造が、再構成された。普段、武器を生成するためにある内部の魔力結晶が、外側に向かって、押し出された。代わりに、巨大な、平らな、盾の形へ、変わっていった。アルトとリアラを、すっぽりと、覆える大きさの、盾。
バルの全身が、盾になった。
今までで、最大の——形。
その瞬間、バルの口が、ようやく、声を出した。
『——ノロマ』
いつもの、悪態の声だった。だが、いつもより、ずっと、掠れていた。ずっと、優しかった。
『下がってろ。——お前の、出る幕じゃねぇ』
いつもなら、アルトはすぐに言い返した。「ノロマじゃない」とか、「お前こそ無理するな」とか。だが、今は、声が、出なかった。バルの声の優しさに、何かを、察した。バルが、自分の意志で、ここに出てきたことの、意味を、察した。
黒い太陽が、迫った。
バルの盾が、それを、正面から、受け止めた。
衝撃が、走った。
空間が、震えた。バルの盾と、黒い太陽が、ぶつかった瞬間、戦場全体が、白く飛んだ。
光ではなかった。光が、飛んだ。色が、消えた。音も、消えた。世界が、一瞬、白い無音になった。アルトの耳から、音が消えた。視界から、色が消えた。リアラを抱える腕の感覚さえ、消えた。
時間が、止まったような、一秒があった。
次の瞬間。
爆発が、起きた。
黒い太陽が、バルの盾の上で、爆ぜた。衝撃波が、四方に、広がった。地面が、抉れた。空気が、押し戻された。アルトの体が、後方に、吹き飛ばされた。リアラを抱えたまま、五歩、十歩、地面を転がった。背中が、肩が、肘が、地面を打った。だが、リアラを離さなかった。両腕で、リアラを、抱え続けた。
息が、詰まった。耳の奥で、衝撃の余韻が、鳴っていた。
目を、開けた。
戦場が、煙で、覆われていた。視界が、黒と灰で、満ちていた。立ち上る煙の中に、何かの輪郭が、見えた。バルの、輪郭が。
黒い太陽は、消えていた。
バルが——立っていた。
いや、立ってはいなかった。盾の形を保ったまま、地面の上に、ぐにゃりと、歪んでいた。表皮が、裂けていた。何箇所も。中から、紫色の——バルの本来の魔力が、漏れ出していた。煙のように。霧のように。バルの体から、流れ続けていた。
「バル——!」
アルトが、叫んだ。
立ち上がった。リアラを、地面に、横たえた。バルに、駆け寄った。
近づくと、バルの状態が、はっきりと、見えた。
ひどかった。
黄色い表皮が、半分以上、剥がれていた。中の構造が、見えていた。本来、見えるはずのない、内部の魔力結晶が、剥き出しになっていた。その結晶も、ひびが入って、欠けていた。
バルが、形を、戻し始めた。
盾の形から、本来のバッグの形へ。だが、戻りきらなかった。半分、潰れたまま。歪んだまま。バルが、地面に、落ちた。どさり、と、力のない音がした。
「バル」
アルトが、跪いた。
バルを、両手で、抱き上げた。
軽かった。
バルが、こんなに、軽かったか。アルトは、思った。出会った時から、バルは、ずっと、重かった。中身が詰まっていた。どっしりとした、確かな重さがあった。文句を言いながら背負ってきた、その重さを、アルトは、いつの間にか、当たり前の感触として、覚えていた。
それが、今、軽い。
子供のおもちゃのように、軽い。
中の魔力が、抜けかけていた。バルの本体を支えていた魔力が、外へ、漏れ続けていた。表皮の裂け目から、紫の煙が、なお、立ち上っていた。
バルの口が、ぴくりと、動いた。
『——ノロマ』
声が、出た。
掠れて、震えて、いつもの半分の音量で。
『やっぱり、ノロマだな。——お前』
「——バル」
アルトの声が、震えた。
「なんで——なんで、自分から、出たんだよ」
『——出るだろ。普通』
バルが、笑うように、声を漏らした。
『お前一人じゃ、防壁、立てらんなかったろ。——俺の方が、まだ、出力あったんだ。だから、出た。それだけだ』
嘘だった。
アルトには、分かった。バルの方が、もっと限界に近かった。アルトが防壁を立てた方が、まだ可能性があった。バルが盾になったのは——アルトを、巻き添えにしないため。アルトと、リアラを、確実に守るため。
自分の体を、確実に犠牲にする方を、バルは、選んだ。
いつも、そうだった。
バルは、最初から、そういうやつだった。出会った時から。地下迷宮で、アルトが弓を構え損ねた時。バルが武器を生成して、アルトの命を、繋いだ。何度も。数えきれないほど。アルトが今日まで生きてきた道の、あちこちで——バルの魔力が、アルトを守ってきた。
今度も、同じだった。
ただ、今度は——もう、戻れないかもしれない庇い方だった。
「ばか——っ」
アルトの声が、出た。喉が、震えた。
「ばかだろ。——なんで、お前だけ」
『うるせぇ——なノロマ』
バルが、また、笑った。声が、もっと、掠れた。
『お前、いつも、そう。——選択肢あるなら、自分が出る側、選ぶ。——でもよ。今回は、俺の方が、確実だったんだ。お前が防壁立てても、たぶん、貫通された。——俺の方が、まだ、頑丈だった。それだけだ』
バルが、息のような、音を、漏らした。
『——それにな。俺だってよ。たまには、選ばせろ』
戦場の煙が、薄れていった。視界が、戻ってきた。
ユートが、火傷の手で、地面を這いながら、こちらに、近づいていた。手のひらを地面につけるたびに、痛みで、顔が歪んでいた。だが、止まらなかった。バルの状態を、見るために、進んでいた。
ミラが、杖をついて、立ち上がろうとしていた。膝が震えていた。だが、立ち上がった。アルトとバルの方へ、一歩、踏み出した。
リアラが、地面で、目を、開けていた。アルトとバルを、見ていた。瞳に、涙が、溜まっていた。何が起きたのか、理解していた。
ルーナの体は——立っていた。
ナナシは、まだ、攻撃の準備を、止めていた。バルの庇いの結果を、見ていた。次に、何が起きるかを、観察していた。
『——アルト』
バルが、言った。
名前を、呼んだ。
いつもは「ノロマ」としか呼ばないバルが、初めて、アルトの名前を呼んだ。それが、何を意味するのか、アルトは、すぐに、分かった。
『俺、たぶん——もう、もたない』
アルトの腕の中で、バルの体が、また、軽くなった。
中の魔力が、また、漏れた。バルの表皮の裂け目から、紫の煙が、流れ続けていた。止められなかった。アルトには、止める方法が、なかった。
『もたねぇから——聞け』
バルの声が、急に、低くなった。
悪態の声では、なかった。掠れた、消えそうな、だが——確かな、声。
『俺の中に、まだ、残ってるもんがある。——お前に、渡したい。最後に。聞け』
アルトの腕の中で、バルが、目を、合わせた。
いや、バルに目は、なかった。だが、アルトには、分かった。バルが、自分を、見ていた。最後に、伝えたいことを、伝えるために、見ていた。出会ってからずっと、悪態と軽口で済ませてきたバルが——初めて、まっすぐ、伝える顔をしていた。
戦場が、静まり返っていた。
ナナシが、見ていた。
ユートが、ミラが、リアラが、見ていた。
アルトの腕の中で、バルが、口を、開いた。
『——よく、聞け。ノロマ』
バルの声が、戦場に、低く、響き始めた。
戦場の風が、止まっていた。ナナシも、ユートも、ミラも、リアラも、誰一人、動かなかった。バルの最後の声を、全員が、聞こうとしていた。
アルトは、バルを、両腕で、抱きしめた。バルの軋みが、腕の中で、続いていた。だが、その軋みも、もう、長くないことが、感じられた。
バルの言葉が、始まる。
最後の、言葉が。




