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『ノロマ、死ぬなよ』〜毒舌カバンと最弱少年の英雄譚〜  作者: 塩とわかめ
第三章:壊れた空と、取り戻すための戦い
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第129話:ノロマ

 黒い太陽が、放たれた。


 ルーナの掌から、戦場の空気を吸い込みながら、ゆっくりと前へ進んだ。直径、五歩。光ではなく、闇の塊。それが進む先の空気が、薄くなっていく。地面の草が、太陽に引き寄せられて、根こそぎ抜けて、闇の中に吸い込まれていく。地面の土が、剥がれて、闇に巻き込まれていく。


 通り過ぎた跡には、何も、残らなかった。


 軌道は——直線だった。


 戦場の中心を、まっすぐに進んでいた。


 ユートとミラがいる位置を、わずかに逸れていた。


 まっすぐ、アルトとリアラのいる場所へ、向かっていた。


 速度は、遅かった。だが、避けられる遅さではなかった。じわりと、確実に、迫る速度。一歩、二歩と、近づいてくる。逃げ場はなかった。


 アルトの目が、黒い太陽の軌道を、捉えた。


 計算する余地は、なかった。直撃する。アルトとリアラに。リアラは意識を半分、失っている。腕の中で、力なく、もたれかかっている。妖精族の力を絞り尽くした体は、軽くもあり、重くもあった。アルトは、リアラを抱えて逃げる速度を、持っていなかった。横に飛んでも、回避距離が足りなかった。


 頭の中で、選択肢を、並べた。


 逃げる——間に合わない。横へ飛んでも、リアラを抱えたままでは、回避距離が足りない。

 ユートとミラに任せる——二人とも、立てない。

 反撃する——アルトに、それだけの出力は、残っていない。


 バルの防壁を張る。


 それが——唯一の選択肢だった。


「バル」


 アルトが、低く呼んだ。


「最後の出力、頼む」


 返事は、なかった。


 バルの軋みは、もう、限界を超えていた。背中で、内部が壊れていく音がしていた。声を出す余裕が、残っていないのが、分かった。


 それでも、アルトは、バルの魔力に手をかけた。引き出そうとした。背中から、防壁を、立ち上げようとした。


 その時。


 バルが——動いた。


 アルトの背中から、ふわりと、浮いた。


 黄色い、巨大なバッグの形が、宙に浮いた。アルトの背中を、離れた。アルトの肩の紐が、外れた。普段なら絶対に外れない留め具が、自分で外れた。バルが、自分の意志で、外したのだった。


 バルが、前へ、進み出た。アルトとリアラの、前に。黒い太陽の、軌道の上に。


「——バル!」


 アルトが、叫んだ。


 手を伸ばした。掴もうとした。だが、届かなかった。バルが、すでに、アルトの手の届かない位置まで、進んでいた。


 バルは、答えなかった。


 代わりに、形を、変え始めた。


 黄色い表皮が、伸びた。広がった。バッグの形が、崩れた。バルの中の構造が、再構成された。普段、武器を生成するためにある内部の魔力結晶が、外側に向かって、押し出された。代わりに、巨大な、平らな、盾の形へ、変わっていった。アルトとリアラを、すっぽりと、覆える大きさの、盾。


 バルの全身が、盾になった。


 今までで、最大の——形。


 その瞬間、バルの口が、ようやく、声を出した。


『——ノロマ』


 いつもの、悪態の声だった。だが、いつもより、ずっと、掠れていた。ずっと、優しかった。


『下がってろ。——お前の、出る幕じゃねぇ』


 いつもなら、アルトはすぐに言い返した。「ノロマじゃない」とか、「お前こそ無理するな」とか。だが、今は、声が、出なかった。バルの声の優しさに、何かを、察した。バルが、自分の意志で、ここに出てきたことの、意味を、察した。


 黒い太陽が、迫った。


 バルの盾が、それを、正面から、受け止めた。


 衝撃が、走った。


 空間が、震えた。バルの盾と、黒い太陽が、ぶつかった瞬間、戦場全体が、白く飛んだ。


 光ではなかった。光が、飛んだ。色が、消えた。音も、消えた。世界が、一瞬、白い無音になった。アルトの耳から、音が消えた。視界から、色が消えた。リアラを抱える腕の感覚さえ、消えた。


 時間が、止まったような、一秒があった。


 次の瞬間。


 爆発が、起きた。


 黒い太陽が、バルの盾の上で、爆ぜた。衝撃波が、四方に、広がった。地面が、抉れた。空気が、押し戻された。アルトの体が、後方に、吹き飛ばされた。リアラを抱えたまま、五歩、十歩、地面を転がった。背中が、肩が、肘が、地面を打った。だが、リアラを離さなかった。両腕で、リアラを、抱え続けた。


 息が、詰まった。耳の奥で、衝撃の余韻が、鳴っていた。


 目を、開けた。


 戦場が、煙で、覆われていた。視界が、黒と灰で、満ちていた。立ち上る煙の中に、何かの輪郭が、見えた。バルの、輪郭が。


 黒い太陽は、消えていた。


 バルが——立っていた。


 いや、立ってはいなかった。盾の形を保ったまま、地面の上に、ぐにゃりと、歪んでいた。表皮が、裂けていた。何箇所も。中から、紫色の——バルの本来の魔力が、漏れ出していた。煙のように。霧のように。バルの体から、流れ続けていた。


「バル——!」


 アルトが、叫んだ。


 立ち上がった。リアラを、地面に、横たえた。バルに、駆け寄った。


 近づくと、バルの状態が、はっきりと、見えた。


 ひどかった。


 黄色い表皮が、半分以上、剥がれていた。中の構造が、見えていた。本来、見えるはずのない、内部の魔力結晶が、剥き出しになっていた。その結晶も、ひびが入って、欠けていた。


 バルが、形を、戻し始めた。


 盾の形から、本来のバッグの形へ。だが、戻りきらなかった。半分、潰れたまま。歪んだまま。バルが、地面に、落ちた。どさり、と、力のない音がした。


「バル」


 アルトが、跪いた。


 バルを、両手で、抱き上げた。


 軽かった。


 バルが、こんなに、軽かったか。アルトは、思った。出会った時から、バルは、ずっと、重かった。中身が詰まっていた。どっしりとした、確かな重さがあった。文句を言いながら背負ってきた、その重さを、アルトは、いつの間にか、当たり前の感触として、覚えていた。


 それが、今、軽い。


 子供のおもちゃのように、軽い。


 中の魔力が、抜けかけていた。バルの本体を支えていた魔力が、外へ、漏れ続けていた。表皮の裂け目から、紫の煙が、なお、立ち上っていた。


 バルの口が、ぴくりと、動いた。


『——ノロマ』


 声が、出た。


 掠れて、震えて、いつもの半分の音量で。


『やっぱり、ノロマだな。——お前』


「——バル」


 アルトの声が、震えた。


「なんで——なんで、自分から、出たんだよ」


『——出るだろ。普通』


 バルが、笑うように、声を漏らした。


『お前一人じゃ、防壁、立てらんなかったろ。——俺の方が、まだ、出力あったんだ。だから、出た。それだけだ』


 嘘だった。


 アルトには、分かった。バルの方が、もっと限界に近かった。アルトが防壁を立てた方が、まだ可能性があった。バルが盾になったのは——アルトを、巻き添えにしないため。アルトと、リアラを、確実に守るため。


 自分の体を、確実に犠牲にする方を、バルは、選んだ。


 いつも、そうだった。


 バルは、最初から、そういうやつだった。出会った時から。地下迷宮で、アルトが弓を構え損ねた時。バルが武器を生成して、アルトの命を、繋いだ。何度も。数えきれないほど。アルトが今日まで生きてきた道の、あちこちで——バルの魔力が、アルトを守ってきた。


 今度も、同じだった。


 ただ、今度は——もう、戻れないかもしれない庇い方だった。


「ばか——っ」


 アルトの声が、出た。喉が、震えた。


「ばかだろ。——なんで、お前だけ」


『うるせぇ——なノロマ』


 バルが、また、笑った。声が、もっと、掠れた。


『お前、いつも、そう。——選択肢あるなら、自分が出る側、選ぶ。——でもよ。今回は、俺の方が、確実だったんだ。お前が防壁立てても、たぶん、貫通された。——俺の方が、まだ、頑丈だった。それだけだ』


 バルが、息のような、音を、漏らした。


『——それにな。俺だってよ。たまには、選ばせろ』


 戦場の煙が、薄れていった。視界が、戻ってきた。


 ユートが、火傷の手で、地面を這いながら、こちらに、近づいていた。手のひらを地面につけるたびに、痛みで、顔が歪んでいた。だが、止まらなかった。バルの状態を、見るために、進んでいた。


 ミラが、杖をついて、立ち上がろうとしていた。膝が震えていた。だが、立ち上がった。アルトとバルの方へ、一歩、踏み出した。


 リアラが、地面で、目を、開けていた。アルトとバルを、見ていた。瞳に、涙が、溜まっていた。何が起きたのか、理解していた。


 ルーナの体は——立っていた。


 ナナシは、まだ、攻撃の準備を、止めていた。バルの庇いの結果を、見ていた。次に、何が起きるかを、観察していた。


『——アルト』


 バルが、言った。


 名前を、呼んだ。


 いつもは「ノロマ」としか呼ばないバルが、初めて、アルトの名前を呼んだ。それが、何を意味するのか、アルトは、すぐに、分かった。


『俺、たぶん——もう、もたない』


 アルトの腕の中で、バルの体が、また、軽くなった。


 中の魔力が、また、漏れた。バルの表皮の裂け目から、紫の煙が、流れ続けていた。止められなかった。アルトには、止める方法が、なかった。


『もたねぇから——聞け』


 バルの声が、急に、低くなった。


 悪態の声では、なかった。掠れた、消えそうな、だが——確かな、声。


『俺の中に、まだ、残ってるもんがある。——お前に、渡したい。最後に。聞け』


 アルトの腕の中で、バルが、目を、合わせた。


 いや、バルに目は、なかった。だが、アルトには、分かった。バルが、自分を、見ていた。最後に、伝えたいことを、伝えるために、見ていた。出会ってからずっと、悪態と軽口で済ませてきたバルが——初めて、まっすぐ、伝える顔をしていた。


 戦場が、静まり返っていた。


 ナナシが、見ていた。


 ユートが、ミラが、リアラが、見ていた。


 アルトの腕の中で、バルが、口を、開いた。


『——よく、聞け。ノロマ』


 バルの声が、戦場に、低く、響き始めた。


 戦場の風が、止まっていた。ナナシも、ユートも、ミラも、リアラも、誰一人、動かなかった。バルの最後の声を、全員が、聞こうとしていた。


 アルトは、バルを、両腕で、抱きしめた。バルの軋みが、腕の中で、続いていた。だが、その軋みも、もう、長くないことが、感じられた。


 バルの言葉が、始まる。


 最後の、言葉が。


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