第128話:耐えきれない器
ユートが、剣を構えた。
三色の光が、刀身の上で、螺旋を描いていた。銀。赤。翠。三つの色が混じり合わず、絡み合いながら、剣の先端から、空間に滲み出していた。剣そのものが、別の何かに変わっていくような感覚を、ユートは感じていた。柄を握る手のひらが、熱かった。冷たかった。両方が、同時にあった。
ユートが、息を整えた。一度。二度。
剣を構え直した。両手で、しっかりと。腰を落とした。前足に体重を乗せた。
「アルト」
ユートが、低く、呼んだ。
「いつ行く」
「ルーナの腕が、上がる前に」
アルトが、即答した。
ナナシは、まだ動かなかった。ルーナの体は、立っていた。黒い瞳が、こちらを見ていた。観察していた。次の手を、こちらに、譲っていた。
譲られている。
ナナシが、こちらの一撃を、見ようとしている。それは——隙でもあった。攻撃に専念して、防御を捨てている。次の瞬間、こちらの一撃が走れば、ナナシは、初めて防御に回らされる。
その一瞬が、勝負だった。
「リアラ。妖精族の力、最大で流して。バル、限界まで」
「うん」
『——ああ』
バルの声が、背中で、軋んだ。だが、力強かった。
ミラが、杖を構え直した。制御の経路が、ユートの剣に、太く、繋がった。三色の光が、剣の上で、もう一段、輝きを増した。
戦場の空気が——張り詰めた。
アルトの目が、ルーナの体を、捉えた。次の動きの予兆。腕の筋肉。指の動き。呼吸のリズム。ナナシは、ルーナの体を借りているが——体そのものの癖は、消せていない。妖精族の小さな体の、わずかな動きの兆し。
その兆しが、消えた瞬間。
次の動きが、止まった、その一瞬。
「——今です!」
アルトが、叫んだ。
ユートが、踏み込んだ。
一歩。二歩。三歩。距離を一気に詰めた。剣を振り上げた。三色の光が、刀身の上で、爆発しそうに膨らんだ。ユートの体が、剣の振り下ろしと一つになった。
三色の剣が——振り下ろされた。
ルーナの周囲の魔力場に、剣が、触れた。
その瞬間——
空間が、震えた。
三色の光が、ルーナの中の魔力に、触れた。バルが封じていた勇者と魔族の力が、ルーナの中の魔族の力に。リアラが流し込んだ妖精族の力が、ルーナの中の妖精族の力に。
届いた。
ルーナの中の、三種族の力が、こちらの三種族の力に、呼応した。波長が、合った。鍵と鍵穴が、噛み合うように。三色の光が、ルーナの体に、染み込み始めた。赤を緩め、黒を押し戻し、その奥にあるものに、触れていった。
ルーナの体が、震えた。激しく。全身で。赤と黒の魔力が、揺らいだ。剥がれかけた。ルーナの周囲の魔力場が、波のように、揺れていた。
ルーナの瞳の奥に——緑が、戻った。
両目に。
深く。
今までで、一番深い、緑だった。さっき呼びかけた時の緑よりも、もっと深い。子供の瞳の、本来の色。何にも塗り潰されていない、ただの、ルーナの瞳。
その瞳に、涙が、満ちていた。
「——ルー、ナ——」
ルーナの口が、動いた。
ルーナ自身の声で。
ナナシの冷たい声ではなかった。ディアルの憎しみの呻きでもなかった。ルーナという少女自身の、子供の、震える声で——名前を呼びかけるように、口が動いた。
届いた。
全員が、思った。
届いた——!
その瞬間。
ユートの剣が——震え始めた。
最初は、わずかな震えだった。三色の光の螺旋が、揺らいだ。銀と赤と翠が、絡み合いの形を、保てなくなり始めた。
「——っ」
ユートが、息を呑んだ。
剣の震えが、大きくなった。両手で抑えても、震えは止まらなかった。柄から肘まで、振動が伝わってきた。剣そのものが、ユートの腕の中で、暴れ始めていた。
三色の光が、互いを引き裂き始めた。銀が赤を弾いた。赤が翠を押し戻した。翠が銀に切りかかった。絡み合っていた螺旋が、ほどけて、それぞれの力が、別々の方向へ、噴き出そうとした。三つの力が、同じ刀身の上で、争い始めた。
剣の刀身に、最初のひびが、入った。
刀身の中ほどから、剣先に向かって、細い亀裂が走った。ひびから、三色の光が、漏れ始めた。剣の中に閉じ込められていた力が、外に出ようとして、刀身を、内側から、押し広げていた。
「ユートさん——剣がっ!」
ミラが叫んだ。制御の杖を、強く握り直した。詠唱を、加速させた。三色の光を、もう一度、絡ませようとした。
無理だった。
三種族の力は、本来、混ざらないものだった。バルの中で、辛うじて抑え込んでいた。ミラの制御で、辛うじて経路を保っていた。だが——剣には、それを抑え込む器がなかった。剣は、ただの剣だった。三種族の力を抱えるには、入れ物として、足りなかった。
刀身の、ひびが、広がった。
三色の光が、ひびから、噴き出し始めた。
ユートの両手が——焼け始めた。
柄を握る手のひらの皮膚が、赤く、変色していった。剣の柄を伝って、合成魔力が、ユートの体に、逆流していた。
「ユート!」
ミラが叫んだ。
ユートは——剣を、放さなかった。
歯を食いしばった。両足で、踏ん張った。剣の振り下ろしの姿勢を、崩さなかった。ルーナの体に、剣を、押し込み続けた。届いた力を、止めたくなかった。緑が戻ったルーナの瞳を、もう一度、赤と黒に塗り潰されたくなかった。
「ユートさん、退いて!」
アルトが叫んだ。
「もう剣が——」
「届いてる——!」
ユートが、叫び返した。
「届いてるんだ——! あと少しで——!」
その瞬間。
剣が、砕けた。
三色の光が、爆発した。
破片が、空中に、散った。銀色の刀身の欠片が、十数個、宙に舞った。三色の光が、それぞれの破片に、絡みついたまま、空中で、消滅していった。
ユートの体が——吹き飛ばされた。
爆発の衝撃で、後方に。十歩ほど、地面を転がった。剣を握っていた両手は、火傷で、真っ赤だった。皮膚が剥けて、肉が見えていた。
「ユート——!」
ミラが駆け寄った。杖から、回復魔法の光が、走った。ユートの両手に、青い光が、かかった。火傷の表面が、わずかに収まった。だが、ミラの杖を持つ手も、震えていた。制御の連続使用で、魔力を絞り尽くしていた。
「——大丈夫、よ。今、止血する」
ミラの声が、震えていた。落ち着けようとしているのが、分かった。だが、ミラ自身が、落ち着けていなかった。
リアラが、バルから手を離した。膝が、崩れた。三種族の力を統合させ続ける消耗で、立っていられなかった。アルトが、手を伸ばして、リアラを支えた。リアラの体が、軽かった。妖精族の力を絞り尽くした体が、子供のように、軽かった。
「——ごめん——アルト——力が」
「いい。——休んで」
アルトの腕の中で、リアラが、目を閉じた。意識を失ってはいない。だが、体が、動かなかった。
バルが、背中で、悲鳴のような音を立てた。
『——っ、ぐ——っ』
バルの軋みが、致命的なレベルに、跳ね上がっていた。三種族の力を抑え込んでいた負荷が、解放された反動で、内部が崩れかけていた。アルトには、感じられた。バルの中で、何かが、もう、外れかけているのが。
戦場が、静まり返った。
砕けた剣の破片が、地面に、落ちていった。からん、と、軽い金属音がした。一つ、二つ、三つ。何度も。剣の欠片が、戦場のあちこちに、散らばっていった。三色の光は、もう消えていた。剣は、ただの、銀色の破片の集まりに、戻っていた。
ユートが、地面で、呻いた。火傷の両手を、地面についた。立ち上がろうとした。だが、両手で押すと、激痛が走った。手のひらの皮膚が、地面の草に触れただけで、焼けるような痛みが、肘まで走った。
ルーナの瞳が——赤と黒に、戻った。
深い緑は、消えていた。届きかけたものは、剣の崩壊と一緒に、霧散していた。ルーナの瞳の中の涙も、もう、なかった。ルーナの体が、また、立ち上がった。ナナシが、戻ってきた。
「——なるほどね」
ナナシの声が、淡々と、戦場に響いた。
「届きかけたのは、認めよう。あの一瞬、ルーナを引き出しかけた。——大した発想だった」
声に、感情はなかった。讃えているのでも、嘲っているのでもなかった。ただ、評価を、述べていた。
「だが——君たちの器は、その力に、耐えられない。剣は砕けた。バルも、もう、限界だ。次は、ない」
ルーナの腕が、上がった。
今度は、槍ではなかった。十本の黒い槍ではなかった。もっと大きな——もっと密度の高い、一つの塊が、ルーナの掌の上に、形成され始めた。
黒い、太陽のような塊。
戦場全体を、覆い尽くせる大きさの。
「——終わらせよう」
ナナシが、言った。
「ここまでだ。——よく、戦った」
ユートが、地面で、起き上がろうとしていた。両手が動かなかった。火傷の痛みで、剣の柄を握れる状態ではなかった。
ミラが、立ち上がろうとした。回復魔法の制御で、消耗していた。すぐには、防壁を立てられなかった。
リアラは、地面に座り込んでいた。妖精族の力を絞り尽くして、立てなかった。
バルは、軋みの中で、声を失っていた。
アルトだけが、立っていた。
バルを背中に、リアラを腕で支えながら、立っていた。
黒い太陽が、ルーナの掌の上で、完成しかけていた。直径、五歩ほどの大きさになっていた。さらに大きくなっていく。空気が、太陽に、吸い込まれていた。戦場の温度が、下がっていた。光ではなかった。光を吸う、闇だった。
届かない。
届かないなら——
アルトの頭が、回転した。回転しなかった。ただ、目の前の光景が、はっきり見えていた。背中のバルが、軋みの中で、力を失いかけていた。腕の中のリアラが、震えていた。離れたところで、ユートが、地面を這うように、立ち上がろうとしていた。ミラが、ユートを庇おうと、杖を構えようとしていた。だが、杖を持つ手が、震えていた。
ユートが立てない。ミラが立てない。リアラが立てない。バルが限界。
次の一撃で、誰かが、死ぬ。
いや——全員、死ぬ。
「——全員、下がって——!」
アルトが、叫んだ。
声が、戦場に、響いた。
だが、誰も、動けなかった。動ける者は、もう、いなかった。
黒い太陽が、放たれようとしていた。




