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『ノロマ、死ぬなよ』〜毒舌カバンと最弱少年の英雄譚〜  作者: 塩とわかめ
第三章:壊れた空と、取り戻すための戦い
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第126話:正しさの傷

 戦場が、静止していた。


 流星雨は止んでいた。風も止んでいた。天井の偽りの月が、赤く揺らいだまま、動かなかった。アルトには、戦場全体が、誰かの手で押さえつけられているように感じられた。


 ルーナの体は、立っていた。小さな体。長い銀髪が、重力を失ったまま宙に浮いている。両目は、黒。深い、底のない黒。瞳孔も虹彩も区別がつかない、ただの黒い穴。


 ユートが剣を構えたまま、動けなかった。ミラが杖を構えたまま、息を止めていた。リアラは地面に倒れたまま、目を見開いていた。


 動かないのではなかった。動けないのだった。


 空間そのものが、誰かの意志で押さえつけられている。


 アルトが——気づいた。


 これは魔力ではない。魔力なら、バルが感知している。でもバルは静かだ。軋みが止んでいる。これは魔力じゃない。もっと別の——空間そのものへの干渉。


「——バル」


 アルトが小声で呼んだ。


『分かってる』


 バルの声が、背中で返った。


『魔力じゃねぇ。——なんだろうな、これ。空気そのものが、誰かに握られてる』


 ルーナの口が、動いた。正確には、ルーナの口を借りた誰かの口が、動いた。


「——よくできてる」


 声が言った。


 低く、平坦で、年齢のわからない声。男のようでも女のようでもなかった。若くも年寄りでもなかった。ただ——静かだった。


「君たちは、よくここまで来た。——ルーナを引き出しかけたのは、見事だ」


 全員が、声の方を見た。ルーナの体から発せられている声を。


「だがね。——届かないよ」


 声が続けた。


「私はずっとここにいた。ルーナの中に、もう何百年もね。——ディアルが集めた憎しみは、私の道具にすぎなかった。ディアルもね、本人は気づかずに、私の駒だったよ」


 ユートの剣を持つ手が、わずかに動いた。


 ディアルが——駒。


 あの戦いで命懸けでぶつかった相手が。仲間を奪い、ユートを操った張本人が——もっと別の誰かの、駒。


「私は——名乗らないよ。今は、それでいい。君たちが知るには、まだ早い」


 声が、淡々と言った。


「だから、見せておこう。——君たちが何を救おうとしているのか。何のために戦っているのか。それを、ちゃんと見ておきなさい」


 ルーナの黒い瞳から——光が、溢れた。


 黒い光。


 その光が、戦場の空間に、像を結び始めた。


 最初に見えたのは、森だった。


 高く、深い森。木々の間から差し込む光が、緑色だった。妖精族の里。アルトは見たことがなかったが、すぐに分かった。ここは、ルーナが生まれた場所だ。


 森の中に、家があった。木と苔で出来た家。小さな家。その前で、子どもが座っていた。銀髪の、小さな子ども。


 ルーナだった。


 幼いルーナ。三歳か、四歳。月を見ていた。木々の間から覗く、白い月を。


 その横顔は、笑っていた。


 次の瞬間——光景が変わった。


 森が、燃えていた。


 炎が木々を舐めている。煙が空を覆っている。妖精族の老人が、女が、子どもたちが、走っていた。逃げていた。その後ろから——人間族の兵士たちが、追っていた。


 光景が、近づいた。


 ルーナの両親が見えた。父親が、母親を庇いながら、剣を構えていた。父親の手にあるのは、木の枝のように細い剣。妖精族は、武器を持たない種族だった。だから即席で、何かを構えるしかなかった。


 その父親に、人間族の兵士が放った魔法が当たった。


 父親が、崩れ落ちた。


 母親が叫んだ。叫びながら、ルーナを抱き上げた。走った。森の奥へ。木々の間を縫って。


 ルーナの母親も——背中から、矢を受けた。


 崩れ落ちる。ルーナを地面に下ろしながら。


 母親の手が、最後にルーナの頬に触れた。


「——逃げて」


 母親が、言った。


 そして、動かなくなった。


 幼いルーナが、母親の体を見ていた。理解していなかった。何が起きたのか、分かっていなかった。ただ、母親の手の温度が、急に冷たくなったのを、感じていた。


 光景が、また変わった。


 燃え尽きた森の中を、幼いルーナが、一人で歩いていた。


 誰もいなかった。里は、滅びていた。残ったのは、燃え跡と、灰と、死体だけ。


 幼いルーナは、母親の死体の傍に、戻ってきていた。座り込んだ。母親の冷たい手を、握っていた。


 夜が来た。


 月が出た。


 ルーナが、月を見上げた。


 その瞳に——何の感情も、なかった。


 空っぽだった。涙さえ、もう出なかった。


 光景が——変わった。


 黒いローブの男が、燃え跡の中を歩いていた。ディアルだった。若い頃のディアル。今より少し、表情に揺れがあった。


 ディアルが、幼いルーナを見つけた。


 近づいた。膝をついた。ルーナの顔を覗き込んだ。


 そして——抱き上げた。


 ルーナは抵抗しなかった。何の感情もなかった。ただ、抱き上げられるままになっていた。


 ディアルの目に、何かが浮かんでいた。憎しみ。深い、人間族への憎しみ。だがそこには、もう一つ別のものも、混じっていた。憐れみ。あるいは——同情。


「——お前は、力を持つ子だ」


 ディアルが言った。


「私が育てよう。——お前の中の力を、引き出そう」


 ディアルがルーナを連れて、森を去った。


 光景が、消えた。


 戦場に、戻された。


 ルーナの黒い瞳から、光が霧散していった。空間に映っていた像が、消えていった。


 全員が、動けなかった。


 ユートの剣を持つ手が、震えていた。剣の先が、地面に落ちかけていた。


 ミラが、杖を握ったまま、口を開いていた。だが声は出なかった。


 リアラの目から、涙が流れていた。両目から。止めようがなかった。妖精族の血を持つ少女として、見たくなかった光景を、見せられた。


 アルトは——呼吸を、整えていた。


 胸が、痛かった。喉が、詰まっていた。だが——崩れなかった。崩れるわけにはいかなかった。


「——分かったかい」


 ナナシの声が、淡々と続いた。


「これが、君たちが守ろうとしている世界の、正体だ。妖精族は滅ぼされた。誰の罪でもないように、滅ぼされた。誰も裁かれず、誰も覚えていない。——これが、君たちの世界だ」


 ルーナの口の端が、わずかに歪んだ。ナナシが、笑ったのかもしれなかった。


「ルーナの怒りは、正しい。ディアルの憎しみも、正しい。——君たちが救おうとしているのは、その正しい怒りを、塗り消すことだ。それは、救済かい。それとも——もう一度の、虐殺かい」


 ユートが、剣を握り直そうとした。だが、力が入らなかった。


 勇者として、人間族の側に立っていた自分。エイルもまた、人間族の側にいた。妖精族と人間族のハーフだったエイル。彼は——どちらの側に、立っていたのか。


 ミラが、目を伏せた。


 自分が今まで戦っていた相手の正体。魔王。魔族。憎むべき敵。——だがその憎しみの根が、ここにあったのなら。自分は、何のために、戦ってきたのか。


 リアラの口から、嗚咽が漏れた。


 堪えていたものが、崩れた。妖精族として、理解できてしまった。ルーナの怒りが。ディアルの憎しみが。母親を失った幼い子の、空っぽの目が。理解できてしまった。


 バルが、背中で軋んだ。


 言葉は、なかった。


「——ね。分かるだろう」


 ナナシの声が、優しくさえ聞こえた。


「君たちは、引いていい。ここで、引いていい。ルーナは私が連れていく。——もう、誰の恨みにもならないところへ」


 戦場が、静まり返っていた。


 誰も、口を開けなかった。


 ユートが、口を開きかけて、閉じた。何を言えばいいのか、分からなかった。


 ミラが、何かを言おうとして、声が出なかった。


 リアラは、嗚咽を堪えるので精一杯だった。


 その時——


 アルトが、一歩、前に出た。


 指揮の位置から、一歩。誰の前にも出なかった彼が、初めて、自分から動いた。剣は抜かなかった。バルの魔力も引き出さなかった。ただ、一歩、前に出た。


「——あなたの言うことは」


 アルトの声が、戦場に響いた。震えていた。だが、止まらなかった。


「正しいかもしれません。——僕たちの世界が、そういう世界だってことは。妖精族が、そんな滅ぼされ方をしたってことは。——それが、僕たちの罪だってことは」


 ナナシの黒い瞳が、アルトを見た。


「だから引け、と。——あなたはそう言う。正しい怒りを、塗り消すな、と」


 アルトが、もう一歩、前に出た。


「でも——僕は、それでも、ルーナさんを救います」


 ナナシが、初めて、わずかに動いた。ルーナの首が、傾いた。


「——なぜ」


 声が、訊いた。


「ルーナさんは、まだ生きてます」


 アルトが、言った。


「さっき、月が好きだったって、自分の声で言いました。リアラの名前を呼びました。ユートさんを覚えてました。——あの子は、まだ生きてるんです。怒りの中にいても、月を好きでいられる子のままで、生きてるんです」


 アルトの声が、震えながら、強くなっていった。


「世界が歪んでて、誰も裁かれなくて、誰も覚えてなかったとしても——ルーナさんを救うことは、別の話です。世界の歪みと、ルーナさんの命は、別です。世界がどうあれ、僕は、ルーナさんを救います」


 ナナシが、しばらく、黙っていた。ルーナの黒い瞳が、アルトを見つめていた。


「——傲慢だね」


 声が、低く言った。


「世界の歪みを認めながら、それでもこの子を救うと言う。——君が救うこの子は、世界の歪みの中で生きていくんだよ。救ったあとも、ね」


「分かってます」


 アルトが、即答した。


「だからその後も、隣にいます。世界が歪んでるなら、ルーナさんと一緒に、その中で生きていきます。——救って終わりじゃないです」


 ナナシが、また、黙った。


 戦場の空気が、わずかに、変わった。誰の声も聞こえないままだったが、ユートが剣を握り直していた。ミラが杖を構え直していた。リアラが、涙を拭いて、顔を上げていた。


 アルトの言葉が、全員の中で、何かを動かしていた。


 ナナシの口が、もう一度、動いた。


「——では、見せてもらおうか」


 声が、静かに言った。


「世界の歪みの中で、それでも救うという、君の覚悟を。——その傲慢が、本物かどうか。私は、見させてもらうよ」


 ルーナの体から、黒い魔力が、再び立ち上り始めた。


 戦いが、再開する。


 だが今度は、ただの戦いではなかった。アルトの宣言を、ナナシが試す戦いだった。


 アルトは、剣を抜いた。バルの軋みが、背中で答えた。


「——いきます」


 アルトが、低く、言った。


 戦場の月が、赤く、揺れた。


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