第126話:正しさの傷
戦場が、静止していた。
流星雨は止んでいた。風も止んでいた。天井の偽りの月が、赤く揺らいだまま、動かなかった。アルトには、戦場全体が、誰かの手で押さえつけられているように感じられた。
ルーナの体は、立っていた。小さな体。長い銀髪が、重力を失ったまま宙に浮いている。両目は、黒。深い、底のない黒。瞳孔も虹彩も区別がつかない、ただの黒い穴。
ユートが剣を構えたまま、動けなかった。ミラが杖を構えたまま、息を止めていた。リアラは地面に倒れたまま、目を見開いていた。
動かないのではなかった。動けないのだった。
空間そのものが、誰かの意志で押さえつけられている。
アルトが——気づいた。
これは魔力ではない。魔力なら、バルが感知している。でもバルは静かだ。軋みが止んでいる。これは魔力じゃない。もっと別の——空間そのものへの干渉。
「——バル」
アルトが小声で呼んだ。
『分かってる』
バルの声が、背中で返った。
『魔力じゃねぇ。——なんだろうな、これ。空気そのものが、誰かに握られてる』
ルーナの口が、動いた。正確には、ルーナの口を借りた誰かの口が、動いた。
「——よくできてる」
声が言った。
低く、平坦で、年齢のわからない声。男のようでも女のようでもなかった。若くも年寄りでもなかった。ただ——静かだった。
「君たちは、よくここまで来た。——ルーナを引き出しかけたのは、見事だ」
全員が、声の方を見た。ルーナの体から発せられている声を。
「だがね。——届かないよ」
声が続けた。
「私はずっとここにいた。ルーナの中に、もう何百年もね。——ディアルが集めた憎しみは、私の道具にすぎなかった。ディアルもね、本人は気づかずに、私の駒だったよ」
ユートの剣を持つ手が、わずかに動いた。
ディアルが——駒。
あの戦いで命懸けでぶつかった相手が。仲間を奪い、ユートを操った張本人が——もっと別の誰かの、駒。
「私は——名乗らないよ。今は、それでいい。君たちが知るには、まだ早い」
声が、淡々と言った。
「だから、見せておこう。——君たちが何を救おうとしているのか。何のために戦っているのか。それを、ちゃんと見ておきなさい」
ルーナの黒い瞳から——光が、溢れた。
黒い光。
その光が、戦場の空間に、像を結び始めた。
最初に見えたのは、森だった。
高く、深い森。木々の間から差し込む光が、緑色だった。妖精族の里。アルトは見たことがなかったが、すぐに分かった。ここは、ルーナが生まれた場所だ。
森の中に、家があった。木と苔で出来た家。小さな家。その前で、子どもが座っていた。銀髪の、小さな子ども。
ルーナだった。
幼いルーナ。三歳か、四歳。月を見ていた。木々の間から覗く、白い月を。
その横顔は、笑っていた。
次の瞬間——光景が変わった。
森が、燃えていた。
炎が木々を舐めている。煙が空を覆っている。妖精族の老人が、女が、子どもたちが、走っていた。逃げていた。その後ろから——人間族の兵士たちが、追っていた。
光景が、近づいた。
ルーナの両親が見えた。父親が、母親を庇いながら、剣を構えていた。父親の手にあるのは、木の枝のように細い剣。妖精族は、武器を持たない種族だった。だから即席で、何かを構えるしかなかった。
その父親に、人間族の兵士が放った魔法が当たった。
父親が、崩れ落ちた。
母親が叫んだ。叫びながら、ルーナを抱き上げた。走った。森の奥へ。木々の間を縫って。
ルーナの母親も——背中から、矢を受けた。
崩れ落ちる。ルーナを地面に下ろしながら。
母親の手が、最後にルーナの頬に触れた。
「——逃げて」
母親が、言った。
そして、動かなくなった。
幼いルーナが、母親の体を見ていた。理解していなかった。何が起きたのか、分かっていなかった。ただ、母親の手の温度が、急に冷たくなったのを、感じていた。
光景が、また変わった。
燃え尽きた森の中を、幼いルーナが、一人で歩いていた。
誰もいなかった。里は、滅びていた。残ったのは、燃え跡と、灰と、死体だけ。
幼いルーナは、母親の死体の傍に、戻ってきていた。座り込んだ。母親の冷たい手を、握っていた。
夜が来た。
月が出た。
ルーナが、月を見上げた。
その瞳に——何の感情も、なかった。
空っぽだった。涙さえ、もう出なかった。
光景が——変わった。
黒いローブの男が、燃え跡の中を歩いていた。ディアルだった。若い頃のディアル。今より少し、表情に揺れがあった。
ディアルが、幼いルーナを見つけた。
近づいた。膝をついた。ルーナの顔を覗き込んだ。
そして——抱き上げた。
ルーナは抵抗しなかった。何の感情もなかった。ただ、抱き上げられるままになっていた。
ディアルの目に、何かが浮かんでいた。憎しみ。深い、人間族への憎しみ。だがそこには、もう一つ別のものも、混じっていた。憐れみ。あるいは——同情。
「——お前は、力を持つ子だ」
ディアルが言った。
「私が育てよう。——お前の中の力を、引き出そう」
ディアルがルーナを連れて、森を去った。
光景が、消えた。
戦場に、戻された。
ルーナの黒い瞳から、光が霧散していった。空間に映っていた像が、消えていった。
全員が、動けなかった。
ユートの剣を持つ手が、震えていた。剣の先が、地面に落ちかけていた。
ミラが、杖を握ったまま、口を開いていた。だが声は出なかった。
リアラの目から、涙が流れていた。両目から。止めようがなかった。妖精族の血を持つ少女として、見たくなかった光景を、見せられた。
アルトは——呼吸を、整えていた。
胸が、痛かった。喉が、詰まっていた。だが——崩れなかった。崩れるわけにはいかなかった。
「——分かったかい」
ナナシの声が、淡々と続いた。
「これが、君たちが守ろうとしている世界の、正体だ。妖精族は滅ぼされた。誰の罪でもないように、滅ぼされた。誰も裁かれず、誰も覚えていない。——これが、君たちの世界だ」
ルーナの口の端が、わずかに歪んだ。ナナシが、笑ったのかもしれなかった。
「ルーナの怒りは、正しい。ディアルの憎しみも、正しい。——君たちが救おうとしているのは、その正しい怒りを、塗り消すことだ。それは、救済かい。それとも——もう一度の、虐殺かい」
ユートが、剣を握り直そうとした。だが、力が入らなかった。
勇者として、人間族の側に立っていた自分。エイルもまた、人間族の側にいた。妖精族と人間族のハーフだったエイル。彼は——どちらの側に、立っていたのか。
ミラが、目を伏せた。
自分が今まで戦っていた相手の正体。魔王。魔族。憎むべき敵。——だがその憎しみの根が、ここにあったのなら。自分は、何のために、戦ってきたのか。
リアラの口から、嗚咽が漏れた。
堪えていたものが、崩れた。妖精族として、理解できてしまった。ルーナの怒りが。ディアルの憎しみが。母親を失った幼い子の、空っぽの目が。理解できてしまった。
バルが、背中で軋んだ。
言葉は、なかった。
「——ね。分かるだろう」
ナナシの声が、優しくさえ聞こえた。
「君たちは、引いていい。ここで、引いていい。ルーナは私が連れていく。——もう、誰の恨みにもならないところへ」
戦場が、静まり返っていた。
誰も、口を開けなかった。
ユートが、口を開きかけて、閉じた。何を言えばいいのか、分からなかった。
ミラが、何かを言おうとして、声が出なかった。
リアラは、嗚咽を堪えるので精一杯だった。
その時——
アルトが、一歩、前に出た。
指揮の位置から、一歩。誰の前にも出なかった彼が、初めて、自分から動いた。剣は抜かなかった。バルの魔力も引き出さなかった。ただ、一歩、前に出た。
「——あなたの言うことは」
アルトの声が、戦場に響いた。震えていた。だが、止まらなかった。
「正しいかもしれません。——僕たちの世界が、そういう世界だってことは。妖精族が、そんな滅ぼされ方をしたってことは。——それが、僕たちの罪だってことは」
ナナシの黒い瞳が、アルトを見た。
「だから引け、と。——あなたはそう言う。正しい怒りを、塗り消すな、と」
アルトが、もう一歩、前に出た。
「でも——僕は、それでも、ルーナさんを救います」
ナナシが、初めて、わずかに動いた。ルーナの首が、傾いた。
「——なぜ」
声が、訊いた。
「ルーナさんは、まだ生きてます」
アルトが、言った。
「さっき、月が好きだったって、自分の声で言いました。リアラの名前を呼びました。ユートさんを覚えてました。——あの子は、まだ生きてるんです。怒りの中にいても、月を好きでいられる子のままで、生きてるんです」
アルトの声が、震えながら、強くなっていった。
「世界が歪んでて、誰も裁かれなくて、誰も覚えてなかったとしても——ルーナさんを救うことは、別の話です。世界の歪みと、ルーナさんの命は、別です。世界がどうあれ、僕は、ルーナさんを救います」
ナナシが、しばらく、黙っていた。ルーナの黒い瞳が、アルトを見つめていた。
「——傲慢だね」
声が、低く言った。
「世界の歪みを認めながら、それでもこの子を救うと言う。——君が救うこの子は、世界の歪みの中で生きていくんだよ。救ったあとも、ね」
「分かってます」
アルトが、即答した。
「だからその後も、隣にいます。世界が歪んでるなら、ルーナさんと一緒に、その中で生きていきます。——救って終わりじゃないです」
ナナシが、また、黙った。
戦場の空気が、わずかに、変わった。誰の声も聞こえないままだったが、ユートが剣を握り直していた。ミラが杖を構え直していた。リアラが、涙を拭いて、顔を上げていた。
アルトの言葉が、全員の中で、何かを動かしていた。
ナナシの口が、もう一度、動いた。
「——では、見せてもらおうか」
声が、静かに言った。
「世界の歪みの中で、それでも救うという、君の覚悟を。——その傲慢が、本物かどうか。私は、見させてもらうよ」
ルーナの体から、黒い魔力が、再び立ち上り始めた。
戦いが、再開する。
だが今度は、ただの戦いではなかった。アルトの宣言を、ナナシが試す戦いだった。
アルトは、剣を抜いた。バルの軋みが、背中で答えた。
「——いきます」
アルトが、低く、言った。
戦場の月が、赤く、揺れた。




