第125話:月を見ていた子
赤い星が降ってきた。
空を埋め尽くす数。月を砕いた破片。一発一発が、中層の守護体を一撃で砕くほどの密度を持っている。それが——無数に。空のどこを見ても、赤い光が降ってきている。
ユートが剣を振った。空中の星を一つ斬り落とす。赤い光が四散した。次の星を斬る。三つ目を斬る。四つ目を——間に合わない。
「——来るぞ!」
ミラの杖が光った。火球で迎撃する。氷の壁を立てる。星が壁に当たって砕ける。だがミラの杖の出力では、五発に一発しか相殺できない。残りが地面に着弾する。草が一瞬で焼ける。地面が抉れる。土の匂いと焦げた匂いが入り混じった。
アルトが防壁を展開した。バルの魔力を引き出す。背中が軋んだ。だが防壁は薄かった。星が貫通する。一発、二発。アルトの足元で着弾し、衝撃で体が浮きかけた。膝で踏ん張った。
リアラが伏せた。星の弾道を見ている。次に何処に降るか、瞬時に読みながら避ける。一発が脇を掠めた。髪が焼ける匂い。
「——量が違う!」
ミラが叫んだ。
「これじゃ捌ききれない——もっと別の方法が要るわ——!」
ユートの剣が一段、二段と光を増した。だが流星の雨は止まない。空のどこを見ても、赤い光。アルトが歯を食いしばった。バルの魔力をさらに絞った。防壁の出力を上げた。背中の軋みが大きくなった。
——足りない。届かない。
このままでは、全員が削られて死ぬ。
ミラの目が——動いた。
戦場を見渡している。ユートの位置。リアラの位置。アルトの位置。流星の弾道。ルーナの腕の動き。次の攻撃の予兆。天才的な頭が、戦場の全てを数値として吸い込んでいる。
「——分かった」
ミラが、低く呟いた。
「——分かったわ」
杖を回した。詠唱が変わった。今までと違う詠唱。長い。複雑。聞いたことのない呪文が、ミラの唇から流れ出た。空間に魔法陣が浮かんだ。今までより大きい。今までより精緻な。ミラの周囲に、青と銀の光が二重に巻いた。
制御法と支援魔法が——一つに統合された。
「ユート! リアラ! そのまま動いて!」
ミラの杖から、二筋の光が走った。
一筋はユートの剣へ。一筋はリアラの体へ。二人の位置を追尾しながら——魔力が流れ続ける。
ユートの剣が、銀色の光を維持したまま動き続けた。さっきまで一発撃つごとに切れていた魔力供給が——途切れない。剣を振るたびに光が補充される。次から次へ。流星を一つ、二つ、三つと連続で斬り落としていく。
リアラが——驚いた顔をした。
体に流れ込む魔力を感じている。妖精の干渉力が、底から押し上げられる感覚。
「ミラさん——これ——」
「持続供給よ。——あなたとユートに、同時に。私が制御を保ってる限り、出力が切れない」
「——でもミラさんの消耗が」
「分かってるわ。——でも今これをやらないと、全員死ぬから」
ユートの剣が、流星の最後の一発を斬り落とした。雨が止んだ。戦線が——一拍、整った。
アルトが——気づいた。
これは。これがあれば。
呼びかけと攻撃を、同時に重ねられる。
「ミラさん。——どれくらい持ちます」
「五分。——もって七分」
「分かりました。——その間に、ルーナさんを引き出します」
アルトが指揮を発した。
「ユートさん、攻撃しながら呼びかけてください。——ルーナさんの記憶を引き出す。リアラ、干渉と同時に呼びかけて。二人で同時に。ミラさんは支援継続。僕は全体指揮とバルの管理」
「了解よ」
「うん——」
「分かった」
ユートが踏み込んだ。距離を縮める。剣を構え直す。ルーナの周囲の赤黒い魔力の圧が、肌を刺した。
「ルーナ」
低い声。戦闘の声ではない、知人に呼びかける声。
「——覚えてるか。故郷の月を」
ルーナの体が、ぴくりと震えた。攻撃の手が、わずかに止まった。
ユートが剣を振った。ルーナの周囲の魔力の壁を一枚、削いだ。銀色の光が散る。だがルーナの体には届かない。当てない。削るだけ。意識を引き出すための、削り。
「あの夜だ。——お前が、丘に座って、月を見てた夜」
ルーナの瞳に——緑が戻った。
一瞬。だが確かに。さっき見た時より、少しだけ長く保たれた緑。
リアラが走った。
ミラの支援を受けたまま、ルーナとの距離を詰めた。三歩。二歩。手を伸ばす範囲。リアラの瞳が、エメラルドに染まった。
干渉。ルーナの中の魔力に直接、妖精の力を流し込む。ミラの支援で、出力が今までの倍。
「ルーナ」
リアラが呼んだ。
「私、見てたんだよ。——あなたが、外を見てた姿」
ルーナの瞳の緑が——もう一度、戻った。
今度は両目に。一瞬、両目が緑になった。
「連れてかれた時、私、ルーナの傍にいたでしょう。——あなた、いつも窓の外を見てたよね。空を。月を」
ルーナの体が、震えた。肩が。指が。膝が。赤い魔力が、ゆらいだ。
ユートが二度目の斬撃を放った。魔力の壁をもう一枚、削いだ。
「あの丘の月、覚えてるか。お前があの時、何て言ったか」
ユートの声が、低く、優しかった。
「——『きれいだね』って言ったんだ。お前が」
ルーナの口が、動いた。微かに。何か言いかけて、途切れて。
リアラが両手を伸ばした。ルーナの腕に触れた。今度は弾かれなかった。干渉が——通った。
「ルーナ。あなたは、月を見てた子だよ」
リアラが、はっきりと言った。
「ずっと、月を見てた子。——憎しみの中にいる、ただの誰かじゃない。月をきれいだって、言える子だよ」
ルーナの瞳が——両目とも、緑に戻った。
今度は長かった。三秒。四秒。五秒。緑が保たれている。ディアルの赤が、奥に押し戻されている。
ルーナが——口を開いた。
「——わたし——」
声が出た。小さな、子供の声。
「——わたし、月が——」
ユートが、最後の一歩を詰めた。剣を下げた。攻撃の構えを解いた。ルーナの目の前に立った。
「お前は——月を見ていた子だ」
ユートが言った。低く、確かに。
リアラが、頷いた。ルーナの腕を握ったまま。
「月を見ていた子だよ。——ずっとね」
ルーナの目から——涙が、零れた。
両目から。二筋。さっき左目だけだった涙が、今度は両目から流れた。
アルトは——全体を見ていた。
ユートの位置。リアラの位置。ルーナの状態。ミラの支援の出力残量。バルの軋み。全員の動きが、噛み合っている。ミラの支援が出力を保ったまま二人を支え、ユートとリアラの呼びかけがルーナに届いた。緑が、両目に戻っている。
これは——届いた。
「もう少しだ。——もう少しで、引き出せる」
アルトが呟いた。バルが背中で軋んだ。だがアルトは動かない。出ない。指揮に徹する。
僕の仕事は、みんなを活かすことだ。
ルーナが、もう一度、口を開いた。
「——わたし、月が——好き、だった——」
リアラが、息を呑んだ。
ルーナの口から出た言葉。「月が好きだった」。過去形だが、ルーナ自身の言葉だった。ディアルではない、憎しみではない。ルーナという少女自身の、記憶の言葉。
「——ルーナ」
リアラの声が震えた。干渉を維持しながら、もう一度呼んだ。
「ルーナ。あなたは、月を見てた子だよ。——いまもそう。月を、好きでいて、いいんだよ」
ユートが片膝をついた。剣を地面に立てた。攻撃しない姿勢を、はっきりと見せた。
「ルーナ」
低い声。
「故郷でも、お前はずっと月を見てた。——俺はそれを、覚えてる。お前が月を見てた、その横顔を」
ルーナの目が、ユートを見た。緑のまま。震えながら。
「あ——なたは——」
ルーナの声。
「——あの——夜の——人?」
ユートの剣を持つ手が、震えた。
覚えている。ルーナが、ユートを覚えている。あの夜の丘に、一緒に座っていた人として、覚えている。
「そうだ。——俺だ。覚えてくれてたか」
ユートの声が、掠れた。
ルーナがリアラを見た。緑の瞳のまま。
「あなた——は——」
「私はリアラ。あなたが連れてかれてた時、傍にいた」
「——リアラ」
ルーナの口が、リアラの名前をなぞった。
「リアラ」
二度、呼んだ。覚えている。リアラの名前を。さっき一度呼んだ名前を、今度ははっきりと。
ルーナの体が、力を抜き始めた。赤い魔力が、霧散していく。腕が下がる。膝の力が抜ける。
——届く。
アルトが、息を呑んだ。バルが、背中で軋んだ。だが今は、軋みも気にならなかった。
ルーナが、引き出される。月を見ていた子が、戻ってくる。
その瞬間——
ルーナの体の中で、何かが膨れ上がった。
ディアルの憎しみではなかった。あれは、もっと別のものだった。静かな、冷たい、計算された——意志のようなもの。
ルーナの瞳から、緑が、突然——消えた。
赤ですらない。
黒。
深い、底のない黒が、ルーナの瞳を覆った。
「——っ!」
リアラが弾かれた。
今度はディアルの憎しみによる衝撃波ではなかった。もっと正確に、もっと冷静に、リアラの干渉だけを切り離す——精密な剥離だった。
リアラの干渉が、空中で千切れた。
「リアラ!」
ユートが立ち上がった。剣を構え直した。だが——遅かった。
ルーナの体から、新しい種類の魔力場が広がり始めた。今までの暴れる魔力ではない。整然とした、設計された、目的のある魔力場。
ミラの杖が震えた。持続供給の光が——途切れた。
「——なに、これ」
ミラの声が掠れた。
「——支援が、切られた。切られたんじゃない、無効化されたわ」
ユートの剣の銀光が、揺らいだ。剣に流れ込んでいた魔力が、空中で散った。
アルトが——気づいた。
これは違う。ディアルの憎しみではない。もっと別の——もっと冷静な、もっと知性のある何かが。
ルーナの中に、別の意志が、表に出てきている。
「——ナナシ」
アルトが呟いた。
リアラが言っていた。ナナシがいると。ディアルとは違う、静かな誰かが、ルーナを操っていると。それが——今、表に出た。
ルーナの黒い瞳が——アルトを見た。
感情がなかった。憎しみもなかった。ただ——観察していた。
ルーナの口が、動いた。だがそれはルーナの声ではなかった。別の声。低く、平坦で、年齢のわからない声。
「——届かないよ」
声が言った。
「——その子は、もう、戻れない」
戦場が、静まり返った。流星雨も止まっていた。全員が、動けなかった。
ユートが、剣を構えたまま、立ち尽くした。ミラが、杖を構えたまま、息を止めた。リアラが、地面に倒れたまま、目を見開いた。
そしてアルトは——全体を見ていた。全員の絶望を。ルーナの瞳の黒を。そこに浮かぶ、別の意志を。
呼びかけは、届きかけた。届きかけて——別の何かに、塗り潰された。
これは——もっと根が深い。
「——届かない、なら」
アルトが、低く呟いた。
「——別の方法を、考えなきゃ、いけない」
戦場の空気が、変わっていた。
ルーナの中にいる、誰かと——本当の意味で、向き合う時間が、来ていた。




