第123話:お前か
緑が——消えた。
ルーナの瞳から、一瞬だけ浮かんだ翠の光が沈み、赤が戻った。深い赤。血の赤ではなく、もっと暗い——炎が燃え尽きる直前の、燻った赤。
それと同時に——空間が変わった。
草原が震えた。足元の草が一斉に身を伏せ、風が止まり、天井の偽りの月が明滅した。穏やかだった空気が——裂けた。月の光が歪み、冷たかった光が熱を帯び始めた。
ルーナの体から——魔力が溢れていた。
座ったまま。膝を抱えたまま。何も動いていない。だがルーナの周囲半径五歩ほどの空間が——赤黒く染まっていった。草が枯れた。緑が赤に変わり、黒く変色して倒れていく。
リアラが——弾かれた。三歩前にいたリアラの体が、見えない力に押されて後退した。足が草を滑る。倒れかける。アルトが手を伸ばして支えた。
「リアラ!」
「——大丈夫。押されただけ」
押された。魔力の圧で。——ルーナは何もしていない。ただ目を開けただけだ。目を開けて、リアラを見ただけだ。それだけで——この力。
「……これが——魔王か」
ユートが呟いた。
ユートは魔王と戦ったことがある。エイルの記憶の中で。剣を通して受け取った断片的な戦闘記憶。だがそれは記憶だった。体で感じたものではなかった。今——体が感じている。魔王ルーナの、圧倒的な魔力。妖精族の力と魔族の力が一つの体の中で渦巻いている。二つの力は本来相容れない。だが一人の少女の中で強制的に融合され、暴走している。
ルーナの目が——動いた。
赤い瞳が、リアラを見ていた。さっきまで座り込んでいた少女の目ではなかった。表情がない。感情が消えている。さっきの一瞬の緑——あれがルーナだったなら、今目の前にいるのは——ルーナを覆うもう一つの意識だった。
ディアルの憎しみ。
ルーナの体を器として残り続ける、魔族の怨念。ディアルは消滅したが——ディアルが生涯をかけて集め、ルーナに注ぎ込んだ憎しみだけが残っている。憎しみに意志はない。知性もない。ただ——全てを燃やそうとする衝動だけが、ルーナの中で渦巻いている。
ルーナが——立ち上がった。
ゆっくりと。膝を抱えていた腕がほどけ、裸足の足が地面を踏み、小さな体が起き上がる。長い銀髪が重力に逆らって浮き始めた。魔力が体の周囲で渦を巻いている。衣服の裾が赤い光に照らされてたなびく。
立ち上がった姿は——小さかった。リアラより小さい。子供の体。だがそこから放射される力は——この空間を作り替えるほどの密度を持っていた。
天井の月が——赤く変わった。白い光が赤に染まり、優しかった月光が灼熱の光に変わる。草原が萎れていく。ルーナが作り上げた美しい空間が——ルーナ自身の暴走で壊れていく。月を慈しんでいた少女の心が、ディアルの憎しみに塗り潰されていく。
「——守るべきものを壊してる」
アルトが呟いた。
ルーナは月が好きだった。だから月を作った。草原を作った。外の世界への憧れをこの空間に込めた。——それがいま、自分自身の力で壊れている。ルーナの意志ではない。ルーナの中にある憎しみが、ルーナの大切なものを焼いている。
これが——救うべき光景だった。
「全員、下がって。——まだ来るな」
ユートが一歩前に出た。剣は抜かない。手を柄にかけたまま。
「ユートさん——」
「様子を見る。——俺から行く。あの子のことを知ってるのは、この中じゃ俺だけだ」
アルトは——口を開きかけて、閉じた。ユートの言う通りだった。ルーナとの個人的な記憶を持っているのはユートだけだ。故郷で三ヶ月を共に過ごした。月を一緒に見た。名前は知らなかった。魔王だとも知らなかった。ただ——一緒にいた。
ユートが歩いた。三歩。四歩。赤黒い魔力の圧が強くなる。呼吸が重くなる。胸の奥に何かが押し込まれるような圧迫感。だがユートは歩を緩めなかった。
ルーナの赤い目が——ユートを見た。
見た瞬間。魔力が跳ねた。
空気が裂けるような衝撃波がユートに向かって放たれた。防御ではない。反射だ。近づくものを弾き返す、本能的な拒絶。触れさせない。近づかせない。——壊してしまうから。
ユートが剣を抜いた。衝撃波を斬り裂いた。銀色の光が弧を描き、赤い力を左右に散らした。足が地面を踏み、体勢を保った。——そのまま、もう一歩前に出た。
「……お前か」
ユートが言った。
低い声。静かな声。戦う声ではなかった。——ただの、声だった。知っている人間に声をかける時の、あの声。
「大きくなったな」
ルーナの体が——震えた。
微かに。ほんの一瞬。肩が震え、指が震え——赤い瞳の奥で、何かが揺れた。認識している。この声を。この言葉を。「お前か」と呼ぶこの人間を。記憶がある。どこかに。赤い霧の向こうに——この声を知っている自分がいる。
だが——揺らぎは一瞬だった。
赤が戻った。ディアルの憎しみが揺らぎを塗り潰した。ルーナの腕が上がった。掌がユートに向けられた。
魔力の圧縮弾が——放たれた。
ユートが横に飛んだ。弾が地面に着弾し、黒い石が砕け、草が焼けた。衝撃波が四方に広がった。
「——来るぞ。全員、作戦通りに!」
ユートが叫んだ。剣を構え直した。銀色の光が——全開になった。金の力は、まだ借りない。エイルの残滓は、最後まで取っておく。
アルトは——バルを感じた。背中で。軋んでいる。震えている。だが——まだいる。
「バル。——行くよ」
『……ああ』
掠れた声。だが——覚悟があった。
『行け。——ノロマ』
ミラが杖を構えた。制御法が全開になった。ユートの魔力消費を最適化する式が走る。リアラが一歩下がってルーナを見据えた。呼びかけの機会を待つ。
ルーナが——二発目を放った。今度は散弾。無差別に。全方向に。赤い光の弾が草原を焼きながら五人に向かって飛んだ。
ユートが前に出て二つを斬った。ミラが杖で一つを相殺した。アルトが防壁を展開して——薄い。だが残りの弾を弾いた。バルの魔力が背中で軋んだ。
リアラが干渉を飛ばした。ルーナの周囲の魔力に——微かな波を送った。鎮静化の干渉。ルーナの意識を引き出すための、呼び水。
効果は——あった。一瞬。ルーナの散弾が止まった。赤い目が瞬いた。何かを感じたように。リアラの気配を。妖精のハーフの、柔らかい魔力を。
だがすぐに赤が深まった。三発目の魔力弾が——もっと大きい塊として圧縮され始めた。
「大きい——次のは、受けたら終わりね」
ミラの声が硬い。
「ユートさん——」
「分かってる。——削る」
ユートが踏み込んだ。勇者の剣が弧を描く。ルーナの魔力の壁に斬り込む。銀色の光と赤い光がぶつかり、火花のように散った。ルーナの体には届かない。だが——魔力の壁を一枚、削いだ。
ルーナが——ユートを見た。
赤い目で。だがその赤の底に——涙が。
涙が出ていた。赤い瞳から。左の目だけ。一筋の涙が頬を伝っていた。ルーナの意識ではない。——ルーナの体が泣いている。攻撃しながら。力を振るいながら。体だけが——覚えている。この人は敵ではないと。この人は——月を一緒に見た人だと。
ユートは——それを見た。
見えた。涙が。——剣を持つ手が、微かに震えた。だが止まらなかった。止まれない。ここで止まったら、誰も助けられない。
「泣いてるな」
ユートが低く言った。声が震えていた。
「大丈夫だ。——今度は助ける。今度は、ちゃんと」
エイルにできなかったことを。勇者が果たせなかったことを。ユートが——ユートとして。ここで。
ルーナの三発目が——放たれた。
赤い光が空間を灼いた。ユートが剣で受け止めた。衝撃が全身を叩いた。足元の石が割れた。腕が痺れた。——だが、立っている。
「っ——重い!」
「ミラさん!」
「——任せなさい!」
ミラの杖から制御の光が走った。ユートの魔力消費を最適化し、剣への出力を倍加させる。ユートの体を通してではなく——ミラの制御法が直接、勇者の剣に魔力を流し込んだ。支援。これがミラの役割。
ユートの剣が——光った。一段。二段。光が増す。ルーナの三発目を——弾き返した。赤い光が天井に飛び、偽りの赤い月を揺らした。
草原が震えた。戦場になった。月の光が赤く揺れる中、五人と一人の戦いが——始まった。
ルーナが腕を振った。新たな魔力が渦巻き始める。圧倒的な。底なしの。——だがその体は小さくて、その目の奥には涙があった。
アルトは見ていた。全体を。全員の動きを。ルーナの攻撃パターンを。バルの状態を。ミラの消耗を。ユートの位置を。リアラの干渉のタイミングを。
前に出たい衝動を抑えた。飛び出したい衝動を噛み殺した。
僕の仕事は——みんなを見ることだ。みんなを活かすことだ。
導くことだ。
「ユートさん、左に回ってください! ルーナさんの右手が魔力弾の起点です——右手を抑えれば発射が遅れる!」
ユートが動いた。迷いなく。アルトの声を信じて。
戦いは——まだ始まったばかりだった。




