第122話:扉の向こう
光が——溢れていた。
白ではなく、赤でもなく。色のない光。魔力の密度が臨界を超えて、色を失っている。純粋な力の放射。目を開けているのがやっとだった。
アルトは一歩踏み出した。扉を越えた。足が——柔らかいものを踏んだ。草だった。
草。
城の中に——草が生えている。黒い石の床を突き破って、短い緑の草が一面に広がっていた。足首まで。風が——あった。閉じた空間のはずなのに、微かな風が草を揺らしている。
足を踏み込むと、靴底に湿った土の感触が伝わった。本物だった。少なくとも、本物と区別がつかないほど精密に作られていた。
光の源は——上にあった。
天井に——月があった。
本物ではない。巨大な白い光球が天井に浮かんでいる。魔力で構成された偽りの月。だが——光は本物の月のように冷たく、柔らかかった。外の世界で見上げる月と同じ光。それを、城の最奥で——誰かが作っていた。
風に——匂いがあった。草の匂い。土の匂い。夜露の匂い。本物ではないはずなのに——本物と同じ匂いがする。赤い結晶と魔力の圧力だけだった城の中で、この空間だけが——外の世界を再現していた。作った人が——どれほど外を恋しがっているか。それが、匂いの中に溢れていた。
「……月」
リアラが呟いた。
月が好きだった少女が——この場所に月を作っていた。
「——ルーナ」
ユートの声が震えた。低く。抑えた声の奥から、感情が滲んでいた。ルーナの名前は——月を意味する。月を好んだ少女が、自分の名前を持つ光を天井に灯している。
部屋は広かった。城の外観からは想像できないほどに。草原のような空間が四方に広がり、境界が見えない。壁があるのかないのかすらわからない。月の光が全てを照らしている。歩いて測れる広さではなかった。視界の限り草が広がっていて、奥は霞んでいる。本当の野原のように。
そして——中央に。
草原の中央に——誰かが座っていた。
小さな影。膝を抱えて。長い髪が草の上に散っている。裸足。身動きしない。——眠っているのか。あるいは——意識がないのか。
バルの共鳴が——全身で震えた。
『——あれだ』
声が掠れていた。だが確信があった。
『ルーナだ。——あの子が。間違いねぇ』
アルトの足が——前に出ようとした。止めた。全体を見ろ。まず状況を確認しろ。——それでも足が前に出たがる。あそこにいるのは——救うべき少女だ。
「止まってください。——全員、ここで一度止まりましょう」
アルトの声が部屋に響いた。草原を渡る風は冷たかった。月の光が影を作っている。穏やかで——静かすぎる空間。城の中にあっていいはずのない、美しい場所だった。敷かれた罠だと思えばそれまでだが——この美しさには嘆きが溢れている。外を求める嘆き。それを感じたからこそ、罠ではないと思えた。
「罠かもしれない。——こんなに穏やかなのは、おかしい」
「同感だ」
ユートが剣に手をかけたまま言った。視線はルーナから離さない。
「だが——罠かどうかに関わらず、あそこに行くしかない」
「はい。——行きます。でも慎重に。ミラさん、周囲の魔力の流れを見てもらえますか」
ミラが杖を掲げた。制御法が展開される。空間の魔力を解析する。——数秒後、ミラの表情が変わった。
「……おかしいわ」
「何が」
「魔力が——安定してる。この部屋だけ。城全体の変動が嘘みたいに、ここだけ完全に静止してる。まるで——」
ミラが言葉を選んだ。
「——まるで、誰かが制御してるみたい。この空間を。意図的に」
「ルーナが——?」
「わからない。ルーナか、あるいは——」
ナナシ。その呼び名が全員の頭をよぎった。だが——気配がない。この空間にいるのは——座り込んだ小さな影だけだった。
「行きましょう。——全員で。ゆっくり」
アルトが先頭に立った。今度は——先頭に立つことに意味があった。最初に接触するのは自分でいい。ユートは二歩後ろ。剣をいつでも抜ける姿勢。ミラが三歩後ろで杖を構える。リアラが四歩後ろ。
草を踏む音だけが聞こえた。ざく。ざく。ざく。五人分の足音。月の光の中を歩いていく。草は柔らかかった。本物の草の感触。魔力で作られたとは思えないほどの精密さ。——この草原を作るのに、どれほどの想いが込められているのか。
バルが——背中で、非常に微かな音を立てた。きしみではない。共鳴だ。ルーナに近づくほど、バルの中の残滓が応答している。かつて同じ器の中にいた——魔王の核の名残りが、ルーナの中の魔王の力と呼び合っている。
「バル——痛い?」
『痛くねぇ。……だが——近い。あの子が——近い』
バルの声に、痛みはなかった。代わりにあったのは——懐かしさに似た何か。かつて自分の一部だったものの気配。それはバルの記憶ではない。魔王の記憶の残滓だ。だがバルの中に溶け込んで、バル自身の感覚になっている。
ユートは——黙って歩いていた。剣の柄を握る手が強い。ルーナの影が近づくほど、胸の奥で何かが軋んでいる。故郷の外れのため池。月明かりの夜。隣に座っていた小さな少女。名前も知らなかった。魔王だとも知らなかった。——ただ、月を見て笑っていた。その子が——この場所で、あの時の月を再現している。
距離が縮まる。三十歩。二十歩。十歩。
ルーナの姿が——はっきり見えた。
小さかった。リアラより少し小さい。痩せている。長い銀色の髪が草の上に広がっている。肌は白い。透けるように白い。血が通っているのか疑わしいほどの白さ。纏っているのは——ぼろぼろの布一枚。埃も払っていない。着替えてもいない。もう長い間、ずっとこうしているのだとわかる。目を閉じている。呼吸しているのかどうかもわからない。——脚に傷があった。古い傷。もう塞がっているが、残っている。いつの傷だろう。——誰がつけたのだろう。
だが——存在感があった。小さな体から放射される魔力が、この空間そのものを形成している。草も。月も。風も。匂いも。全てがルーナの魔力の産物だった。この空間は——ルーナの内面そのものだった。外を恋しがる心が、そのまま空間になっている。
リアラは両手を胸の前で握っていた。ミラの杖の光が、ルーナの魔力の波形を細かく拾い続けている。ユートは——目を閉じていた。記憶を確かめるように。
「……月を作ってる」
リアラが小さく言った。声が震えていた。
「ルーナが——自分の部屋に、月を作って。草を生やして。——外の世界を、再現しようとしてる。ここにいながら——外を思い出そうとしてる」
その言葉が——全員の胸を刺した。
魔王ではない。怪物ではない。——外が恋しい少女が、城の最奥で、偽りの月と草原を作って、それにすがっている。リアラが言ったとおりだった。ルーナは——帰りたがっている。
五歩。
アルトが立ち止まった。ルーナまであと五歩。
「ルーナ」
呼びかけた。
返事はなかった。
ルーナは微動だにしない。目を閉じたまま。膝を抱えたまま。——だが、アルトの声が響いた瞬間。
風が——止まった。
草が揺れなくなった。月の光が微かに明滅した。空間が——緊張した。ルーナの魔力が、侵入者を検知した。穏やかだった空間に、かすかな敵意が——。
「——待って」
リアラが前に出た。アルトの横を通り過ぎて。一歩。二歩。三歩。ルーナの前に。
「リアラ——」
「大丈夫」
リアラの「大丈夫」は本物だ。
リアラが——膝をついた。ルーナの前に。目線を合わせるために。
「ルーナ。——私だよ」
風が——戻った。
ほんの微かに。草がそよいだ。月の明滅が止まった。敵意が——薄れた。完全には消えない。だが——リアラの声に、この空間が反応した。
「私だよ。リアラ。——覚えてる?」
ルーナの指が——動いた。
膝を抱えていた指が、微かに。ほんの数ミリ。痙攣のような動きだったが——意志があった。
目は——まだ開かない。
「覚えてるよね。——毎日、来てくれてたよね。扉の前に立って。こっちを見て」
リアラの声は——穏やかだった。怖がらせないように。急かさないように。ルーナのペースで。
「今度は——私が来たよ。私と、仲間たち。あなたを——助けに来た」
ルーナの唇が——動いた。
声は出なかった。唇が何かを形作ろうとして——止まった。
そして——瞼が、震えた。
開こうとしている。目を。こちらを見ようとしている。リアラの声を聞いて。リアラの気配を感じて。開こうとしている——でも、開けない。開いたら——ディアルの力が表に出てしまうことを、ルーナ自身が恐れている。
「大丈夫だよ」
リアラが言った。
「開けて。——大丈夫。私たちがいるから」
ルーナの瞼が——開いた。
瞳は——赤かった。深い赤。ディアルの憎しみの色。——だがその赤の奥に、一瞬だけ。
緑が揺れた。
アルトの呼吸が止まった。ユートの手が剣の柄を握り締めた。ミラが杖を構え直した。バルが背中で震えた。
緑。ルーナの本来の瞳の色。妖精族の血を引く少女の、翠の瞳。——一瞬だけ表面に浮かんで、すぐに赤に呑まれた。
だが——見えた。全員が見た。
ルーナは、まだいる。
「……始めるわよ」
ミラが杖を握り直した。声は硬く、覚悟を含んでいた。
「作戦通り。——ルーナを、救いましょう」
草原に立つ五人と、座り込んだ一人。
偽りの月の下で——決戦が、始まろうとしていた。




