第119話:前夜
城の中に夜はない。
窓もなければ空もない。赤い光が絶え間なく脈打つこの場所に、昼と夜の区別はない。——だが全員の体が限界を訴えていた。足が重い。目がかすむ。筋肉が悲鳴を上げている。何時間歩いたかわからないが——休むべき時間だった。
回廊の途中に——窪みがあった。壁が抉れたように広がった空間。部屋と呼ぶには小さいが、五人が座れるだけの広さはある。壁の結晶が比較的薄く、魔力の脈動も弱い。城の死角のような場所だった。
「ここで休みましょう。——次に動いたら、もう止まれない」
アルトが言った。全体を見ている。リアラの足取りが重くなっていた。ミラの制御法の光が揺らいでいた。ユートだけは変わらないように見えるが——それはユートが疲労を見せないだけだ。
「最後の休息ね」
ミラが壁に背を預けた。杖を膝の上に置く。
最後の休息。その言葉に、誰も異論を挟まなかった。次に立ち上がった時——ルーナのところまで止まらない。止まれない。バルの時間が許さない。
リアラが干渉を広げた。窪みの中だけ、赤い光が和らいだ。彼女の干渉は城の外に出るほど弱くなるが、この狭い空間なら十分に効いた。バルの漏出も——わずかに減速する。わずかだが。
ユートが入口付近に座った。剣を置かずに膝に抱えている。見張り。だが——今は見張りだけではなかった。通路の奥を見ている目が、何かを考えている。
* * *
「ユートさん」
アルトが隣に座った。壁を挟んで。小声で。
「……何だ」
「ルーナさんに会ったら——何を言いますか」
ユートは——しばらく答えなかった。剣の柄を撫でていた。銀色の光が指先に反射する。
「わからない。——考えてはいる」
「エイルのことを——話しますか」
「……ルーナの前で、エイルの名前を出していいのか。それも含めて——迷ってる」
ユートの声は低く、静かだった。普段の落ち着いた声とは少し違う。内側を探っている声。
「あの子は——月が好きだった。俺と故郷で過ごした三ヶ月の間、毎晩月を見てた。大きい月の日は機嫌がよくて、曇りの日は少し寂しそうで」
アルトは黙って聞いていた。
「あの時の俺は——何も知らなかった。あの子が魔王だったことも。エイルと仲間だったことも。記憶が曖昧になって、故郷に迷い込んだだけだってことも。——ただ、一緒にいた。それだけだった」
「それだけ——って」
「それだけでよかったんだ。あの三ヶ月は。あの子が笑って、俺も笑って。それだけで」
ユートが——顔を上げた。赤い天井を見ている。
「ルーナの前に立ったら——俺は、あの頃のことを話すかもしれない。エイルの名前は出さずに。ただ——月のこと。一緒に見た月のこと」
「……それが、ルーナさんに届くと思いますか」
「わからない。——でも、リアラが言っただろ。ルーナは月を見てエイルの名前を呼んだって。月の記憶が——ルーナの中にまだ残ってるなら。俺の声が——少しでも」
ユートはそこで言葉を切った。
「……やるだけやるさ」
アルトは頷いた。ユートの覚悟は——静かだった。勇者の名前を背負うのでもなく、借り物の力に頼るのでもなく。ただユートとして、かつて一緒に月を見た少女を——助けに行く。
* * *
ミラが——杖の上で、最後の計算を終えた。
「できたわ」
小さく呟いた。誰に聞かせるでもなく。
段階的放出の制御式。バルの合成魔力をルーナに流し込む際に——一度に全出力を出すのではなく、三段階に分けて放出する。各段階の間に零コンマ数秒のインターバルを挟む。器にかかる瞬間的な負荷を分散させる方法。
理論上は——器の崩壊リスクを下げられる。ただし下げるだけだ。ゼロにはできない。
ミラは——式を見つめた。白い光の文字が杖の上に浮かんでいる。何度も組み替えた。何度も検算した。これ以上の最適化はできない。もう一つパラメータを絞れば精度は上がるが、余裕がなくなる。想定外の事態に対応できなくなる。
——完璧を目指さない。支え続けられる形であればいい。
さっき自分に言い聞かせたことだ。完璧ではなく、粘れる形を選ぶ。ミラは式を——そのまま確定した。
「ミラさん」
リアラが近づいてきた。よろめかずに歩けるようになっている。回復してきている。
「制御式——私にも説明してもらっていい? 干渉のタイミングを合わせたいの」
「もちろん。——座って。説明するわ」
ミラは杖の光でリアラに式の構造を見せた。リアラは魔法使いではない。制御法の理論はわからない。だが——自分の干渉のタイミングをどこに合わせればいいかは、感覚で掴もうとしていた。
「ここ。——この三回目の放出の直前に、私が干渉を強めればいい?」
「そう。三段目が一番負荷が大きい。そこでリアラちゃんの干渉が入れば——バルの器への衝撃を和らげられる」
「わかった。覚える」
リアラの目は——真剣だった。自分にできることを、一つでも多く見つけようとしている。受け身のヒロインではない。戦場で役割を果たす味方だ。
ミラは——リアラの横顔を見て、少し笑った。
「強い子ね。——あなた」
「そんなことないよ。怖いし。——でも、やらなきゃいけないことがあるから」
「それを強いって言うのよ」
* * *
時間が過ぎた。
全員が少しずつ目を閉じた。完全に眠るのではなく——体を休める程度に。交代で。ユートとミラが見張りを分け合い、アルトとリアラはウトウトしていた。
バルだけが——ずっと起きていた。
起きていた、という表現が正しいかは分からない。バルに睡眠はない。意識を落とすことはあるが——今は落とせなかった。漏出が止まらない。意識を落とすと、漏出速度が上がる。体内の循環を絞り込んで制御している以上、意識を手放すわけにはいかなかった。
アルトが隣で寝ている。浅い眠り。心拍は穏やかだ。——泣いた後から、こいつの心拍はずいぶんまともになった。それまでは常に上がっていた。焦りと緊張で。今は——人間らしい心拍に戻っている。
バルは——アルトの背中を感じていた。温度。振動。呼吸。この体と一緒に旅をしてきた。出会った日から。最初は「ノロマな餌」だった。足手まといの、ひ弱なガキ。それが——こうなった。泣いて。怒って。壊れかけて。立ち直って。仲間を集めて。ここまで来た。
——大したもんだ。
口には出さない。絶対に出さない。だが。
バルは——自分の器を感じた。内側から。ヒビが走っている。中の魔力が隙間から漏れている。砂時計の砂が——落ちている。止められない。
消えるかもしれない。
さっき言った言葉は——本心だった。嘘はつけない次元に来ている。剥離をやれば、器が割れる可能性がある。割れたら——バルは消える。魔道具としても、人格としても。全部。
怖い。
怖いと思った。
バルが怖いと思うことは——滅多にない。傲慢で、不遜で、何にも媚びない魔道具バッグ。それがバルだ。だが今——怖い。消えることが。もう二度とこいつらの声を聞けなくなることが。ノロマの寝顔を見られなくなることが。
——怖い。
でも、逃げるわけにはいかない。逃げたら——ルーナが救えない。バルの合成魔力でしか剥離はできない。バルが逃げたら、全部が崩れる。
だから、やる。やるしかない。
「……バル」
低い声。——リアラだった。
起きていたのか。いつから起きていたのか。暗い窪みの中で、リアラの瞳がうっすらとエメラルドに光っていた。感知しているのだ。バルの魔力の状態を。
『……何だよ。寝てろ』
「眠れないの。——バルの魔力が揺れてるから。気になって」
『人の寝相に口出すんじゃねぇ』
「寝相じゃないでしょ」
リアラが——小さく笑った。掠れた声で。
「怖い?」
直球だった。リアラは——いつもそうだ。核心を突く。初めて会った時から。アルトの「大丈夫じゃないでしょ」も、今のこの一言も。見抜く。嘘が通じない。
『……怖くねぇよ』
「嘘」
『——うるせぇ』
バルの声が——掠れた。怒りではなかった。
「怖くていいんだよ。——消えたくないって思って、当たり前だよ」
『お前に言われなくても——』
「知ってる。——ただ言いたかっただけ」
リアラの手が——バルの布に触れていた。いつの間にか。冷たい指先。だがその指先から、微かに緑色の光が流れていた。干渉。漏出を——ほんの少しだけ緩やかにしている。治療ではない。ただ——撫でているようなものだった。痛む場所を。
『リアラ』
「うん」
『……ルーナを助けたら——俺のことも、考えてくれるか』
バルの声が——小さかった。バルらしくない声だった。
「もちろん」
リアラは即答した。
「バルのことも助ける。アルトだけじゃない。私も。みんなも。——全員で」
『……調子のいいことばっか——』
「調子よくないよ。本気だよ」
バルは——黙った。
リアラの指先の光が、静かに脈打っていた。バルの漏出を緩やかにしている。砂時計の砂が——ほんの少しだけゆっくり落ちるように。
止められない。でも——遅くすることはできる。この仲間がいる間は。
『……寝ろよ。明日——いや、次に動いたら。もう最後だ』
「うん。——バルも。少しだけでも休んで」
『俺は休めねぇよ。意識落としたら漏出が——』
「じゃあ——目を閉じてるだけでいいよ。静かにしてて。私がそばにいるから」
バルは——何か言い返そうとして、やめた。
リアラの手が触れたまま。干渉の光が流れたまま。
窪みの中は——静かだった。赤い光が和らいだ空間で、五人が——それぞれの形で、最後の夜を過ごしていた。
* * *
アルトが目を開けた。
何時間経ったかわからない。体は完全には回復していない。だが——動ける。動かなければならない。
見回した。全員がいた。ユートが壁に背を預けて目を開けている。ミラが杖を抱えたまま座っている。リアラがバルの隣で——指先をバルの布に載せたまま眠っていた。バルは——目を閉じていた。閉じている、という表現が正しいかは分からないが。
「——起きたか」
ユートが言った。
「はい。——何時間寝ましたか」
「さあな。三時間か四時間か。——十分だろう」
十分かどうかは分からない。だがこれ以上は待てない。バルの時間が——。
リアラが目を開けた。バルが——微かに振動した。意識が戻る。
『……朝か?』
「朝だよ。——多分」
リアラが答えた。
『……くそ。俺、寝てたのか。意識落とすなって——』
「大丈夫。漏出、ちゃんと見てたから。——少しだけど、回復してたよ」
『回復——?』
「干渉してた。……あんまり効いてないかもだけど」
バルは——黙った。リアラの指先が、ずっと触れていたことに気づいた。夜通し。干渉を続けていた。バルの漏出を緩やかにするために。自分の体力も万全ではないのに。
『……馬鹿だろ、お前も』
「アルトに似てるって言われるかも」
『似てんだよ。——そこが』
バルの声に——苦味と、温もりが混じっていた。
アルトは立ち上がった。全員を見渡した。
「行きましょう」
短く。静かに。——だが全員に届く声で。
「次に止まるのは——ルーナさんの前です」
ユートが立ち上がった。剣を背に負った。ミラが杖を握り直した。リアラが手を離して——立った。バルが、アルトの背中で軋んだ。
五人が——窪みを出た。
最後の夜が終わった。赤い回廊が、最上層へ続いている。




