第118話:そろそろ覚悟しとけ
歩き始めて——どれくらい経っただろう。
回廊は緩やかに上昇していた。足元の勾配では気づかないほどの傾斜。だが階段を使わずに高度が上がっている。城が——最上層へ向かう道をこの通路の中に折り畳んでいる。壁の結晶が脈打つ速度が少しずつ上がっていた。心臓に近づいているように。城の中核に向かっている。
守護体が現れた。
壁から剥がれた獣型が二体。上層で遭遇したものと同じ四足の結晶体だが——赤い光の密度が違う。目が四つではなく六つ。一回り大きい。
「——来る」
ユートが剣を抜いた。銀色の光が、刃に満ちる。正面の一体に斬り込む。——八割。重い。上層のものより固い。一撃で砕けない。
「もう一体、左!」
アルトが声を上げた。左壁から二体目が跳びかかる。ミラへ。
アルトが防壁を展開した。バルの魔力を引き出す——引き出そうとした。
出なかった。
手が伸びた。魔力が流れる感覚が来て——途切れた。途中で。水道の蛇口を捻って、最初だけ水が出て、すぐに止まるように。防壁の形が一瞬だけ光って——崩れた。
「——バル!」
『ッ——もう一回——』
バルの声が割れた。掠れた声が絞り出される。二度目の魔力が押し出された。今度は——出た。防壁が展開される。だが薄い。いつもの半分の密度。守護体が激突した。衝撃がアルトの腕を突き抜けた。痺れている右腕ではなく、左腕で受けた。防壁がひび割れる。持たない——。
ミラの魔法が飛んだ。杖から放たれた圧縮された魔力弾が、守護体の側面を撃ち抜いた。均衡が崩れた隙にユートが戻り、背後から一閃。核を断ち切った。
一体目もユートが仕留めた。九割出力。二撃。重い相手だったが——ユートの安定感は変わらない。
通路が静かになった。
「……バル」
アルトの声が——震えていた。
抑えようとしていた。抑えられなかった。さっき防壁が出なかった瞬間——頭の中が真っ白になった。バルの魔力が途切れた。今まで一度もなかった。バルの魔力は常にあった。漏出が進んでも、器が軋んでも——呼べば応えてくれた。それが——応えられなかった。
『……悪ぃ。一瞬——意識が飛びやがった』
バルの声は低く、乾いていた。悪態の色が薄い。事実を述べている声だった。
「どのくらい——どのくらい、持ちますか」
『聞くなよ。——聞かれても答えられねぇ』
「答えてください」
アルトの声が——硬かった。泣いた翌日の声ではなかった。問い質す声だった。仲間の命に関わることを、正面から聞く声。
バルは——しばらく黙った。
ユートが剣を収めた。ミラが杖を下ろした。リアラが静かに立っていた。全員が——バルを見ていた。バルの姿は見えないが、アルトの背中に向けた視線が、全てバルに向いていた。
『……正直に言う』
バルの声が変わった。いつもの荒い口調が——落ちた。もっと低い。もっと静かな声。アルトが聞いたことのない、バルの地の声。
『器の損傷がひどい。漏出は止められねぇ。内側に絞り込んでも——出ていく速度の方が速い。城の魔力変動が外から叩いてくるせいで——もっと速い』
淡々と。自分の状態を。
『さっきの戦闘——防壁を出すのに、全力が要った。前は片手間だったのに。魔力の総量が減ってる。使える量が減ってる。出力も、持続も、全部——落ちてる』
「それは——」
『黙って聞け』
バルが遮った。短く。鋭く。——だが怒りではなかった。
『ルーナ戦で——剥離をやる。合成魔力を流し込んで、ディアルの力を引き剥がす。作戦はそうだろ。——できる。まだ——できる。だが』
一拍。
『——やったら、終わりかもしれねぇ』
通路が凍った。
『剥離に必要な魔力を出したら——器が保たねぇ可能性がある。出力に耐えられねぇ。ヒビの入った壺に水圧をかけるようなもんだ。中身を全部出したら——壺が割れる』
バルの声は——まだ静かだった。
『割れなきゃ御の字だ。だが——割れる可能性の方が高い。正直に言えばな』
誰も答えなかった。
アルトの手が——膝の上で握られていた。爪が食い込むほど強く。左手。視界が揺れている。泣いているのではない。世界が揺れている。バルが消える。その可能性が——言葉になった。バルの口から。本人の口から。
「……助ける方法を探します。剥離の前に。器を——」
『ねぇよ』
「探します」
『ねぇんだよ。——エイルですら治せなかった。一時的に安定させるのが精一杯だった。勇者の力で届かねぇものを、お前がどうにかできるわけがねぇだろ』
バルの声が——初めて、苛立ちを含んだ。だが苛立ちの向いている先は——アルト自身ではなかった。自分自身だった。治せない自分に。壊れていく自分に。
「……だからって——」
『だからって何だよ。黙って消えろっつってんじゃねぇ。——覚悟しとけって言ってんだ』
覚悟しとけ。
その言葉が——通路に響いた。
『最善を尽くす。剥離もやる。ルーナを救う。——だが結果として俺が消える可能性がある。それを——お前が知っておけ』
「——嫌です」
『嫌じゃねぇんだよ。覚悟の話をしてんだ』
「覚悟させないでください。覚悟したら——本当にそうなる気がする」
アルトの声が——割れた。泣くのとは違う割れ方。堪えている声。全力で踏みとどまっている声。
バルは——黙った。
長い沈黙。城の脈動が壁を這う音だけが聞こえていた。
『ノロマ』
「……何」
『お前——泣いた後に、『みんなで考える』って言ったよな』
「……はい」
『だったら聞け。これも——みんなで考えることだ』
バルの声が——少しだけ、戻った。荒い口調に。バルらしい声に。
『俺が消えるかもしれねぇ。——それを前提にして、それでも最善の手を打つのが、お前たちの仕事だろ。覚悟するなって——そりゃ無理だ。だが覚悟した上で、最善を選べ。目を逸らすな。——ノロマならそれくらいできるだろ』
アルトは——唇を噛んだ。
バルの言っていることは——正しかった。目を逸らすのは、バルに対して失礼だ。バルが自分の限界を正直に話してくれた。嘘をつかずに。誤魔化さずに。それを受け止めないのは——バルの覚悟を踏みにじることになる。
「……覚悟します」
声は——小さかった。
「覚悟します。——でもバル。僕は諦めません」
『……はぁ?』
「覚悟はする。バルが消えるかもしれないって。受け止める。——でも、諦めない。最後まで。バルを残す方法を——ルーナさんを救いながら、バルも残す方法を。最後の最後まで探します。全員で」
バルは——答えなかった。
しばらく沈黙して——背中の振動が、微かに変わった。軋みの中に——別の何かが混じった。
『——そう来ると思ったよ』
声に——ほんの僅かに、笑いが混じっていた。笑いと呼ぶには弱い。でも苦さの中に——温度があった。
『……馬鹿だろ、お前』
「知ってます」
『覚悟して、でも諦めねぇって——矛盾してんだよ』
「矛盾してていいです。両方やります」
バルが——小さく、息を吐いた。笑ったのかもしれない。呆れたのかもしれない。
『……ったく。——勝手にしろ』
いつもの言葉。勝手にしろ。——だがその声が持つ温度を、アルトはもう知っている。勝手にしろは、好きにしろだ。好きにしろは、信じてやるだ。
「ユートさん。ミラさん。リアラ」
アルトが——全員に声をかけた。
「バルの状態を、聞いてくれましたか」
「聞こえてた」
ユートが短く答えた。
「聞いてたわ」
ミラが。
「——うん」
リアラが。
「作戦は変えません。剥離はやる。でも——バルの器を守りながらやる方法を、全員で考えたい。道中でも。ルーナさんの前に着くまでに」
「私の制御法で——出力を分散させることはできるかもしれない。バルの器に一度に負荷がかからないように、段階的に魔力を放出させる。——ただ、計算が必要ね。歩きながらやるわ」
「俺はルーナとの正面戦でバルの負荷を減らす。俺が削れる分だけ、バルの出力を下げられるはずだ」
「私はバルの近くにいる。干渉で漏出を少しでも遅らせる。——ずっとは無理だけど、戦闘の間くらいなら」
全員が——自分の役割の中で、バルを守る方法を考え始めていた。
バルは——何も言わなかった。
背中で、静かにしていた。悪態もつかなかった。照れ隠しの毒舌も出なかった。——ただ、黙っていた。
黙っている理由を、アルトは聞かなかった。聞かなくていい。
* * *
歩き出した。
隊列は変わらない。ユートが先頭。ミラが二番手。アルトとバルが三番手。リアラが四番手。
だが——空気が変わっていた。
バルの限界を全員が知った。知った上で、歩いている。知った上で、作戦を考えている。知った上で——諦めていない。覚悟はした。でも諦めない。矛盾している。——だが、この矛盾こそが、このパーティだった。
バルの魔力がきしんでいる。一歩ごとに漏れている。リアラの干渉が通路の魔力を和らげ、バルへの負荷を軽減している。ミラが歩きながら杖の上で式を組んでいる。段階的放出の計算式。ユートが数歩速く歩いて、道の先を切り開いている。
全員がバルのために動いている。——バルが倒れないように。バルが消えないように。バルが——最後まで一緒にいられるように。
『……お前ら』
バルが——小さく呟いた。
『——重いんだよ。その善意』
誰も笑わなかった。バルも笑っていなかった。
でも——歩いていた。全員が。前へ。




