第117話:遅くなった
部屋を出る前に——ミラが全員に十分の準備時間を設けた。
「装備の確認と体調の最終点検。杖の調整もしたい。——十分だけ。それ以上は待てないわ」
十分。アルトが先頭に立っていた頃なら、長すぎると言っただろう。でも今は——十分が必要な時間だと、わかった。
ユートは通路の入口で剣の具合を確かめている。銀色の刃を鞘から半分抜き、光の脈動を観察していた。勇者の剣は再鍛造後、安定している。だがユートの目は剣ではなく——その奥を見ていた。エイル。ルーナがその名を呼んだと、リアラが言った。月を見て思い出したと。——ユートは黙って剣を鞘に戻した。柄を握る手に——少しだけ力が入っていた。
ミラは部屋の奥で杖の魔力系統を再調整している。上層の変動に合わせて制御法のパラメータを書き換えていた。杖の先端が微かに光り、消え、また光る。計算が合わないのではない。合わせすぎているのだ。最適化しすぎて、余裕がなくなる。ミラは——一つ計算を消した。余白を残した。完璧である必要はない。支え続けられる形であればいい。
バルはアルトの背中で静かにしていた。静かすぎた。いつもなら何か悪態をつく場面だが——黙っている。眠っているのか、力を温存しているのか。アルトには区別がつかなかった。
リアラが——一人で座っていた。壁の脇。膝を抱えて。
アルトは——少し迷って、リアラの隣に座った。
しばらく、何も言わなかった。
赤い光が壁を這い、脈動に合わせて明滅する。城の中。敵地。だがこの十分だけは——静かだった。リアラの干渉が部屋を包んでいる。外の赤い魔力を遮って、この空間だけが少し違う色をしていた。リアラの干渉は緑がかった光を帯びる。妖精の血。その光が、赤い壁の表面を薄く覆っている。
「リアラ」
「うん」
「——遅くなって、すみません」
リアラが——ゆっくりと、アルトの方を向いた。
「遅くなりました。何ヶ月も。リアラが連れていかれた日から——ずっと、急いでたのに。急いでたのに全然——間に合ってなくて」
声が低い。喉の奥から絞り出すような声。アルトは——正面ではなくリアラの方も見ずに、壁を見ていた。顔を合わせると、うまく言えなくなる気がした。
「バルが止まって。ユートさんの剣が壊れて。ミラさんが来てくれて。妖精の鍛冶場を探して。——全部、回り道だった。全部必要だったけど——その間、リアラはずっとここにいた。一人で」
「一人じゃなかったよ」
リアラの声が——割り込んだ。穏やかに。
「ルーナがいたから」
アルトは——顔を向けた。リアラの目は、赤い光の中でも澄んでいた。
「ルーナが来てくれてたから。怖い日もあったけど——ずっと一人じゃなかった。それに——」
リアラが、微かに笑った。
「来てくれるって、わかってたから」
「……わかってた?」
「うん。アルトが来るって。絶対。——遅くても、何ヶ月かかっても。アルトは来るって」
アルトは——言葉を失った。
「毎朝——壁の色で朝を判断してた。ここには窓がないから。でも壁の脈動が少し弱くなる時間があって、それが朝なんだろうなって。朝が来るたびに——一日ずつ数えてた。今日かな、明日かなって」
リアラの声は——淡々としていた。辛さを訴えているのではない。事実を伝えている。待っていた日々を、そのまま。
「食事は壁から出てくるでしょ。あれ、毎回同じ味なの。パンと水。でもある時——パンに、少しだけ甘みがあった日があって。多分ただの配合の偶然なんだけど——その日は嬉しかった。変なの。たったそれだけで」
小さなこと。ささいなこと。囚われている中で見つける、ほんの少しの変化。——それにすがって日を数えていた。
「でも——怖くなかった、って言ったら嘘だけど。待てた。アルトが来るって信じてたから」
リアラの声には——嘘がなかった。飾りがなかった。本当にそう信じていた。何の根拠もなく——ただ、アルトという人間を知っているから。この子は来る。絶対に来る。だから待つ。そう決めて、待ち続けていた。
「根拠はないよ。ただ——アルトだから。アルトなら来るって。それだけ」
アルトの目が——熱くなった。また泣きそうになった。でも今は泣かなかった。泣くのは昨日で十分だ。
「……ありがとうございます」
「お礼を言うのはこっちだよ」
「いや——ありがとうって。待っててくれて。信じてくれて」
リアラは——瞬きした。それから、目を伏せた。
「……そんなの、当たり前じゃん」
当たり前。リアラにとっては当たり前のことだった。アルトを信じること。待つこと。——だが、アルトにとっては、当たり前ではなかった。誰かに信じてもらえることが。待っていてもらえることが。一人で走り続けていた自分に——帰る場所があったということが。
「リアラ」
「うん」
「僕——走りすぎてました。リアラを助けなきゃって。バルを助けなきゃって。全部——」
「知ってる」
リアラが遮った。優しく。
「みんなから聞いた。ちょっとだけ。——無茶してたんだね」
「……ちょっとだけ、じゃないです」
「うん。ちょっとだけじゃなかったんだね」
リアラが——手を伸ばした。アルトの左手に。触れるか触れないかの距離で止まった。
「でも——来てくれた。壊れかけながらでも。無茶して、みんなに叱られて、泣いて——それでも、ここまで来た。それは——すごいことだと思うよ」
アルトは——リアラの手を見た。細い指。魔法陣に繋がれていた痕が、手首にうっすら残っている。リアラだって——苦しかった。辛かった。一人で待つことが、どれほど不安だったか。
「リアラは——辛くなかったですか」
「辛かったよ」
即答だった。飾らない。
「怖い日もあった。魔法陣に繋がれた時は——もうダメかもって思った。体が動かなくなって。魔力が抜かれていくのがわかって」
「……ごめんなさい」
「謝らないで。——アルトのせいじゃない。誰のせいでもない。……ううん、強いて言えばディアルの——でもそれも、もう済んだことだから」
リアラは——空を見上げた。天井しかないが、どこか遠くを見ている目だった。
「辛かったけど——終わったよ。アルトが来てくれたから。みんなが来てくれたから。だから——もう、自分を責めないで」
アルトは——唇を噛んだ。
自分を責めるな。何度も言われた。ミラに。ユートに。バルに。そしてリアラに。——わかっている。わかっているのに、胸の奥で「もっと速く来れたはずだ」という声が消えない。
でも——消えないまま、進むしかない。
「……はい」
小さく答えた。リアラの手に——自分の手を重ねた。左手。痺れていない方。リアラの指先は冷たかった。でも——生きている温度だった。
五秒。十秒。
どちらからともなく、手を離した。
「行こう」
リアラが言った。立ち上がりながら。今度はよろめかなかった。——十分の休息が効いている。
「うん。——行きましょう」
* * *
出発の支度が整った。ユートが剣を背に負い、ミラが杖を構えた。リアラが壁から手を離して立ち上がった。——アルトがバルを背負い直した時。
バルの重さが——変わっていた。
軽い。昨日よりも。明らかに。鞄の重さは変わらないはずだ。だが、バルの魔力が持っていた「密度」——背中に伝わる存在の重みが、薄くなっている。
アルトは——何も言わなかった。言えなかった。気づいたことを口にしたら、それが事実になってしまう気がした。
通路に出た直後だった。
『——ッ』
バルが——声を漏らした。
短い。鋭い。息を呑むような音。アルトの背中で——バルの魔力が、波打った。小さな痙攣のように。一度。二度。三度。間隔が不揃いだ。心臓の鼓動に似ているが——リズムが壊れている。
「バル?」
『……なんでも——』
嘘だった。声が掠れている。さっきまで普通に喋っていたバルの声が——半分消えかけている。音量ではない。声の芯が——薄い。
「バル。何が起きてる」
『漏出が——加速してやがる』
バルの声は——途切れ途切れだった。
『部屋の中じゃ——リアラの干渉で抑えられてたんだろうが。出た途端——城の魔力が俺を削りやがる。上層の変動が——直接、器に——』
城の魔力変動。膨張と収縮を繰り返す不規則な波。ミラの制御法でさえ完全には相殺できない波が——バルの器を外側から叩いている。壊れかけの器に。ヒビの入った壁に、波が押し寄せるように。
ミラが即座に杖を構えた。制御法を展開しようとする。だがバルが止めた。
『やめろ——ミラ。カバーの負荷が上がる。お前の消耗を増やすな。——俺は自分で何とかする』
「何とかって——」
『漏出速度を下げる方法は知ってる。魔力の循環を内側に絞り込めば——少しは持つ』
バルの声が——途切れた。一瞬。意識が飛んだように。背中の振動が止まり、魔力の気配が消えかけた。——一秒。二秒。
「バル!」
『……大丈夫だ。——大丈夫。まだ消えねぇ』
声が戻った。だが——さっきの一瞬、アルトの背中から「何もいない」感覚があった。バルの存在が消えた感覚。鞄はある。重さはある。だが中身が——空になりかける感覚。
大丈夫。——バルが言う「大丈夫」は、リアラの「大丈夫」とは違う。バルの「大丈夫」は——嘘で支えている。まだ耐えられる。まだ持つ。まだ消えない。——だがその「まだ」が、どれだけ残っているか。
リアラが——足早に近づいた。バルに手を伸ばした。触れた瞬間、瞳がエメラルドに変わる。感知。
「……漏出が——速い。さっきの倍くらい——」
リアラの声が硬くなった。さっき部屋の中で触れた時よりも、明らかに悪化している。たった十数分の間に。
『数字はいい——。持つか持たねぇかだけ——教えろ』
「……持つ。でも——急がないと」
『だったら——歩け。立ち止まんな。立ち止まってる間も——漏れてんだ』
アルトの背中に——バルの振動が伝わっていた。バルの器が軋んでいる。中の魔力が揺れている。漏出が加速している。部屋の中ではリアラの干渉が緩衝材になっていた。だが通路に出れば——城の魔力変動が直接バルを襲う。
時間がない。
それは最初からわかっていたことだ。バルの時間は有限だと。漏出は止まらないと。器が持たないと。——だが「知っている」ことと「目の前で削れていく」ことは違う。知識は痛くない。現実は——痛い。
「……急ごう」
アルトが言った。焦りではなかった。——切迫だった。声が震えそうになるのを、奥歯で噛み殺した。
『焦るなよ——ノロマ。お前が焦ると——ろくなことにならねぇって——学んだろ』
「焦ってません。——急いでるだけです」
『同じ——だろ——』
「違います。急ぐけど、走りません。急ぐけど、みんなを見ます。——バルのことも」
バルは——黙った。背中の振動が——微かに変わった。軋みの中に、別の何かが混じった。安堵ではない。呆れでもない。——ただ、聞いていた。アルトの声を。
『……生意気になりやがって』
声が——少しだけ、安定した。怒る元気があるうちは——まだ大丈夫だ。バルが悪態をつけるうちは。「ノロマ」と呼べるうちは。その声が消えた時が——本当の終わりだ。
ユートが先頭に立った。剣の銀色の光が通路を照らす。振り返らなかったが——バルの異変は聞こえていた。歩く速度が、自然と上がっていた。走らない範囲で。最速で。
ミラが二番手。制御法を最低限の出力で維持している。バルへの干渉は控えた。バルが断ったから。——だが杖の先端は常にバルの方を向いていた。いつでも展開できるように。
アルトとバルが三番手。リアラが四番手——壁の脈動に干渉しながら、少しでも通路の空気を和らげている。バルへの負荷を、一歩ごとに軽くしようとしている。
赤い回廊が——奥へ続いていた。最上層へ向かう道。ルーナのいる場所へ。
五人は——歩き出した。急いで。でも走らずに。
バルの魔力が——背中で、きしんでいた。一歩ごとに。少しずつ。確実に。




