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『ノロマ、死ぬなよ』〜毒舌カバンと最弱少年の英雄譚〜  作者: 塩とわかめ
第三章:壊れた空と、取り戻すための戦い
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第115話:まだ消えてない

 目を開けた時——どこにいるのか、わからなかった。


 赤い光。脈動する壁。魔力結晶の天井。——ああ、城の中だ。敵地の奥。リアラを助けた部屋。泣いた場所。みんながいる場所。


 アルトは瞬きを繰り返した。意識が浮上するまでに、数秒かかった。眠っていた。本当に眠っていた。夢を見ていないか確かめるように——隣を見た。


 バルがいた。布の鞄のまま、静かに。


 少し離れた壁際に、リアラが座っていた。目を開けている。——起きていたのか、眠れなかったのか。


 入口にユートの背中が見えた。壁にもたれて、剣を膝に置いている。見張りを続けている。


「——おはよう」


 リアラが言った。微かに笑って。


「……おは、ようございます」


 何時間眠ったのかわからない。体が重い。でも——重さの質が違う。疲労は残っているが、頭が回る。思考が動く。ずっと詰まっていた歯車が、少しだけ噛み合い直している。


 ミラが——奥から現れた。杖を持っている。制御法の再調整をしていたようだ。


「起きたのね。——何時間も寝てたわよ。ユートが三回交代したくらい」


 三回。六時間以上か。——こんなに長く眠ったのは、城に入ってから初めてだった。


「ありがとうございます。随分——休めました」


 声が、自分でも驚くほど穏やかだった。昨日——昨日なのかすらわからないが——泣いた後の声だ。角が取れている。硬さが抜けた分だけ脆いが、無理をしていない。


「食事は後でいいわ。——先に、続きを聞きましょう」


 ミラの目がリアラに向いた。リアラは頷いた。


 * * *


 昨日——リアラは概要を話した。ルーナがまだ消えていないこと。ナナシがいること。魔法陣のこと。だがそれは概要だった。断片だった。ルーナの傍で過ごした日々の——手触りまでは、伝わっていなかった。


 全員が座っていた。円を作るように。アルトとリアラが向かい合い、ミラが杖を抱えてその横に。ユートは入口付近だが、体はこちらを向けている。バルはアルトの隣。——静かな空間だった。城の脈動が遠く感じられるほど、リアラの干渉がこの部屋を穏やかに保っている。


「最初の日のことから、話すね」


 リアラの声は落ち着いていた。感情を排しているのではない。——記憶を正確に伝えようとしている声だった。


「連れてこられた時——最初は、全然わからなかった。ここがどこかも、なんで連れてこられたのかも。気がついたら一人で、赤い壁の部屋にいた」


 部屋は広かった。鍵はかかっていなかった。だが出られなかった。扉の向こうに足を踏み出そうとすると、空気が重くなって、体が動かなくなる。城全体が——リアラを留めていた。


「二日くらい、誰も来なかった。食事は——部屋の隅に、朝と夜に現れてた。誰かが運んでくるんじゃなくて、壁の中から魔力で押し出される感じ。パンと水。最低限だけど——食べられた」


 三日目に——足音が聞こえた。


「扉の前に立って、こっちを見てた。——小さい子だった」


 アルトの呼吸が止まった。


「小さいって——」


「私より少し小さいくらい。長い髪。裸足で。——目が、すごく綺麗だった。最初は赤かったけど、私を見た時だけ——一瞬、緑に揺れた」


 ルーナ。魔王。——だが、リアラの声はその名前を呼ぶ時、恐怖を含んでいなかった。


「何も言わなかった。最初は。ただ——扉のところに立って、こっちを見てた。怖がってるみたいだった」


「怖がって——?」


 ミラが聞き返した。


「うん。私が怖かったんじゃなくて——私に、近づくのが怖いみたいだった。近づいたら壊しそうで、怖い——って感じ」


 リアラは——自分の手を見た。ルーナの手を取ろうとした記憶を、たどるように。


「私から声をかけた。『こんにちは』って。——普通に。他に言い方がわからなかったから」


 ルーナは——答えなかった。最初は。


「でも——次の日も来た。同じ場所に立って。同じように見てた。私がまた『こんにちは』って言ったら——少しだけ、口が動いた。声は出なかったけど。唇が、何か言おうとしてた」


 三日。四日。五日。


 ルーナは毎日来た。——毎日来るということは、毎日ルーナの意識が表に出ていたということだ。ディアルの憎しみに支配されている時間の方が長いはずなのに、リアラの部屋の前に来る時だけは——ルーナだった。


「六日目に——名前を聞いた。『名前、あるの?』って」


 リアラの声が——少しだけ、震えた。


「泣いた。名前を聞かれただけで。——思い出そうとして、思い出せなくて。顔をぐしゃぐしゃにして、泣いた」


 部屋が静まった。


 名前を思い出せない。自分が誰かわからない。ディアルの憎しみに塗りつぶされて——自分の名前すら見えなくなっている。それでも、リアラの前に立つ時だけは、人の形を取ろうとしている。名前を持っていたことを覚えている。思い出せないことが——悲しいと感じている。


「——泣ける、ということは」


 ユートが低い声で言った。


「……悲しいと感じている。自分の名前を失ったことが悲しいと。——意識が残っているどころの話じゃないな」


「うん。残ってるだけじゃない。——ルーナは、苦しんでる。自分が自分じゃなくなっていくことが、怖くて、悲しくて。でも止められなくて」


 リアラは——続けた。


 * * *


「七日目に——私が手を伸ばした。握ろうとしたの。手を」


 ルーナの手は冷たかった。人の温度ではなかった。——だが、触れた瞬間。


「瞳が——全部、緑になった。一瞬だけ。ほんの一瞬だけ。赤が消えて、全部緑。——その時に名前を言った」


 リアラが——息を吸った。


「『——ルーナ』って。自分の名前を。震えながら。やっと思い出して——嬉しいのか悲しいのか、わからないような顔で」


 名前を取り戻した瞬間。


 アルトは——拳を握っていた。膝の上で。痛みを感じないほど強く。ルーナの苦しみが——リアラの声を通して、直接流れ込んでくる。自分が自分でなくなっていく恐怖。名前すら奪われる絶望。それでもまだ——消えていない。消えたくないと、もがいている。


「それから——少しずつ、話すようになった。声は小さかったけど。途切れ途切れだったけど」


 ルーナが語ったのは——断片的な記憶だった。妖精の里のこと。誰かと過ごした日々のこと。月を見て笑った夜のこと。——だが名前が出てこない。人物の固有名詞が、全て欠落していた。大切な人がいたことは覚えている。でも——その人の名前が思い出せない。


「ある夜に——」


 リアラの声が変わった。今まで淡々と語っていた声に、確信が混じった。


「月が——見えたの。城の壁の隙間から、外の光が差し込んで。赤い光じゃなくて、本物の月の光。ルーナがそれを見た瞬間——」


 リアラが目を閉じた。記憶を再生するように。


「——エイル」


 部屋が凍った。


 その名前に——最も強く反応したのはユートだった。壁にもたれていた体が起き上がった。剣を握る手に力が入った。


「……ルーナが——エイルの名前を」


「うん。月を見て——思い出したの。名前を。『エイル』って。それだけ。それだけ言って——また赤に戻った。でもあの瞬間——声が、違った。魔王じゃなかった。ただの——誰かを懐かしがっている、女の子の声だった」


 ユートは——顔を伏せた。


 エイル。勇者。剣に残っていた最後の意志。再鍛造の時に表面化し、ルーナへの想いを語り、「ここからは俺がやる」とユートに託して消えた。エイル自身は——もういない。だが——ルーナの中に、エイルの名前だけが残っている。


 記憶の中で唯一、名前として残ったもの。


「……そうか」


 ユートの声は低く、平坦だった。だがその平坦さが——どれほどの感情を抑え込んでいるか、全員にわかった。


「エイルを覚えてるんだな。——あいつだけは、忘れなかったのか」


 誰も答えなかった。答えられなかった。


 * * *


 リアラは——もう一つ、大切なことを語った。


「ルーナが——一度だけ、はっきりと喋った日があった。長い文を。声がしっかりしてて——目も、ずっと緑のままで」


 それは——ナナシが来た直後だった。ナナシがルーナに何かを告げ、ルーナが激しく動揺した後。ナナシが去ってから、ルーナはリアラの部屋に来た。


「震えてた。全身。——怒ってるんじゃなくて、怖がってた。自分の中にある力が——次に暴れ出したら、もう戻れないかもしれないって」


「そしてそのあと——」


「『帰してあげたい』って言った。私に。——『あなたをここに置いておけない。でも……帰し方がわからない。私が扉を開けたら、私ごと全部壊してしまうかもしれない。ごめんなさい』って」


 リアラの目が——潤んでいた。初めて。ここまでずっと堪えていた感情が、滲み出ている。


「——怪物じゃないよ。あの人は」


 リアラの声は、静かだった。断定だった。


「怖くて、苦しくて、消えそうで——それでもまだ、私のことを心配してた。自分がなくなっていく途中なのに——他の人のことを考えてた。そういう人だった」


 沈黙が流れた。長い沈黙。城の脈動だけが、遠く響いている。


 バルが——最初に口を開いた。


『……似てんな』


「ん?」


『——俺の中にあった魔王の残滓と。名前を失う。自分がわからなくなる。でも消えたくない。——同じだ。俺も、そうだった』


 バルの声は低かった。苛立ちを含まない、珍しく穏やかな声だった。自分が経験したことと、ルーナが今経験していることが同じ構造をしていると——理解していた。


『俺は——アルトのおかげで戻ってこれた。名前を呼ばれ続けたからだ。『バル』って。毎日毎日。沈黙してた二年間も、こいつは——ずっと呼んでた』


 アルトは——何も言わなかった。言えなかった。


『ルーナにも——名前を呼ぶ奴がいる。それだけで、手がかりにはなる』


 バルは——そこで言い切った。それ以上は言わない。バルはバルだ。長い説教はしない。


 ミラが杖を握り直した。


「整理するわね」


 魔法使いの脳が——リアラの証言を、情報として処理し始めていた。


「ルーナの意識はまだ残っている。断片的だけど、感情がある。記憶がある。名前も——少なくとも一つは取り戻している。つまり——完全にディアルの憎しみに塗り潰されたわけじゃない」


「……外から呼びかければ、反応する可能性がある」


 ユートが言った。エイルの名前を飲み込んだ上で。


「反応するだけじゃない。ルーナ自身が——戻りたいと思っている。リアラの話を聞く限り、ルーナは戦っている。自分の中で。ディアルの憎しみに抵抗し続けている。——私たちがやるべきは、倒すことじゃない。ルーナが自分を取り戻せるように——道を開けてあげることよ」


 ミラの言葉が——部屋の空気を変えた。


 倒すのではなく、道を開ける。


 それがこの章の——この戦いの本質だった。


 アルトが——顔を上げた。泣いた後の、腫れた目で。でも——目の奥に光があった。ここしばらくずっと消えていた光が、戻り始めていた。


「——僕たちにしかできないことがある」


 静かに言った。


「ユートさんはルーナさんの記憶を持っている。バルは魔王の力を知っている。ミラさんは制御の天才で。リアラはルーナさんと繋がっている。——こんなパーティ、他にない」


『……大袈裟だろ』


 バルが呟いた。だが否定はしなかった。


「ルーナさんを救おう。——みんなで」


 アルトの声は——まだ細かった。まだ脆かった。昨日泣いたばかりの声だった。全てを取り戻したわけじゃない。右腕はまだ痺れている。バルの漏出は続いている。城の中にいることに変わりはない。


 でも——方角が見えた。進むべき方向が。


 ユートが立ち上がった。剣の柄に手を置いた。銀色の光が——いつもより静かに灯った。怒りでも焦りでもない光。覚悟の光。


「ルーナのところまで——まだ距離がある。作戦を立てよう」


「うん。——でもその前に」


 リアラが——立ち上がろうとして、よろめいた。まだ体力が戻りきっていない。アルトが手を伸ばしかけて——リアラが自分で壁を掴んで体を支えた。


「大丈夫。——ちょっとふらっとしただけ」


 大丈夫。リアラの口癖。——だが、嘘ではなかった。リアラは本当に大丈夫な時に「大丈夫」と言う。大丈夫じゃない時には——言わない。


「食事にしましょう。全員。——作戦はその後」


 ミラが保存食の最後の袋を開けた。残りは少ない。だが——全員分、ある。


 赤い光に照らされた部屋の中で、五人が——静かに食べた。硬いパンと干し肉。水。それだけ。


 それだけで——十分だった。


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