第114話:一緒に助けよう
泣いた後の体は——不思議と軽かった。
軽いと言っても、右腕はまだ痺れている。体のあちこちが痛む。疲労は消えていない。でも——頭の中の圧力が抜けていた。ずっと回り続けていた歯車が止まって、静かになっている。
アルトは床に座ったまま、壁に背を預けていた。リアラが隣にいた。ミラが少し離れた場所で杖の調整をしている。ユートは部屋の入口付近で周囲を警戒していたが——リアラの干渉で城の防衛が沈静化しているため、今のところ脅威はなかった。
誰も急いでいなかった。
ここまでずっと——アルトが急かし続けていた。先へ。速く。止まるな。休むな。——その声が止まった今、パーティは初めて、立ち止まることができていた。
「……お腹、空いてない?」
リアラが言った。掠れた声だが——口調は変わらない。飾らない。自然体。一緒に旅していた頃と——同じだ。
「……空いてます。たぶん」
「たぶんじゃなくて空いてるでしょ。顔見ればわかるよ」
リアラが——微かに笑った。笑うだけの力がまだある。魔法陣に繋がれていた間、最低限の食事と水は与えられていたらしい。衰弱はしているが——致命的ではなかった。
ミラが保存食を配った。残りはわずかだが——全員分はある。硬いパンと干し肉。アルトは受け取って——今度は。
全部食べた。
ゆっくりと。一口ずつ。噛んで、飲み込んで。味がした。何日ぶりだろう。食べ物の味を感じたのは。ずっと——必要な栄養として口に入れていただけだった。味わう余裕がなかった。
「……美味しい」
「でしょ」
リアラが自分のパンをかじりながら言った。「美味しい」と言えるアルトに——安堵していた。
* * *
食事の後——リアラが、自分の状態を短く話した。
「最初は部屋に閉じ込められてただけだった。鍵はかかってなかったけど——出られない感じ。見張りはいなかったけど、空気が重くなって、体が動かなくなる」
「ルーナさんが、来たんだね」
「——うん。時々。扉の前に立って、こっちを見て。最初は何も話さなかった。でも——少しずつ。挨拶したら、返してくれて。名前を思い出せないって——泣いた」
パーティの空気が変わった。ルーナの話。魔王ではなく——ルーナの話。
「ルーナは——完全に魔王に呑まれてるわけじゃない。奥に、まだいる。私と話してる時は——少しだけ、前に出てくる。ほんの少しだけ」
リアラの声は静かだった。事実を述べている。感情を排して。——だがその奥に、確信があった。
「涙を流した。私の手を握ろうとした。帰してあげたいって——言った。全部、本当だと思う。あの人は——怪物じゃない」
「……救えるのか」
ユートが聞いた。入口から振り返って。
「わからない。——でも、まだ消えてない。それだけは確かだと思う」
ルーナはまだ消えていない。
その言葉が——部屋の中に、静かに響いた。
「もう一人——ナナシ、っていう人が来てた」
リアラが続けた。
「私の部屋にも、一度だけ、来た。名前を聞いたら——『名は、ありませんよ。ナナシとでも、お呼びください』って。それだけ」
『……はっ。ふざけた自己紹介だぜ』
バルが吐き捨てた。誰も笑わなかった。
「ルーナとは違う人。落ち着いてて、丁寧で——でも冷たい。ルーナに敬語で話すけど、命令してる感じ。私を魔法陣に繋ぐことを提案したのも——あの人」
「正体は?」
「わからない。ディアルとは違う。もっと——静かで、底が見えない。ルーナに敬語を使うけど、管理してる感じ。ルーナの上にいるわけじゃないけど——対等でもない」
ナナシの情報は、そこまでだった。リアラに掴めたのは——底の見えない、冷たい輪郭だけだ。
「あの人が何を企んでるかは——わからない。でも魔法陣は、私の魔力でルーナの暴走を抑える装置だったみたい。私がいなくなったら——ルーナが、もっと不安定になるかもしれない」
全員が——考えた。
ルーナの暴走を抑えていた装置が壊れた。リアラを解放するために。それは正しい判断だった。だが——代償がある。ルーナがさらに不安定になる可能性。城全体の魔力がさらに荒れる可能性。
「……だからこそ——早くルーナさんのところに行かないと」
アルトが言った。だが——声の調子が違っていた。さっきまでの「急がなきゃ」ではなかった。もっと静かな。もっと——みんなに向けた声。
「リアラが言った通り、ルーナさんはまだ消えてない。なら——助けに行ける。でも今度は——」
アルトが——全員の顔を見た。ユートの顔を。ミラの顔を。バルの——いるはずの背中を。リアラの顔を。
「——僕一人で決めない。みんなで、考えたい」
その言葉に——誰も驚かなかった。驚くほどのことではなかった。当たり前のことだ。仲間がいて、全員で考える。——当たり前のことが、やっと戻ってきただけだ。
「考えるのはいいけど——まず寝なさい」
ミラが言った。有無を言わせない口調で。
「あなたは何日まともに寝てないの。作戦を立てるにしても、頭が動かなきゃ意味がないわ。私とユートで交代で見張るから。あなたとリアラちゃんは——寝なさい」
「……でも——」
「寝なさい」
二度目は——もっと優しかった。
* * *
アルトが横になる前に——リアラがバルに触れた。
何気なく。バルの布地に手を置いた。——瞬間、リアラの瞳がエメラルドに変わった。
「……バル」
『……何だよ』
「あなたの魔力——前と、少し違う」
バルは——答えなかった。
「前に共鳴した時は——妖精族の魔力に近い気配があった。でも今は——どこにも属さない。人間でも、妖精でも、魔族でもない。何か——別のものになってる」
リアラの手が——微かに震えた。感知している。バルの中の変質を。漏出で削れた器が、元の形とは違う何かに変わりつつあることを。
『……壊れてんのは知ってる。漏出が止まらねぇのも知ってる。——でもよ、別に今言うことじゃねぇだろ』
「ううん。——言っておきたかった。知ってるってことを」
リアラは手を離した。瞳が元の色に戻る。
「バルのことも——みんなで考えよう。アルトだけじゃなくて。私も——役に立てることがあるかもしれないから」
バルは——何も言わなかった。しばらく沈黙して——それから。
『……勝手にしろ』
いつもの悪態。でも——拒絶ではなかった。
* * *
アルトは横になった。バルを隣に置いて。リアラが少し離れた場所で、壁に背を預けて目を閉じた。
ミラがユートに視線を送った。「寝るまで見ててあげて」という目。ユートが微かに頷いた。
アルトの呼吸が——ゆっくりと、深くなっていった。
眠れている。何日ぶりだろう。本当に眠れている。心拍が下がり、体の強ばりが解けていく。バルがそれを隣で感じていた。
——やっとだ。
バルは——何も言わなかった。言わなくていい。ただ隣にいた。
部屋の赤い光が穏やかに脈打っている。リアラの干渉が続いている限り、この空間は安全だ。城の中心で、束の間の安息。
問題は終わっていない。ルーナはまだ上にいる。バルの漏出は止まっていない。ナナシの影は消えていない。世界の乱れは続いている。
でも——仲間が揃った。
ユートがいる。ミラがいる。バルがいる。リアラがいる。そしてアルトが——ようやく、みんなの中に戻ってきた。
次は——一緒に行ける。
ミラが杖の光を落とした。暗くなった部屋の中で、リアラの干渉の緑色の光だけが、微かに灯っている。
アルトの寝息が、静かに続いていた。




