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『ノロマ、死ぬなよ』〜毒舌カバンと最弱少年の英雄譚〜  作者: 塩とわかめ
第三章:壊れた空と、取り戻すための戦い
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第114話:一緒に助けよう

 泣いた後の体は——不思議と軽かった。


 軽いと言っても、右腕はまだ痺れている。体のあちこちが痛む。疲労は消えていない。でも——頭の中の圧力が抜けていた。ずっと回り続けていた歯車が止まって、静かになっている。


 アルトは床に座ったまま、壁に背を預けていた。リアラが隣にいた。ミラが少し離れた場所で杖の調整をしている。ユートは部屋の入口付近で周囲を警戒していたが——リアラの干渉で城の防衛が沈静化しているため、今のところ脅威はなかった。


 誰も急いでいなかった。


 ここまでずっと——アルトが急かし続けていた。先へ。速く。止まるな。休むな。——その声が止まった今、パーティは初めて、立ち止まることができていた。


「……お腹、空いてない?」


 リアラが言った。掠れた声だが——口調は変わらない。飾らない。自然体。一緒に旅していた頃と——同じだ。


「……空いてます。たぶん」


「たぶんじゃなくて空いてるでしょ。顔見ればわかるよ」


 リアラが——微かに笑った。笑うだけの力がまだある。魔法陣に繋がれていた間、最低限の食事と水は与えられていたらしい。衰弱はしているが——致命的ではなかった。


 ミラが保存食を配った。残りはわずかだが——全員分はある。硬いパンと干し肉。アルトは受け取って——今度は。


 全部食べた。


 ゆっくりと。一口ずつ。噛んで、飲み込んで。味がした。何日ぶりだろう。食べ物の味を感じたのは。ずっと——必要な栄養として口に入れていただけだった。味わう余裕がなかった。


「……美味しい」


「でしょ」


 リアラが自分のパンをかじりながら言った。「美味しい」と言えるアルトに——安堵していた。


 * * *


 食事の後——リアラが、自分の状態を短く話した。


「最初は部屋に閉じ込められてただけだった。鍵はかかってなかったけど——出られない感じ。見張りはいなかったけど、空気が重くなって、体が動かなくなる」


「ルーナさんが、来たんだね」


「——うん。時々。扉の前に立って、こっちを見て。最初は何も話さなかった。でも——少しずつ。挨拶したら、返してくれて。名前を思い出せないって——泣いた」


 パーティの空気が変わった。ルーナの話。魔王ではなく——ルーナの話。


「ルーナは——完全に魔王に呑まれてるわけじゃない。奥に、まだいる。私と話してる時は——少しだけ、前に出てくる。ほんの少しだけ」


 リアラの声は静かだった。事実を述べている。感情を排して。——だがその奥に、確信があった。


「涙を流した。私の手を握ろうとした。帰してあげたいって——言った。全部、本当だと思う。あの人は——怪物じゃない」


「……救えるのか」


 ユートが聞いた。入口から振り返って。


「わからない。——でも、まだ消えてない。それだけは確かだと思う」


 ルーナはまだ消えていない。


 その言葉が——部屋の中に、静かに響いた。


「もう一人——ナナシ、っていう人が来てた」


 リアラが続けた。


「私の部屋にも、一度だけ、来た。名前を聞いたら——『名は、ありませんよ。ナナシとでも、お呼びください』って。それだけ」


『……はっ。ふざけた自己紹介だぜ』


 バルが吐き捨てた。誰も笑わなかった。


「ルーナとは違う人。落ち着いてて、丁寧で——でも冷たい。ルーナに敬語で話すけど、命令してる感じ。私を魔法陣に繋ぐことを提案したのも——あの人」


「正体は?」


「わからない。ディアルとは違う。もっと——静かで、底が見えない。ルーナに敬語を使うけど、管理してる感じ。ルーナの上にいるわけじゃないけど——対等でもない」


 ナナシの情報は、そこまでだった。リアラに掴めたのは——底の見えない、冷たい輪郭だけだ。


「あの人が何を企んでるかは——わからない。でも魔法陣は、私の魔力でルーナの暴走を抑える装置だったみたい。私がいなくなったら——ルーナが、もっと不安定になるかもしれない」


 全員が——考えた。


 ルーナの暴走を抑えていた装置が壊れた。リアラを解放するために。それは正しい判断だった。だが——代償がある。ルーナがさらに不安定になる可能性。城全体の魔力がさらに荒れる可能性。


「……だからこそ——早くルーナさんのところに行かないと」


 アルトが言った。だが——声の調子が違っていた。さっきまでの「急がなきゃ」ではなかった。もっと静かな。もっと——みんなに向けた声。


「リアラが言った通り、ルーナさんはまだ消えてない。なら——助けに行ける。でも今度は——」


 アルトが——全員の顔を見た。ユートの顔を。ミラの顔を。バルの——いるはずの背中を。リアラの顔を。


「——僕一人で決めない。みんなで、考えたい」


 その言葉に——誰も驚かなかった。驚くほどのことではなかった。当たり前のことだ。仲間がいて、全員で考える。——当たり前のことが、やっと戻ってきただけだ。


「考えるのはいいけど——まず寝なさい」


 ミラが言った。有無を言わせない口調で。


「あなたは何日まともに寝てないの。作戦を立てるにしても、頭が動かなきゃ意味がないわ。私とユートで交代で見張るから。あなたとリアラちゃんは——寝なさい」


「……でも——」


「寝なさい」


 二度目は——もっと優しかった。


 * * *


 アルトが横になる前に——リアラがバルに触れた。


 何気なく。バルの布地に手を置いた。——瞬間、リアラの瞳がエメラルドに変わった。


「……バル」


『……何だよ』


「あなたの魔力——前と、少し違う」


 バルは——答えなかった。


「前に共鳴した時は——妖精族の魔力に近い気配があった。でも今は——どこにも属さない。人間でも、妖精でも、魔族でもない。何か——別のものになってる」


 リアラの手が——微かに震えた。感知している。バルの中の変質を。漏出で削れた器が、元の形とは違う何かに変わりつつあることを。


『……壊れてんのは知ってる。漏出が止まらねぇのも知ってる。——でもよ、別に今言うことじゃねぇだろ』


「ううん。——言っておきたかった。知ってるってことを」


 リアラは手を離した。瞳が元の色に戻る。


「バルのことも——みんなで考えよう。アルトだけじゃなくて。私も——役に立てることがあるかもしれないから」


 バルは——何も言わなかった。しばらく沈黙して——それから。


『……勝手にしろ』


 いつもの悪態。でも——拒絶ではなかった。


 * * *


 アルトは横になった。バルを隣に置いて。リアラが少し離れた場所で、壁に背を預けて目を閉じた。


 ミラがユートに視線を送った。「寝るまで見ててあげて」という目。ユートが微かに頷いた。


 アルトの呼吸が——ゆっくりと、深くなっていった。


 眠れている。何日ぶりだろう。本当に眠れている。心拍が下がり、体の強ばりが解けていく。バルがそれを隣で感じていた。


 ——やっとだ。


 バルは——何も言わなかった。言わなくていい。ただ隣にいた。


 部屋の赤い光が穏やかに脈打っている。リアラの干渉が続いている限り、この空間は安全だ。城の中心で、束の間の安息。


 問題は終わっていない。ルーナはまだ上にいる。バルの漏出は止まっていない。ナナシの影は消えていない。世界の乱れは続いている。


 でも——仲間が揃った。


 ユートがいる。ミラがいる。バルがいる。リアラがいる。そしてアルトが——ようやく、みんなの中に戻ってきた。


 次は——一緒に行ける。


 ミラが杖の光を落とした。暗くなった部屋の中で、リアラの干渉の緑色の光だけが、微かに灯っている。


 アルトの寝息が、静かに続いていた。


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