第113話:分かんないんだよ
静けさの中で、アルトの呼吸だけが聞こえていた。
リアラの手が頬に触れている。温度がある。冷たい指先だが——確かに、人の手だ。生きている人の手だ。助けたかった人の手が、自分の顔に触れている。
何か言わなければと思った。「大丈夫です」と。あるいは「立てます」と。あるいは「次の手順を考えましょう」と。何か——いつもの言葉を。いつもの自分を取り戻すための言葉を。
口を開いた。
——出てこなかった。
「大丈夫です」が。喉の奥にあるのに、声にならない。リアラの目が真っ直ぐに自分を見ている。ごまかせない。この子には——ごまかせない。大丈夫じゃないでしょ、と言われた。見ればわかるよ、と言われた。全然大丈夫じゃない、と。
それは——事実だった。
事実だと認めた瞬間に、何かが崩れた。
ゆっくりと。内側から。喉の奥に詰まっていたものが上がってきて、胸の奥で圧し潰されていたものが膨張して——止められなかった。
「……わかん——ない」
声が出た。自分でも驚くほど小さかった。掠れていた。壊れかけの声だった。
「わかんないんだよ——」
リアラの手が微かに動いた。頬に触れたまま。離さなかった。
「バルが——消えるって——言われて。漏出が止まらないって。器が持たないって。——わかってて。わかってるのに——どうしたらいいかわかんないんだよ」
言葉が——溢れ始めた。
止めようとした。止めなきゃいけないと思った。ここで崩れたら動けなくなる。泣いたら止まる。止まったら間に合わない。——でも。
「リアラも——助けなきゃって。魔法陣に繋がれてて——魔力吸われてて。急がなきゃって。急がないと間に合わないって——ずっと——ずっとそれしか考えてなくて」
呼吸が乱れた。言葉が途切れ途切れになる。
「ユートさんが——立ち直ってくれて。ミラさんも——三十発安定して。みんな——みんな強くなって——戻ってきてくれて。嬉しかった。本当に嬉しかったのに——」
声が震えた。目の奥が熱い。
「——なのに。みんなが強くなるほど——僕が何していいかわかんなくなって。ユートさんが斬ってくれる。ミラさんが支えてくれる。バルが教えてくれる。全部——みんながやってくれるのに——僕が何やっても足りなくて——邪魔で——」
「邪魔じゃないわ」
ミラの声が割り込んだ。短く。鋭く。
アルトは——ミラを見た。ミラの目が赤くなっていた。泣いていたのではない。怒りに近い感情が、目を充血させていた。
「邪魔なんかじゃない。あなたがいなかったら——ここまで来れてない。ルートを決めたのも、ペースを決めたのも、全部あなたでしょ。私たちはあなたの判断に従ってここまで来たのよ」
「でも——僕の判断が——みんなを危険にさらして——バルの魔力を使いすぎて——ミラさんを置いていって——」
「それは——そうよ。やりすぎた。無茶した。——でもそれと、邪魔なのは全然違う。邪魔な人間が無茶なんかしない。あなたがやりすぎたのは——やりたいことがあったからでしょ」
ミラの声が——震えていた。怒っているのか泣きそうなのかわからない声だった。その境界で——ミラはアルトを真っ直ぐに見ていた。
「一人で——全部背負おうとしたのが間違いなのよ。あなたが弱いんじゃない。抱え込みすぎたの」
アルトの口が——開いた。言い返そうとした。「でも」と。「僕がやらなきゃ」と。——出なかった。ミラの目が、嘘を許さない目だったから。
ユートが——壁から背を離した。静かに。ゆっくりと。
「……アルト」
「……ユートさん」
「俺も——同じだった」
ユートの声は低く、静かだった。
「エイルの代わりに強くなろうとした。一人で全部やろうとした。みんなを守るのは俺の仕事だと思い込んで——自分を削り続けた。止め方がわからなかった。止まったら誰かが傷つくと思ってた」
アルトは——ユートを見ていた。
「お前のやったことは——俺と同じだ。正しいことを、正しい理由でやり続けて——自分が壊れることに気づかなかった。気づいても止められなかった」
ユートが——アルトの前にしゃがんだ。目線を合わせた。
「でも俺は——止まれた。お前たちのおかげで。一人じゃないと気づいたから。……お前も——一人じゃないんだ。俺がいる。ミラがいる。バルがいる。リアラがいる。——お前が全部やらなくていい」
ユートの手がアルトの肩に触れた。大きな手。かつてアルトを「お前は冒険者だ」と認めてくれた手。
「……でも——」
アルトの声が割れた。
「——バルが——消えちゃったら——どうしたらいいか——」
涙が出た。
ようやく。ずっと堪えていたものが——溢れた。目の奥から、熱い水が頬を伝った。リアラの手の上を。止められなかった。止めようとすらできなかった。
『消えたくねぇよ』
バルの声が——背中から聞こえた。
低い声。掠れた声。漏出で疲弊した声。でも——はっきりと。
『消えたくねぇ。——俺だって消えたくねぇんだ。お前がどうにかしなきゃいけない問題じゃねぇ。俺自身の——問題だ』
アルトの呼吸が止まった。
『お前が全部やる必要はねぇんだよ。俺のことは——俺が考える。お前はお前のことだけ考えてろ。——つっても無理だろうけどな、この心配性のノロマが』
バルの声に——少しだけ、笑いが混じった。笑いというには弱い。でも——温度があった。
『お前が泣いてんの——初めて聞いたぞ。——泣けるじゃねぇか』
アルトは——声を上げて泣いた。
拳を握って。歯を食いしばって。それでも止められずに。十六歳の少年が、仲間の前で、声を上げて泣いていた。
二年間泣かなかった。一人で修行していた時も。バルが沈黙していた時も。強くなれない夜も。何もわからない朝も。泣いたら弱くなる気がした。泣いたら止まる気がした。泣いたら——もう立ち上がれない気がした。
だから泣かなかった。
でも今——泣いている。
リアラの手が頬に触れたまま。ユートの手が肩に触れたまま。ミラが目を赤くしたまま。バルが背中にいたまま。
誰も——「泣くな」とは言わなかった。
リアラは——何も言わなかった。手を頬に当てたまま。アルトの涙が指を濡らしていく。それを拭いもしない。流れるままにさせている。
泣いていい時間だった。
ずっと——泣いていい時間だった。
* * *
どれくらい経っただろう。
アルトの涙が——止まった。枯れたのではなく、体が落ち着いたのだ。呼吸が整い始めた。心拍が下がった。バルがそれを背中で感じていた。——やっと、人間の心拍に戻った。
アルトは——目を拭った。左手で。右腕はまだ動かない。
「……ごめんなさい。泣いてる場合じゃ——」
「いいの」
リアラが言った。短く。
「——泣いてよかった」
アルトは——リアラの顔を見た。リアラの目は赤くなかった。泣いていなかった。堪えていたのだ。アルトが泣いている間、自分は泣かないようにしていた。——でなければ、アルトが安心して泣けないから。
ユートが立ち上がった。
「次のことは——みんなで考えよう。お前一人で決めなくていい。ルーナのこと。バルのこと。この先の道。——全部、みんなで」
みんなで。
アルトは——その言葉を、口の中で繰り返した。みんなで。——ずっと言っていた言葉のはずだ。一人じゃないと。仲間がいると。みんなで乗り越えると。——だがいつの間にか、その言葉が自分の中で空洞になっていた。「みんなで」と言いながら、全部自分で背負っていた。「一緒に」と言いながら、一人で走り続けていた。
みんなで——やる。
今度こそ。
「……はい」
アルトの声は——小さかった。まだ震えていた。でも——さっきまでの硬い「はい」ではなかった。もっと柔らかい。もっと脆い。——だからこそ、本物の「はい」だった。
バルが——微かに、温かくなった。背中で。アルトの体温ではなく——バルの魔力が、ほんの少しだけ安定した。漏出が止まったわけではない。器の損傷が治ったわけでもない。ただ——バルの中の何かが、少しだけ落ち着いた。アルトの心拍が落ち着いたから。
『……ノロマが泣くと、俺まで変な気持ちになるだろ。——やめろよ』
バルの声は——いつもの悪態だった。でも声が少し鼻にかかっていた。
誰もそれには触れなかった。




