第112話:そんな顔しないで
リアラの指先から、緑色の光が広がっていった。
床に触れた手のひらを起点に、城の魔力回路に干渉が走る。精密な操作ではなかった。ミラのような理論も、アルトのような計算もない。ただ——魔法陣に繋がれていた間に体が覚えた「城の呼吸」に合わせて、妖精の魔力を流し込んでいる。肺に空気を入れるように。自然に。体が知っている。
城の防衛回路が——揺らいだ。
部屋全体を覆っていた赤い光の脈動が、リアラの緑色の光に触れて——鈍化した。波が穏やかになる。圧力が下がる。空気が——柔らかくなった。ミラの制御法では七割程度しか補正できなかった上層の魔力変動が、リアラの干渉によって——ほとんど消えた。
「……何を——」
ミラが目を見開いた。
杖のモニタリングが異常値を示している。環境の乱れがゼロに近づいている。制御法で対抗していたノイズの大半が——消失している。
「リアラちゃん——あなた、城の回路を——」
「……わからない。でも——触れたら、静かになった」
リアラの声は掠れていた。体力はほとんど残っていない。魔法陣で魔力を吸い出され続けて、妖精の血がなければとっくに限界を超えている。だが——その妖精の血が、城の魔力と長時間共鳴したことで、リアラの体が城の一部のように順応していた。
守護体の残骸が——動かなくなった。斬り伏せられた黒い結晶が再形成しようとして——止まった。城の防衛回路がリアラの干渉で鈍化し、守護体への魔力供給が途絶えている。
部屋が——静かになった。
赤い光の脈動はまだあるが、穏やかだ。城が怒っているのではなく——眠りかけているような。リアラの手が触れている限り、この部屋は安全だった。
「……すごいな」
ユートが呟いた。剣を下ろしている。戦う必要がなくなったことを、体が感じ取っている。
「さすがにもう、安全でしょ」
ミラが杖を下ろした。制御法を最小限に切り替える。一時的にでも、消耗を止められる。
ユートがアルトを床にゆっくりと横たえた。意識はある。だが体が動かない。右腕は痺れたまま。左腕も、最後の一撃の反動でほとんど力が入らない。目は開いているが——焦点が定まらない。
「……リアラ……は……大丈夫、ですか……」
「大丈夫だ。リアラは自分で城の回路を抑えた。——お前はもう動くな」
ユートが、アルトの額に手を当てた。熱い。体が発熱している。魔力の逆流と反動で、体の内側が炎症を起こしている。
* * *
リアラは——手を床から離した。
干渉を続ければ城の防衛をもっと抑えられる。でも——今はそれより先にやることがあった。
膝が震えていた。立ち上がれるかどうかもわからない。魔法陣に繋がれていた間、ほとんど動いていない。筋力が落ちている。体が重い。
でも——動いた。
膝をついたまま、リアラは這うようにして、アルトの方へ近づいた。一歩。二歩。三歩分の距離を、膝で。ミラが手を差し伸べようとしたが、リアラは首を振った。自分で行く。
アルトの隣に——辿り着いた。
横たわるアルトを、上から見下ろした。
ひどい顔だった。
目の下の隈が濃い。頬が削げている。唇が白い。右腕が不自然な角度で力なく伸びている。呼吸は荒く、額に汗が浮いている。——十六歳の少年の体に、何日分もの無理が刻み込まれていた。
目が——リアラを見ていた。
リアラの顔を認識した瞬間、アルトの表情が——変わった。
安堵ではなかった。
罪悪感だった。
リアラの前で、こんな姿を晒していることへの。リアラを助けに来たはずなのに、自分が倒れていることへの。来るのが遅かったことへの。もっと上手くやれたはずなのに、体を壊してしまったことへの。——全部が、アルトの目に浮かんでいた。
「ごめん」と言おうとしていた。唇が動きかけていた。
リアラは——その口を、手で塞いだ。
弱い手だった。ほとんど力が入っていない。でも——アルトの唇に触れて、言葉を止めた。
「——ごめんなさいは、なし」
リアラの声は掠れていた。だが——芯があった。
「来てくれて——ありがとう」
アルトの目が——揺れた。
「ありがとう。本当に。——待ってたよ。来てくれるって、ずっと信じてた」
リアラの手がアルトの唇から離れて、頬に移った。汗と泥で汚れた頬。冷たい手のひらが、熱い肌に触れた。
「でも——」
リアラの瞳が——エメラルドに揺らいでいた。涙ではない。妖精の血が感情に応えている。
「——そんな顔、しないで」
アルトの呼吸が——止まった。
「そんな——壊れそうな顔、しないでよ」
声が小さくなった。リアラの方が泣きそうだった。でも泣いていなかった。堪えていた。——ルーナの前で泣かなかった、あの夜と同じだ。泣いたら、大事なことが全部流れてしまう。だから堪える。
「私を助けてくれたのに——あなたの方が、壊れてたら。それじゃ——意味ないでしょ」
リアラの手が——震えていた。でも、アルトの頬から離れなかった。
「大丈夫って——言わないで。大丈夫じゃないでしょ。見ればわかるよ。——全然、大丈夫じゃない」
アルトの目から——何かが、剥がれた。
「大丈夫です」。何度も言った言葉。ユートに。ミラに。バルに。長老に。自分に。何度でも繰り返して、何度でも自分を動かし続けた言葉。それが——リアラの一言で、嘘だと暴かれた。
嘘ではなかった。大丈夫だと思っていた。本当に。自分は動ける。自分は戦える。自分がやらなきゃいけない。だから大丈夫だ。——それは嘘ではなかった。でも——大丈夫と言うたびに、自分の中の何かが削れていた。削れていることに気づかないふりをしていた。
リアラが——それを、まっすぐに見ている。
ごまかせない。この子には——ごまかせない。一緒に旅していた頃から、ずっとそうだった。リアラだけが、アルトの「大丈夫」の裏にあるものを見抜いていた。黙って食事を多めに盛ってくれた。眠れない夜に、何も言わず隣にいてくれた。
あの子が——今、目の前にいる。
助けたはずの子が——自分を助けている。
「……」
アルトは——何も言えなかった。
「大丈夫です」が出てこなかった。「ごめん」も出てこなかった。「ありがとう」も。何も。
口が開いたまま——言葉が出ない。喉の奥に何かが詰まっている。涙ではない。まだ。涙はまだ出ていない。でも——何かが、溢れかけている。
リアラの手が、アルトの頬に触れたまま。
ユートは——壁に背を預けて、黙っていた。ミラは——杖を握ったまま、目を伏せていた。バルは——沈黙していた。
誰も——何も言わなかった。
言わなくていい時間だった。




