第111話:壊れるぞ
防壁は砕けた。だが——終わっていなかった。
魔法陣はまだ生きている。紋様が脈打ち、リアラの手首と足首から伸びる魔力の糸が、壁と床に繋がったまま光っている。防壁を壊しただけでは、リアラは解放されない。魔法陣そのものを——術式の接続を、断たなければならない。
そして——守護体が、まだいた。
ユートが一体を斬り伏せている間に、もう一体が後退して魔法陣の縁に陣取っていた。黒い結晶の人形が、赤い目でアルトを見据えている。近づけまいとするように。
アルトは——立ち上がった。
膝が震えていた。指先の感覚が鈍い。視界の端がちらつく。バルとの魔力回路が不安定になっている。体の中で魔力が散乱し、制御が効かない箇所がある。——それでも立った。
「バル。術式の接続点が見えます。魔法陣の紋様の——あの四隅。あそこを壊せば糸が切れる」
『……ノロマ。お前の体、もう——』
「わかってます。でも四隅を壊すだけです。あと四回。四回で終わる」
四回。四回防壁を叩きつけるだけ。——だがさっきの五回で、アルトの体はすでに限界を超えている。一回ごとに反動が蓄積し、バルの漏出が加速し、体の中の魔力回路が焼けていく。あと四回は——計算上は可能でも、体が持つかどうかは別の問題だった。
『——やめろ』
バルが声を上げた。低く。はっきりと。
『これ以上使ったら——俺の器が持たねぇ。漏出がもう限界なんだよ。お前が何回叩こうが——俺の魔力がもうねぇ』
アルトの手が——止まった。
バルの魔力がない。それは——バルが消えるということだ。器が崩壊するということだ。精神迷宮で見た幻が——現実になるということだ。
わかっている。
わかっているのに——。
「……ユートさんの剣で壊せますか」
アルトは——別の方法を探した。自分が使えないなら、ユートに。
「紋様の接続点を斬れば——」
ユートが守護体を斬り伏せ、振り返った。銀色の光が明滅している。十割出力を出した後の消耗が残っている。だがまだ動ける。
「やる。——場所を示せ」
「四隅です。魔法陣の——」
アルトが指差した手が——崩れた。
指が開かない。力が入らない。右腕全体が——痺れていた。防壁の反動が、右腕の筋肉と神経を損傷している。指先の感覚がない。握ることも、伸ばすことも、ままならない。
「アルト——」
「大丈夫です。右は使えなくても——左で指示できます」
大丈夫ではなかった。誰の目にも明らかだった。
ユートが動いた。魔法陣の縁に沿って走り、一つ目の接続点に剣を突き立てた。銀色の光が紋様を断ち切り、赤い光が噴き出した。接続点が一つ、切れた。
二つ目。ユートが反対側に回り込み、剣を振り下ろす。紋様が裂け、魔力の糸が一本切れた。リアラの右手首の拘束が緩んだ。
三つ目。ユートが加速する。だが——魔法陣が反応した。
紋様全体が赤く燃え上がり、接続点が修復を始めた。城の魔力が——魔法陣を守ろうとしている。切っても切っても、修復される。先ほどの防壁と同じだ。
「修復が——速い。切るだけじゃ追いつかない」
ユートが舌打ちした。
「ミラさん。さっきの阻害を——」
「やってるわ! でも四隅を同時に抑えるのは——私一人では処理が足りない!」
ミラが杖を構えて制御法を全力で展開している。紋様の修復回路に干渉し、修復速度を遅らせている。だが四つの接続点を同時に阻害するには——並列処理の限界を超えている。三つが精いっぱいだった。残り一つが修復されれば、全体が元に戻る。
四つを同時に断つ必要がある。
ユートの剣で三つを切り、ミラの阻害で修復を抑え——残りの一つを、誰かが壊す。
アルトは——左手を握った。震えている。だが握れた。
「バル」
『……やめろ』
「一回だけ。あと一回だけでいい。四つ目を——僕が壊す」
『やめろって言ってんだろ!!』
バルが叫んだ。今日一番の大声だった。背中で——バルの全身が震えていた。
『一回だって、もう無理なんだよ! お前が俺の魔力を使うたびに、俺が溶けてんだ! わかんねぇのか!?』
わかっていた。わかっていたから——アルトの目から、色が消えた。
選択肢が二つあった。
バルの魔力を使って四つ目を壊す。リアラを助けられる。でもバルの漏出が致命的になる。
使わない。バルを守る。でもリアラは魔法陣に繋がれたまま、衰弱し続ける。
どちらかしか選べない。
どちらかを——失う。
「——ごめん、バル」
『アルト——!!』
左手にバルの魔力が集まった。最後の一撃分。絞り出すように。バルの器が軋む音が——アルトの背中を通して伝わった。痛い。バルが痛がっている。道具ではなく——相棒が、痛みに叫んでいる。
ユートが三つの接続点を立て続けに斬った。ミラの阻害が三点の修復を抑えた。残り——一つ。
アルトが——左手で防壁を叩きつけた。
四つ目の接続点が——砕けた。
魔法陣が——消えた。紋様の光が一斉に消え、リアラの手首と足首から魔力の糸が解けていく。拘束が外れる。リアラの体が——力を失って、前に倒れた。
同時に——
アルトの体が崩れた。
左手が利かなくなった。両腕が垂れ下がり、膝から崩れ落ちた。床に額をぶつけそうになり——ユートが間に合った。横から体を支え、アルトを抱きとめた。
「アルト!!」
「——リアラ……は……」
「解放された。——大丈夫だ。リアラは自由になった」
「……よかっ……た……」
アルトの意識が——途切れかけた。
バルは——沈黙していた。漏出が止まらない。器の損傷がさらに進んだ。声を出す余裕すらない。全ての魔力を、これ以上漏れないように抑え込むことに集中している。
* * *
リアラの目に映っていたのは——そういう光景だった。
意識が朦朧としている。魔法陣から解放された瞬間、体中の感覚が一度消えた。吸い出され続けていた魔力の流れが止まり、体が自分のものに戻る感覚。重い。だるい。指先が冷たい。視界がぼんやりしている。でも——見えた。
少年が倒れていた。
誰かに支えられて。両腕が垂れ下がって。目が半分閉じていて。顔色が土気色で。唇が白くて。
アルトだ。
あの子だ。助けに来てくれた——あの子が、倒れている。
嬉しい、と思った。来てくれた。信じていた。ずっと待っていた。来てくれるって——知っていた。
でも——嬉しさより先に、胸が掴まれた。
あの目。あの顔。あの体。——壊れかけている。壊れかけの体で、私を助けるために——自分を壊した。
リアラは知っていた。アルトのあの癖を。自分を後回しにする。自分を削って人に使う。一緒に旅していた頃から、ずっとそうだった。笑って「大丈夫」と言う。食事を減らして「足りてる」と言う。眠れていないのに「慣れてる」と言う。——全部嘘だ。嘘ではないけれど——大丈夫じゃないことを大丈夫にしてしまう癖。
それが——ここまで来ていた。
リアラの視界で、アルトの体がさらにぐったりとしている。ユートが名前を呼んでいる。ミラが駆け寄っている。バルが——沈黙している。バルの沈黙が、いちばん怖かった。あの子がいちばん最初に話しかける相棒が——黙っている。
壊れる。
このままだと——アルトが壊れる。
体だけじゃない。もっと奥の——あの子の根っこが。「みんなのために」で自分を擦り減らし続けて、最後には何も残らなくなる。
——私に、何かできることはないだろうか。
あの夜も——ルーナの前で、同じことを考えた。怖くて、何もできなくて、それでも「何かできることはないか」と考えた。あの時できたのは——声をかけることだけだった。「大丈夫だよ」と言い続けることだけだった。
今は——もっとできる。
リアラは——自分の体を確かめた。弱っている。魔力は大半を吸い出された。立ち上がることすら難しい。でも——妖精の血は消えていない。魔法陣に繋がれていた間、リアラの妖精の魔力は城の魔力と反応し続けていた。城の構造を感じ取っていた。術式の流れを、体で覚えていた。内側から——触れることができる。
魔法陣は壊れた。でも城の術式は生きている。リアラを解放するために壊されたのは魔法陣だけで、城全体を巡る魔力の回路は——まだ動いている。ルーナに繋がる回路。城を維持する回路。そして——アルトたちを排除しようとする、防衛の回路。
リアラの指先が——微かに、緑色の光を帯びた。
瞳がエメラルドに変わった。
妖精の血が応えている。城の術式に——内側から触れられる。阻害ではなく、調律。ミラのような精密な理論ではないが——魔法陣に繋がれていた時間が、リアラに城の「呼吸のリズム」を教えていた。
何ができるかは——まだわからない。力が残っているのかも——わからない。
でも——あの子が壊れるのを見ているだけは、もう嫌だった。
リアラは——手を伸ばした。
床に。城の脈動に。——繋がり始めた。




