第110話:届きそうな場所
走った。
通路を。赤い光の中を。バルの共鳴が導く方角へ——真っ直ぐに。後ろからユートとミラの足音が追ってくるのが聞こえたが、振り返らなかった。精神迷宮を抜けた直後、体はまだ怠い。頭の奥にノイズが残っている。それでも——足は止まらなかった。
リアラが近い。すぐそこにいる。バルの共鳴が——叫んでいる。
通路の突き当たりに——扉があった。
扉というより——壁に開いた裂け目だった。結晶の壁が割れるように開き、その奥から濃い赤い光が漏れている。光に混じって——別の色があった。淡い。微かな。緑がかった光。
妖精の魔力だ。
アルトは——裂け目を抜けた。
その先に広がっていたのは——部屋だった。広い。天井が高い。壁という壁が魔力結晶で覆われ、赤い光が渦巻いている。部屋の中央に——巨大な魔法陣が刻まれていた。床一面を覆うほどの大きさ。複雑な紋様が何層にも重なり、赤と黒の線が脈打っている。
魔法陣の中心に——リアラがいた。
アルトの足が止まった。
リアラは——座り込んでいた。膝を抱えるようにして、魔法陣の中央に。——手首と足首から、魔力の糸のようなものが伸びていた。糸は魔法陣の紋様に繋がり、壁に繋がり、城そのものに繋がっている。リアラの魔力が——少しずつ、絶え間なく吸い出されていた。
顔色が白い。唇に赤みがない。銀色がかった青い髪が力なく垂れている。目を閉じていた。——だが、呼吸はしている。微かに。胸が上下している。生きている。
生きている。
「——リアラ!」
アルトが叫んだ。声が裂けるように広間に響いた。
リアラが——微かに動いた。閉じていた目が、薄く開く。焦点が合わない。ぼんやりとした瞳が——声の方角を探している。
「……アル……ト……?」
掠れた声。ほとんど聞き取れなかった。だが——アルトには聞こえた。自分の名前。リアラの声で。生きている。意識がある。まだ——間に合う。
アルトが前に出た。魔法陣に向かって。
——弾かれた。
防壁。魔法陣の周囲に——透明な防壁が張られていた。見えない壁が、魔法陣の外縁を囲んでいる。アルトの体が弾き飛ばされ、三歩後ろに下がった。
同時に——魔法陣の紋様が反応した。赤い光が強まり、防壁の内側から守護体が立ち上がった。二体。人型。魔法陣を守るために配置された番人。中層や上層の守護体とは質が違う——儀式の残滓が凝縮した、黒い結晶の人形。目にあたる部分に赤い光が灯り、無言でアルトに向き直った。
「——防壁と守護体。二重の防衛」
ユートが追いついた。剣を構える。ミラも杖を構えた。
「魔法陣が——リアラの魔力を吸い出してるのね。調整装置……ルーナの暴走や城の不安定さを、リアラの魔力で抑えてる」
ミラが魔法陣の構造を読み取った。制御法の知識が——ここで活きた。紋様の配列、魔力の流れ方向、吸い出しの速度。
「リアラの消耗速度は——ゆっくりだけど、止まっていない。このまま放置すれば——」
「わかってます」
アルトの声が——硬かった。石を叩くような声。
「防壁を壊します」
「アルト、待って。防壁の構造を分析すれば——」
「待てません」
アルトがバルの魔力を引き出した。断りなく。防壁を展開し——ぶつけた。防壁に防壁を。力で割ろうとした。
衝撃が腕を伝った。防壁同士がぶつかり合い、空気が震えた。だが——儀式の防壁は壊れなかった。アルトの防壁が軋み、バルの魔力が弾き返される。
「——硬い」
『当たり前だ! あれは城の魔力で維持されてんだよ! 力技で壊れるわけねぇだろ!』
バルが叫んだ。漏出が加速している。無断で引き出された魔力が、攻撃転用で大量に消費された。
「もう一回」
「アルト——」
「もう一回。もっと強く」
バルの魔力をさらに引き出した。防壁を強化し、再びぶつける。——弾かれた。腕の関節が軋んだ。体が後ろに滑る。それでも見ている。防壁の表面に——わずかな亀裂が見えた。小さな。ほとんど見えないほどの。
「——亀裂がある。叩けば壊れる」
『何回叩くつもりだ! お前の体が先に壊れるぞ!』
バルの声は——怒りではなかった。恐怖だった。
守護体が動いた。二体の黒い人形が、アルトに向かって踏み出した。
ユートが割り込んだ。一体目の腕を斬り落とし、二体目を蹴りで突き放す。八割出力。銀色の光が閃く。
「アルト。——守護体は俺がやる。お前は防壁に集中しろ」
「——はい」
アルトが防壁に向き直った。三度目。バルの魔力を圧縮して、防壁の亀裂に集中して叩きつける。
亀裂が——広がった。だがまだ足りない。防壁は城の魔力で修復されていく。壊すスピードより、修復のスピードの方が速い。力だけでは足りない。もっと——もっと多くの魔力を。もっと速く。もっと強く。
「ミラさん。防壁の修復を妨害できますか」
「やってみるわ。——制御法で修復の魔力回路を阻害する。でも精度が要る。時間をちょうだい」
「三十秒だけ。三十秒で阻害を成立させてください。その間に僕が叩き続けます」
「アルト——三十秒も叩き続けたら、あなたの方が——」
「大丈夫です」
大丈夫ではなかった。
三度の衝撃で、アルトの腕は痺れていた。バルの魔力を攻撃転用する度に、体への反動が蓄積する。指先の感覚が薄い。呼吸が荒い。精神迷宮の消耗が抜けきっていない体で、連続で防壁を叩いている。
でも——止まれなかった。
リアラが目の前にいる。五歩の距離に。手を伸ばせば届きそうな場所に。防壁一枚がそれを隔てている。たった一枚。それを壊すだけ。壊せば届く。届けば助けられる。
四度目。
バルの魔力が——軋んだ。バルの中で何かが悲鳴を上げている。漏出が限界に近づいている。使えば使うほど、バルの器が削れていく。わかっている。わかっているのに——止められない。
『ノロマ。——俺の漏出が……加速してる。これ以上は——』
「あと少し。あと少しで——」
『あと少しじゃねぇよ。——聞いてんのか』
聞いていた。聞いているのに——手が止まらなかった。
ミラが制御法を展開した。防壁の修復回路に干渉する。精密な計算。繊細な制御。——だが上層の環境ノイズと精神迷宮の後遺症で、制御法の精度が落ちている。十分な阻害には——もう少し時間がかかる。
「アルト! もう少しだけ待って——あと十秒で阻害が成立するわ!」
十秒。それだけ待てばいい。ミラの阻害が成立すれば、修復速度が落ちる。そうすれば、もっと少ない力で防壁を壊せる。合理的な判断だ。十秒待つだけでいい。
待てなかった。
五度目。
バルの魔力を限界まで引き出し、防壁の亀裂に全てを叩き込んだ。
——砕けた。
防壁が。亀裂から放射状にヒビが広がり、赤い光が噴き出し——儀式の防壁が、粉々に砕け散った。
同時に——反動が来た。
アルトの体が。腕から肩へ、肩から背中へ、衝撃波のような反動が体中を駆け抜けた。バルの魔力が逆流する。制御を失った魔力が体内で暴れ、筋肉が痙攣し、視界が白く飛んだ。
膝が——折れた。
床に両膝をつき、両手をついた。指が開いている。力が入らない。呼吸ができない。肺が潰れたように。一瞬——本当に一瞬、意識が途切れかけた。
「アルト!!」
バルの声。ユートの声。ミラの声。三つの声が同時に響いた。
アルトは——顔を上げた。
防壁が消えた。魔法陣が剥き出しになっている。リアラが——そこにいる。五歩先に。もう遮るものはない。
だがアルトの体は——動かなかった。
膝が笑っている。腕が震えている。魔力制御が崩れかけている。バルとの回路が不安定になり、体の中で魔力が散乱している。立てない。立ち上がろうとして——膝が折れた。もう一度。
リアラが——目を開いていた。
焦点の合わない瞳が——アルトを見ていた。ボロボロの少年を。膝をついて、両手をついて、それでも顔を上げている少年を。
「……アル……ト……」
リアラの唇が動いた。ほとんど声になっていなかった。
だが——その目には。朦朧とした意識の奥に。
嬉しさよりも先に——恐怖が、浮かんでいた。
アルトの目を見て。あの目を見て。——この子が壊れる、と。




