第109話:失う未来
通路の奥へ進むほど、静けさが深くなった。
足音が消える。呼吸が遠くなる。自分の心臓の音だけが、やけにはっきり聞こえる。——いや。心臓の音すらも、外から聞こえているような気がした。自分の体の音が、自分のものではないような。
壁の赤い光が——一定のリズムで脈打っている。城の呼吸とも、自分の心拍とも違うリズム。だが——歩いているうちに、自分の心拍がそのリズムに引きずられ始めていることに、アルトは気づかなかった。
「……頭が重い」
ユートが言った。低く。
ミラが杖を握り直した。制御法を切り替えようとして——指が止まった。
「……制御法が、うまく起動しない。魔力の回路が——ぼやける。思考にノイズが入るみたいな——」
ミラの声に怯えはなかった。だが——戸惑いがあった。理論で組み立てた制御法が、正常に動かない。自分の頭が乱されている。外側の魔力ではなく——内側に、何かが入り込んでいる。
「精神干渉か」
ユートが剣の柄を握った。だが——剣では斬れない。敵がいない。目に見える何かがない。空気そのものが、意識に染み込んでくる。
「アルト。——ここは危険だわ。一度戻った方が——」
「戻れません。通路が塞がっています」
アルトの声は——平坦だった。振り返らなかった。前を向いたまま。事実を述べただけ。戻れない。進むしかない。——だから進む。
通路が——広がった。
幅が左右に開き、天井が消えた。赤い光が上から降り注ぎ、空間全体がぼんやりと輝いている。壁がない。床だけがある。その先に何があるのかわからない。霧のような赤い光が、視界を覆っている。
足を踏み入れた瞬間——世界が、切り替わった。
* * *
最初に見えたのは——バルだった。
——いや。バルだったもの。
黄色い布地が灰色に変わっていた。魔力の光が完全に消えている。目がない。口がない。ただの——袋。かつて相棒だったものの抜け殻が、地面に転がっている。
アルトの呼吸が止まった。
知っている。これを見たことがある。三年前のあの日。ディアルとの戦いで、力を使い果たして沈黙したバル。あの時と——同じだ。いや、違う。あの時は沈黙しただけだった。二年間、黙ったまま隣にいてくれた。復活する可能性があった。
今見ているのは——その先だ。
漏出が止まらなくて。器が限界を超えて。魔力が全て流れ出て。——バルが、消える。灰色の布地が風に溶けるように崩れていく。粒子になって、散って——何も残らない。
「——違う」
アルトが呟いた。声が震えていた。
「これは——偽物だ。バルはここにいる。背中に——」
背中に手を伸ばした。バルを確かめようとした。だが——触れたのは、空気だった。バルがいない。背中に何もない。重さがない。温度がない。
偽物だ。これは幻だ。精神干渉だ。わかっている。——わかっているのに、心臓が潰れそうになる。
灰色のバルが——声を出した。
『……間に合わなかったな。ノロマ』
バルの声だった。最後の言葉のように。責めるでもなく、恨むでもなく。ただ——事実として。
アルトは——目を逸らせなかった。
* * *
場面が切り替わった。
暗い部屋。赤黒い光の中に——リアラがいた。
魔法陣の上に座り込んでいる。手足から魔力の糸が伸び、壁に繋がっている。顔色が青白い。目が虚ろだ。だがまだ——息をしている。まだ——生きている。
リアラが、顔を上げた。
「……アルト」
掠れた声。唇がかろうじて動いている。
「……来てくれるって——信じてた」
アルトの胸が軋んだ。
「来てくれるって——ずっと——」
リアラの声が——途切れた。目が閉じていく。ゆっくりと。力が抜けていくように。魔法陣の光が強くなり、リアラの体から魔力が吸い出されていく。
「——リアラ!」
走った。走ろうとした。だが——足が動かなかった。足が地面に縫い止められている。指一本動かせない。見ているだけ。見ていることしかできない。
遠い。たった五歩の距離が——途方もなく遠い。手を伸ばしても届かない。声を上げても届かない。そこにいるのに。目の前にいるのに。——何もできない。
あの時と同じだ。
* * *
場面がまた切り替わった。
三年前。
ディアルが立っていた。
目の前に。圧倒的な存在感。見上げるしかない巨体。赤い目がアルトを見下ろしている。——見下ろしてすらいなかった。視界に入っていなかった。アルトなど——石ころと同じだった。
背後で、ユートが血を流していた。胸を貫かれて。
ミラが叫んでいた。
バルが沈黙していた。
十三歳のアルトが——震えていた。膝が笑っている。剣を握る手に力が入らない。何もできない。何も。
——弱い。
弱かったから。弱かったから何もできなかった。ユートを失い、ミラと離れ、バルが沈黙した。全部——弱かったから。
だから強くなった。二年間、一人で修行して、魔法剣を覚えて、強くなった。もう弱くはない。もう——あの時の自分ではない。
——本当に?
声が聞こえた。自分の声。頭の中から。
——本当に強くなったのか。今だって、後方に立って何もできなかっただろう。ユートが戦って、ミラが援護して、お前は何をしていた。バルに「動くな」と言われて、止まっていただけだ。
違う。あれは作戦で——
——作戦か。お前が前に出たがっていたのを、みんなが止めただけだ。お前が前に出ても邪魔になるから。消耗するだけだから。足を引っ張るだけだから。
違う——
——何が違う。あの日と何が変わった。お前の周りでみんなが傷ついて、お前はそれを見ていただけだ。三年前も。今も。何も変わっていない。お前は——ずっと弱い。
アルトの体が——震えていた。
知っている。この声の正体。これは精神干渉だ。城の魔力が記憶を引き出し、恐怖を増幅している。偽物だ。幻だ。本物のバルは消えていない。本物のリアラはまだ間に合う。本物の自分は——三年前より強い。
わかっている。
わかっているのに——体が動かなかった。恐怖が指先から全身に広がり、呼吸を奪っている。心臓が痛い。目の奥が熱い。泣きそうだった。——いや。泣いている場合じゃない。泣いたら止まる。止まったら間に合わない。バルが消える。リアラが衰弱する。間に合わなくなる。
泣くな。
泣くな。
——立て。
アルトは——歯を食いしばった。幻の中で。恐怖の中で。膝が震えている。目の奥が燃えている。それでも——立った。
立って——走った。
幻の中を。恐怖の中を。バルが消える映像を振り払い、リアラの手が届かない映像を振り払い、十三歳の自分を振り払い——前に走った。
もう失いたくない。
もう見ているだけは嫌だ。
僕が——僕がやる。僕が全部やる。止められても。下がれと言われても。邪魔だと言われても。僕がやらなきゃ——また失う。
何もできない自分のまま——また、大事な人が消えていく。
それだけは——絶対に——
* * *
「——アルト!」
声が聞こえた。
遠い声。——いや。近い声だった。すぐ隣の声だった。
『アルト! 目を開けろ!』
バルの声。背中から。——背中に、重さがあった。温度があった。バルがいる。ここにいる。
『ノロマ! 聞こえてんだろ!!』
アルトは——目を開けた。
赤い光の空間。霧のような光の中に——ユートとミラが立っていた。二人とも顔色が悪かった。ユートは剣を杖のように突いて体を支えている。ミラは杖で額を押さえている。二人も——やられていた。精神干渉に。だが——立っていた。耐えていた。
「……バル」
『ああ。——いるよ。どこにも行ってねぇ』
バルの声が——少しだけ、震えていた。怒りではなかった。安堵だった。アルトが戻ってきた安堵。
「……ミラさんは。ユートさんは」
『二人とも持ちこたえた。——お前がいちばん深くやられてた』
アルトは——手を見た。自分の手。震えている。まだ震えが止まらない。幻は消えた。偽物だったと頭ではわかっている。だが——恐怖は本物だった。バルが消える恐怖。リアラに届かない恐怖。何もできない恐怖。あれは精神干渉が作った偽物だが——素材は全部、自分の中にあるものだった。
自分の恐怖が、自分を壊しかけた。
「——大丈夫です」
アルトは立ち上がった。膝が笑っている。それでも立った。
「大丈夫です。——行きましょう」
ユートが——アルトを見ていた。何か言おうとした。「少し休もう」と。だが——アルトの目を見て、止めた。あの目は——聞く余裕のない目だった。さっきまでより、もっと深くなっていた。精神干渉を抜けて、「大丈夫です」と言うアルトの目からは——余裕だけでなく、猶予すらも消えていた。
ミラが——杖を構え直した。制御法が不安定だが、維持はできる。体が重いが、動ける。
「……行くわ。——でもアルト。次に何かあったら、私たちを頼りなさい」
「はい」
答えた。——だが、アルトの中で「頼る」という言葉は、もう別の意味に変換されていた。頼る。つまり——また後ろで見ているだけ。また何もできないまま、誰かが傷つくのを見ている。それを「頼る」と呼ぶのか。
もう——嫌だ。
通路の奥で——バルの共鳴が鳴った。
強く。はっきりと。
「——アルト。リアラだ。この先——もうすぐそこだ」
アルトは——走り出した。
止まらない足で。恐怖を振り切るように。仲間の声を背中に聞きながら——だが、振り返らずに。
「待て」という声が聞こえた気がしたが——足は止まらなかった。




