第108話:強いのに
ユートは——二分間、観察した。
六本の腕が、ゆっくりと位置を変え続けている。一見すると不規則だが——一定の周期がある。六本全てが同時に動くことはない。常に三本が床と壁に接触したまま、残りの三本が次の位置へ移動する。接触している三本は構造物を支えると同時に、広間全体をカバーする防衛線になっている。
移動中の腕は——隙ではなかった。むしろ逆だ。移動中の腕の先端には結晶が集中しており、近づく者を薙ぎ払うための打撃器官になっている。
だが——入れ替わりの瞬間がある。
三本の接触腕が離れ、別の三本が着地する、その刹那。ほぼ同時に見えるが——ゼロではない。ごくわずかな空白がある。
「——パターンがある。六本の腕が入れ替わる時、一瞬だけ全ての腕が浮く。そこが隙だ」
ユートが剣を構え直した。
「ただし間隔は短い。約三十秒に一度。その一瞬で心臓部に届かなければ——次の三十秒を凌がないといけない」
「三十秒ごとの隙。——わかりました。ユートさんが斬りに行くタイミングに合わせて、僕が腕を引きつけます」
「引きつけるって——お前が前に出るのか」
「防壁で二本の腕を受けます。残りの一本はミラさんの牽制で。ユートさんは——空いた道を一直線に」
「……待て。順序が逆だ」
ユートが言った。静かに。
「俺が腕を引きつける。六本のうち三本は俺で受けられる。斬って受けて、動きを止める。——心臓部への攻撃は、ミラの遠距離射か、お前の防壁の圧壊でいい」
ユートの提案は——合理的だった。ユートの剣技なら腕を「斬りながら受ける」ことができる。防御と攻撃を同時にこなせる。アルトの防壁では「受ける」ことしかできない。その間、アルトは動けなくなる。ユートが引きつけた方が、パーティ全体の行動自由度は上がる。
だがアルトは——一拍、間を置いた。
「ユートさんが引きつけ役だと、心臓部への攻撃に時間がかかります。隙は一瞬なんです。ユートさんの斬撃の方が確実に——」
「なら俺が斬りに行く。お前が引きつけろとは言わない。ミラと二人で距離を取れ。腕の射程外で援護するだけでいい」
ユートの目が——真っ直ぐだった。
アルトを前に出させたくない。それは庇いではなかった。戦術だった。消耗しているアルトが前線に立つより、ユートが全てを引き受けた方が効率がいい。——正しい判断だ。正しいことは、アルトにもわかっている。わかっているのに。
「……わかりました」
アルトが——折れた。声の温度が一段低くなったのを、バルは聞き逃さなかった。折れたのではなく、退いたのだ。納得したのではなく——今ここで議論する時間を惜しんだのだ。
「ミラさん。ユートさんが斬りに行くタイミングで、移動中の腕を牽制してください。命中しなくていい。軌道をずらせれば十分です」
「わかったわ」
ミラが杖を構えた。制御法を攻撃モードに切り替える。自己補正を維持したまま火球を精密に撃つ——並列処理の負荷は高いが、できる。かつてならそれだけで限界だったが、三十発安定を経た今のミラには余裕がある。
「バル。ユートさんが心臓部に到達するまで、防壁は使わない。漏出を抑えて。——心臓部がどう反応するかわからないから、最後の一撃の保険だけ残して」
『……了解』
バルは——少しだけ、驚いていた。断りなく使うのではなく、使い方を事前に伝えてきた。さっき「次からは言います」と言った言葉を——守っている。守ってはいるが——声から余裕が消えていた。守ることに意識を割いている。普段なら無意識にできることを、意識的にやっている。
それは回復ではない。補填だ。
* * *
六本の腕が——入れ替わった。
ユートが動いた。
銀色の光が広間を斬り裂くように走った。八割出力。再鍛造された剣が、左から振り下ろされた腕の先端を弾く。結晶が砕け、腕の軌道がずれた。その隙間を縫って、ユートの体が構造物に向かって加速する。
右から第二の腕が薙ぎ払ってきた。ユートは跳ばなかった。しゃがんだ。腕が頭上を通過する風圧を感じながら——前に出た。床を蹴り、一歩で間合いを詰める。
三本目が——上から落ちてきた。天井に触れていた腕が、ユートの真上から叩きつけるように。
ミラの火球が直撃した。
横から放たれた精密射が、落下する腕を打ち据えた。火球そのものでは砕けない。だが——軌道がずれた。ユートの頭上から、二歩右へ。着弾の衝撃が床を揺らしたが、ユートはもう射程圏の外にいた。
「——いける」
ユートが——構造物の根元に到達した。六本の腕が入れ替わる、あの空白。三十秒の間隔。次の空白が来るまで——ここで腕を捌きながら待つ必要がある。
構造物の根元は——熱かった。魔力の脈動が直に伝わる。心臓部の赤い光が至近距離で脈打っている。城の呼吸そのものがここから発せられている。
腕が再び動き始めた。新しいサイクル。三本が着地し、三本が移動を始める。——だが、ユートが根元にいることで、腕の動きが変わった。侵入者を排除しようとする意志。移動中の腕が——ユートに向けて集中する。
九割。
ユートが——九割出力で迎撃した。飛んでくる結晶の腕を、至近距離で斬り落とす。一本。二本。銀色の斬撃が閃光のように広間を照らした。斬り落とされた腕の先端が床に落ち、赤い光が散る。
だが——すぐに再生し始めた。根元から新しい結晶が伸びてくる。守護体と同じ再形成。ただし速度が段違いだった。斬っても、十秒と経たずに元に戻る。
「ユート! 再生が速い!」
ミラの声が飛んだ。
「わかってる。——次の空白を待つ。そこで心臓を叩く」
ユートは——根元で腕を捌き続けた。九割出力の連斬。斬って斬って斬り続ける。再生する先端を、形を取る前に切り落とす。——持つ。三十秒なら持つ。剣が折れなければ。体が動く限り。
アルトは——後方で見ていた。
見ていた。ユートが一人で構造物の根元に立ち、六本の腕を捌いている。ミラが牽制を続けている。バルの魔力は温存されている。——全てが、アルトの指示通りに動いている。
全てが正しい。
でも——アルトの手が震えていた。何もしていない手が。防壁も張っていない。攻撃もしていない。索敵もしていない。何もしていない。ユートが戦っている。ミラが援護している。自分は——何もしていない。
待っている。ユートを信じて待っている。それが最善の判断だと、自分で決めたはずだ。ユートの提案を受け入れたのは自分だ。だが。
後方で待つ。何もしない。仲間が戦っているのを見ている。——それは。
三年前のあの時と——同じだ。
ディアル戦。ユートが自分を庇って前に出た。自分は何もできなかった。見ていた。見ていることしかできなかった。あの時と——同じ。
違う。あの時は弱かったから何もできなかった。今は——強くなった。できることがある。バルの防壁がある。前に出て、腕を引きつけることだってできる。やろうと思えば、今すぐできる。なのに——やるなと言われている。待てと言われている。自分で決めたはずの「待つ」が——ここにきて、喉を締めつけている。
足が——前に出そうになった。
『ノロマ』
バルの声。低く、短く。
『……何』
『動くな』
二文字。それだけだった。それだけで——アルトの足は止まった。バルの声が、反射的に体を止めた。
バルは——わかっていた。アルトが今にも飛び出しそうだったことを。心拍で聞こえた。走り出す直前の心臓の音。それを——声で止めた。
二十八秒。二十九秒。
空白が——来た。
六本の腕が同時に浮いた。一瞬。ほんの一瞬。
ユートが——斬った。
全力。十割出力。再鍛造された剣が、全ての光を振り絞って、構造物の心臓を貫いた。
銀色の閃光が——広間を塗り潰した。
構造物が——軋んだ。六本の腕が痙攣するように震え、心臓部の赤い光がちらついた。割れ始めた。亀裂が走り、内部から赤い光が噴き出す。
崩壊は——静かだった。
巨大な構造物が、上から順に結晶の粒子へと分解されていく。腕が崩れ、柱が崩れ、心臓が最後に砕けた。赤い光が散って——消えた。広間の中に、残骸だけが残った。
ユートが——膝をついた。
「ユートさん!」
アルトが駆け寄った。バルの「動くな」はもう解除されていた。構造物が倒れた以上、後方待機の理由はない。だから走った。走る理由が——やっとできた。
「大丈夫だ。——十割はさすがに堪えるが」
ユートが立ち上がった。剣を杖のように使って。呼吸が荒い。だが——笑っていた。「十割出した甲斐はあった」という顔。
「ユート、怪我は?」
ミラが駆け寄ってきた。杖で簡易的な回復術を準備しながら。
「擦り傷くらいだ。結晶の破片が少し。——問題ない」
三人が合流した。構造物の残骸が赤い粒子になって、ゆっくりと消えていく広間の中で。チームとして——勝った。ユートの戦闘力。ミラの精密射。アルトの作戦——は、途中でユートの提案に切り替わったが。バルの漏出は最小限に抑えられた。チームの連携は機能した。
強い。
このパーティは——強い。
ユートの斬撃は十割出力でも剣が折れなかった。再鍛造が成功している証拠だ。ミラの制御法は上層の変動環境でも精密射を維持できた。バルの温存判断も正しかった。
だがアルトは——笑えなかった。
ユートが戦っている間、自分は何をしていた。後方で立っていた。手が震えていた。飛び出しそうになってバルに止められた。——それだけだ。
みんなが立ち直ったのに。ユートは再鍛造を経て強くなった。ミラは三十発安定を達成した。バルは共鳴で索敵を支えている。全員が——より強く、より確かになっている。
なのに——アルトだけが、立っている場所がわからなくなっている。
みんなが強くなればなるほど。みんなが頼もしくなればなるほど。——アルトの中の「僕がやらなきゃ」が、行き場を失って暴れている。やるべきことが減るほど焦る。信じるべき仲間が強いほど、自分が何もできていない気がする。それは感謝ではなく——焦燥だった。
* * *
構造物の奥の通路を進んだ。
空気が——また変わった。
上層に入ってからずっと続いていた魔力の「揺れ」が、ここでは消えていた。静かだった。圧力が消えたのではない。圧力が均一になっていた。あまりにも均一すぎて——かえって不自然だった。
通路の壁は脈動を止めていた。赤い光は灯っているが、揺らめいていない。固定された光。止まった呼吸。——城のこの部分は、生きているのではなく、何かを「待っている」ように静まり返っていた。
ミラが——杖を握り直した。
「……制御法の補正対象がない。変動がゼロ。——これは異常よ。魔力が完全に静止している空間なんて、自然には存在しない」
「人為的に作られた空間ってことですか」
「……わからない。でも——ここは城の他の場所と違う。何かのために、安定させられている」
通路を進むにつれて、音が消えていった。足音が吸い込まれる。声が遠くなる。自分の呼吸だけが、やけにはっきり聞こえる。
そして——頭の奥が、ぴりっと痺れた。
微かに。ほとんど気のせいと思えるほど微かに。だが——四人全員が、同時に足を止めた。
「……今の、感じたか」
ユートが低く言った。
「——ええ。頭の——奥に、何か触れた」
ミラが額に手を当てた。
アルトは——何も言わなかった。頭の奥が痺れている。だが痛みではない。もっと——嫌な感覚。誰かに覗かれているような。記憶の引き出しに、知らない手が触れたような。
『……嫌な感じだ』
バルが呟いた。声が硬い。
『この先に何がある——』
通路の奥から、赤い光が——脈打ち始めた。
さっきまで静止していた光が。一つ。二つ。三つ。呼吸を再開するように。だが城の呼吸とは違うリズム。もっと——個人的なリズム。誰かの心臓の鼓動に合わせるような。
頭の奥の痺れが——少しだけ、強くなった。
アルトの足が——また前に出ようとしていた。止まらない足が。痺れも、不安も、全部を振り切って——リアラの方へ。




