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『ノロマ、死ぬなよ』〜毒舌カバンと最弱少年の英雄譚〜  作者: 塩とわかめ
第三章:壊れた空と、取り戻すための戦い
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第107話:止まらない足

 螺旋階段を上る足音が——一人だけ速かった。


 壁に沿った段差は不揃いで、踏み面が狭い場所がある。石の表面を覆う魔力結晶が滑りやすく、ミラは杖で体を支えながら慎重に上り、ユートは壁側に手を添えて足元を確かめている。


 アルトだけが、二段飛ばしで上がっていた。


 五分前に休んだばかりだ。ユートが「五分」と押し通し、ミラが「全部飲みなさい」と水を握らせた。従った——ように見えた。だが立ち上がった瞬間、もう走り出している。五分で回復した分を、即座に次の消費に回すように。


 上へ行くほど、空気の質が変わった。


 中層までの魔力は「濃い」だった。体に圧し掛かるような、ただただ重い密度。上層に近づくにつれて——それが「揺れる」に変わった。圧力が一定ではない。膨張と収縮を繰り返す、潮のような波。呼吸のリズムが外から乱される。心臓の鼓動に干渉してくるような不快感。


 ミラの制御法が即座に補正をかけた。だが補正の上から、次の波が被さってくる。


「……変動が大きすぎる。上層の魔力は——定常じゃない。波があるわ」


 杖を握り直しながら、ミラが階段を上る。制御法のパラメータを歩きながら組み替えている。並列処理の負荷が跳ね上がっている。


「ミラさん。パーティ全体のカバーだと精度が落ちますよね。自分とユートさんの分だけに絞ってください。僕はバルの魔力で自己補正します」


 振り返らないまま。


 ミラは——足を止めなかった。止めたら、アルトの背中が遠くなる。代わりに、言われた通りカバー範囲を絞った。アルトをカバーから外すのは——作戦としては合理的だった。バルの魔力で自己補正できるなら、ミラの負荷が減り、持続時間も伸びる。正しい判断だ。


 正しいのに——ミラは、自分がアルトの背中を手放したような気がした。


 * * *


 螺旋階段を上り切った先は——回廊だった。


 中層のような不規則な迷路ではない。一本の長い通路が、奥へ真っ直ぐ伸びている。だがその通路自体が——動いていた。壁が呼吸するように膨らみ、縮む。天井が下がり、上がる。床が微かにうねり、足を踏み出すたびに地面の高さが変わる。


 中層までは「魔力に侵された石」だった。上層は——石が消えていた。壁も天井も床も、全てが魔力結晶そのものでできている。赤黒い半透明の壁が光を揺らめかせて通す。肉の内部を歩いているような感覚。ここが建物であることを、体が忘れかける。


「——気持ち悪い場所だな」


 ユートが低く呟いた。不快ではなく、警戒の声。剣の柄に置いた手が微かに力を込めている。


 アルトは答えなかった。ノートを開き、通路の方角を確認している。バルの共鳴と照合する。


「バル。方角」


『上のままだ。——ただし近い。さっきまでより、ずっと近い』


 バルの声に——力が入っていた。共鳴が強くなっている。上層に入ったことで遮蔽物が減ったのか、リアラの魔力がより直接的にバルへ届いている。


 アルトの手が変わった。ノートを閉じる動きが速い。しまう動作が雑だった。今まで几帳面にノートを扱っていたアルトが、押し込むようにしまった。


「近いんですね。——急ぎましょう」


 歩く速度が上がった。回廊を歩くのではなく——進軍していた。目的地がある。距離が縮まっている。ならば速く行く。それだけだった。


 ユートが追いついた。隣に並ぼうとしたが、アルトの歩幅が速い。追い越すことはできる。だがアルトは——先頭にいたがっていた。前を歩きたいのではない。誰よりも先に着かなければならないと、体が思い込んでいる。


 一体目の守護体が——壁から剥がれた。


 上層の守護体は形が違った。人型ではない。四つ足の獣のような輪郭に結晶が固まり、低い姿勢で通路を塞いでいる。赤い光の目が二対。——中層のものより小さいが、速い。


 アルトが前に出た。


 バルの魔力を引き出し、防壁を展開する。守護体が跳びかかった。防壁に激突し、衝撃がアルトの腕を伝う。重くはない。中層の番人より軽い。だが——速い。防壁に弾かれた反動ですぐに距離を取り、二撃目の態勢に入っている。


 ユートが横から斬った。跳ぶ軌道を読み、空中を捉える。七割出力。銀色の斬撃が守護体の胴を断ち切り、結晶の破片が赤い光の中に散った。一撃。


「——ありがとうございます。次、行きましょう」


 破片が床に落ちきる前に歩き出していた。ユートが斬ったのを確認すらしていない。背中で気配が消えたのを感じて——「終わった」と判断した。それだけ。


 ユートは——剣を振り下ろした姿勢のまま、アルトの背中を見た。


 見ていない。こちらを。


 信頼しているのとは——違う。ユートが斬ることを計算に組み込んでいる。「ユートさんなら斬れる」。それは正しい。だが——「斬れたか確認する」手順が消えている。残骸の中に再形成の兆候がないか。二体目がすぐ後ろに控えていないか。戦闘後の確認を、全部省略していた。


 一秒でも惜しい。


「アルト。今のは——俺に声をかけてから前に出ても間に合った」


「はい。でも防壁で止めた方が確実です。ユートさんが斬る前に逃げられたら追う手間が増えますから」


「……そうだな」


 理屈は通っている。守護体を防壁で止め、ユートが斬る。効率がいい。だが——アルトが「前に出る」理由に使われている。ミラの魔法で足止めしてもいい。バルの魔力で拘束してもいい。選択肢はある。でもアルトは自分が前に出ることを選ぶ。一番早い位置で。一番速く。


 二体目。三体目。


 壁から剥がれてくる獣型の守護体は、どれも中層のものより速かった。だがパターンは似ている。跳びかかり、体当たりし、距離を取って二撃目。アルトが防壁で受け、ユートが斬る。毎回、同じ流れ。連携。——だが毎回、アルトが最初に動いていた。


 ユートの感覚では——自分が先に動けた場面が、少なくとも二度あった。


 一度目は、守護体が右の壁から剥がれた時。ユートの方が近かった。だがアルトが体を割り込ませて防壁を張った。


 二度目は、通路の先で二体が同時に現れた時。ユートが手前の一体に対応しようとした瞬間、アルトが両方に向けて防壁を広げた。結果、ユートは二体とも斬れた。——だがアルトの消耗は大きくなった。


 バルの共鳴を索敵に使っている。ユートの剣よりも広い範囲を感知できる。索敵でアルトが先に動き、戦闘でもアルトが先に出る。ユートが構えた時には——もうアルトが前にいる。


 * * *


 四体目を倒した直後。


『ノロマ』


「ん?」


『止まれって言ってんじゃねぇ。——周りを見ろって言ってんだ。お前、さっきから自分の前しか見てねぇだろ』


 バルの声が、背中から響いた。


「見てます。通路の構造も、守護体のパターンも把握して——」


『そうじゃねぇ。——後ろだよ』


 アルトが、振り返った。


 ミラが——二十歩ほど後ろにいた。


 杖を支えにして、息を整えている。上層の魔力変動に対する補正を維持しながらの歩行が、消耗を大きく増していた。カバー範囲をユートと自分の二人分に絞っても、変動の振れ幅が大きすぎる。補正の修正に、常に集中力を割かれている。


 アルトは——二十歩ぶん、ミラを置いていた。


「——ミラさん、すみません。少し速かったですか」


「ううん。大丈夫。少し計算が——」


「制御法の負荷が上がってるんですね。カバー範囲をさらに狭めましょう。ユートさん、自分の周囲だけ剣の魔力で補正できますか?」


「……できなくはない。精度は落ちるが」


「じゃあそれで。ミラさんは自分の分だけに集中してください。全員がばらばらに自衛する形になりますけど、この先はそっちの方が効率がいいはずです」


 対処が速かった。問題を認識して、即座に対策を出している。全員の能力を把握した上で、最適な配分を割り出している。——正しい。


 だがミラは——違和感を覚えた。


 「少し速かったですか」と聞いたのに、答えを待っていなかった。ミラが「大丈夫」と言い切る前に次の指示が出ていた。ミラの返答は——判断材料ではなかった。確認事項ですらなかった。アルトはもう答えを持っていて、ミラの顔を見た瞬間に対策を決めていた。


 相談ではない。報告だ。


 ミラは杖を握り直した。言いたいことがあった。「少し待って」と。「五分でいいから休もう」と。中層であれだけ激しい戦闘をした直後なのだ。五分の休憩では回復しきれていない。全員が。


 だがアルトの顔を見れば——わかる。あの目には、「もう休んだ」と処理されている。次の休憩は不要。リアラが近い。バルの時間は減り続けている。止まる理由がない。


 ミラは——口を閉じた。


「大丈夫よ」と言った。笑って。


 * * *


 五体目は——今までのものとは違った。


 壁から剥がれたのではない。床から隆起した。通路の中央、足元の結晶が盛り上がり、腰ほどの高さの塊が形成される。それが——左右に分裂し、二体の獣型になった。


 アルトが防壁を展開した。だが二体が同時に左右から跳びかかる。防壁の面は一つ。片方を受けた瞬間、もう片方が——


 ユートが斬った。跳躍の頂点を捉え、空中で一閃。七割。だが——斬った破片が、落ちる前にまた形を取り始めた。


「再形成が速い。——アルト、距離を取れ」


「いえ。もう一回叩けば核が壊れるはずです」


 アルトが防壁を前に押し出した。再形成途中の守護体に防壁をぶつけて、圧し潰す。核の部分を圧迫する。バルの魔力が激しく消耗した。——だが核が砕けた。赤い光が散って、結晶が崩れた。


「もう一体」


 ユートが残りを追撃して砕いた。八割出力。再形成の暇を与えない速度で。


 通路が静かになった。


 アルトの呼吸が——荒かった。防壁を攻撃に転用するのは、防御の何倍も消耗する。バルの漏出も加速した。短い時間だが——無視できない量の魔力が失われていた。


『ノロマ』


「何?」


『今の——俺の魔力を攻撃に使っただろ。事前に言え。漏出の計算が狂う』


「ごめん。——でも再形成される前に壊した方が、結局は消耗が少ないです」


『結果の話じゃねぇ。手順の話をしてるんだ』


 バルの声は——苛立ちではなかった。不安だった。


 アルトが事前に相談しなくなっている。バルの魔力を使うのに、バルに断りを入れなくなっている。以前なら必ず聞いていた。「バル、防壁出せる?」「バル、あとどのくらい持つ?」。それが消えている。聞かずに使う。使える前提で動いている。信頼——ではない。余裕がないのだ。聞いている時間が惜しくて、確認する隙間が頭の中にない。


「……次からは言います」


 アルトは言った。だが、その言葉が守られるかどうか——バルにはわからなかった。


「行きましょう」


 また歩き出した。


 バルは——背中で、アルトの心拍を聴いていた。


 さっきより速い。中層の番人と戦った時よりも。螺旋階段を上っている時よりも。リアラが近い。近づいている。その実感がアルトの心臓を叩いている。嬉しさではない。焦りだ。近いのに、まだ届かない。近いから、余計に急ぐ。もう少し。もう少しで届く。だから——止まれない。


 * * *


 回廊が——変わり始めた。


 一本道だった通路が、ゆるやかに蛇行している。壁の脈動が強まり、赤い光が視界を染める。天井が低くなった。圧迫感。ミラの自己補正でも、呼吸に引っかかりを感じる深さ。


 通路の幅が——狭くなっていた。最初は四人が横に並べるほどの幅があった。いつの間にか、二人がやっとの幅になっている。壁が迫ってきている。城が——通路を狭めている。


「門番じゃなくて、免疫か——」


 ユートが低く言った。


 壁が動いた。壁そのものが蠕動し、通路の形が変わる。さっき通った場所が、振り返ると塞がっていた。戻れない。前にしか進めない。


 アルトは——足を速めた。


「アルト。これは罠かもしれない。城が誘導している可能性がある」


 ミラの声に、切迫が混じっていた。


「わかってます。でも戻れない以上、進むしかない」


「一度止まって壁の構造を分析させて。少し時間があれば——」


「止まると壁がさらに締まります。動いた方が安全です」


 アルトの判断は——おそらく正しかった。壁の蠕動は一定の速度で進んでいる。止まれば挟まれる。動けば、壁が閉じきる前に抜けられる。


 だが——それを確認する間もなく決めている。壁の動きを見て、速度を読んで、「止まれば締まる」と結論を出すまでに、三秒しかかかっていない。鋭さ。アルトの、違和感に気づき状況を読み取る力が——全力で回転している。休む間もなく。観察し、判断し、指示を出し、前に進む。全ての処理を同時に走らせている。


 ミラの制御法と同じだ。——ただしミラには理論体系がある。限界の予測ができる。アルトにあるのは、肉体と直感だけだ。限界は——来るまでわからない。


 狭い通路を抜けた。


 壁が左右から体を削るように迫る、最後の隙間をすり抜けた瞬間——空気が変わった。


 広い。


 天井が——ない。上に向かって空間が吹き抜けていて、赤い光が渦巻きながら上昇している。壁を覆う魔力結晶が巨大な柱のように聳え立ち、柱と柱の間を赤い光の筋が橋のように渡っている。中層と上層の境界にあった広間よりもさらに大きい。城の中核に近い空間だった。


 広間の奥に——通路が続いている。さらに上へ向かう道。


 そして。


 広間の中央に——何かが聳えていた。


 守護体ではなかった。形が違う。守護体は壁や床から生まれた結晶の塊だった。これは——最初からここにあるものだった。広間の中央に根を張るように屹立する巨大な結晶の構造物。人の身の丈の三倍はある。そこから腕のようなものが六本伸び、床に触れ、壁に触れ、天井に触れている。広間全体を支えるように。あるいは——塞ぐように。


 構造物の中心に赤い光が灯っていた。心臓のように脈打っている。ゆっくりと。城の呼吸と同じリズムで。


「……あれは守護体じゃない」


 ユートが剣に手をかけた。銀色の光が脈動する。


「城の一部だ。——城そのものが、ここに置いている」


 アルトは——構造物を見上げていた。六本の腕の配置。結晶の密度。心臓部の位置。目が動いている。観察している。解析している。どうすれば壊せるか。どうすれば——この先へ進めるか。


「バル」


「ああ」


「リアラは——この先にいる?」


『……この先だ。あの——奥に』


 バルの声が震えていた。共鳴が強い。リアラの魔力が、あの構造物の向こうにある。すぐそこに。


 アルトの足が——前に出た。


「待て」


 ユートの声。


 アルトが止まった。振り返った。——振り返ったのは一瞬だった。


「少しだけ観察させてくれ。腕の動きにパターンがあるかもしれない」


「……わかりました」


 答えた。止まった。——だが体重は前にかかっていた。足は止まっている。だが体が前に傾いている。腕が垂れている。すぐにでも走り出せる姿勢。


 止まっているのではなく——我慢しているのだ。


 リアラがあの先にいる。バルが言った。すぐ近くだと。なのに、止まっている。待っている。観察した方がいい。パターンを見た方がいい。ユートの判断は正しい。わかっている。——わかっているのに、足が前に行きたがっている。


 止まらない足を、意志で抑えつけている。


 六本の腕が——動いた。ゆっくりと位置を変え始める。呼吸するように。


 アルトの目が——それを見ていた。見ていたが、観察しているのか、ただ睨んでいるのか。


 ユートには——わからなかった。


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