第106話:突入
六日目の朝。
霧が——割れた。
ずっと視界を塞いでいた赤黒い霧が、唐突に薄くなった。風が変わったのではない。霧そのものが——避けている。何かを中心にして、霧が左右に分かれていた。まるで敬意を払うかのように。あるいは——恐れているかのように。
その向こうに——城が、あった。
「——あれか」
ユートが呟いた。
城、と呼ぶには——異形すぎた。
かつては確かに城だったのだろう。石造りの塔の輪郭が残っている。崩れた城壁の跡。巨大な正門の骨格。だがその全てが——魔力に侵食されていた。石の表面を覆う赤黒い結晶。脈打つ壁。天に向かって伸びる塔は途中で折れ曲がり、折れた先から新しい構造物が生えるように伸びている。城が——成長している。増殖している。元の設計図を無視して、魔力が好き勝手に城を作り変えている。
城の周囲には——浮遊する瓦礫があった。大小さまざまな岩塊が、城を中心に緩やかに回転している。重力から解放されたように。城の魔力が周囲の空間を歪めているのだ。近づけば近づくほど、足元の地面も不安定になるだろう。
ミラが杖を構えて、魔力の密度を計測した。
「……想定以上ね。外から見ただけで——中はもっと濃いはず。制御法の維持、かなり消耗するわ」
「三十発安定は?」
「維持できる。——ただ、時間制限がある。城内では、私の制御法は六時間が限界。それ以上は——脳が保たない」
「六時間。——十分です」
アルトの返答は即座だった。考えている様子がなかった。考えなくても——もう答えが出ていた。
「六時間あれば城を突破できます。バルの共鳴の方角から推測すると、リアラは上層にいる。正門から入って、最短ルートで上層を目指す。途中の階層は迂回も使って、戦闘は最小限にする」
ノートを開いて、すでにルートを手書きで描いていた。城の外観から内部構造を推測し、バルの共鳴の方角から上層の位置を割り出している。推測に過ぎない。中に入ってみなければわからないことだらけだ。でも——アルトは推測を前提にして、もう計画を組み立てていた。
「ユートさんは先陣。僕とバルが索敵と防壁。ミラさんは環境制御と後方支援。——この配置で行きます」
言い切った。
相談ではなかった。
ミラとユートが顔を見合わせた。一瞬だけ。アルトはそれに気づいていない——ノートに目を落として、ルートの確認を続けている。
ユートは——何か言おうとした。「その配置、俺も考えてたが——もう少し話さないか」と。だが——言葉の前に、アルトが次の指示を出した。
「出発前にバルの漏出を確認します。ミラさんは制御法をフル展開で待機してください。僕がバルの共鳴を使ってルートの修正をします。——十分で終わらせます」
十分。
六日間ほぼ眠らず、ろくに食べず、ここまで歩き続けてきた少年が——十分で出発準備を終わらせると言っている。
ミラは——杖を握り直した。言いたいことはあった。「少し休んでからにしない?」と。「六日間歩き通して、そのまま突入するの?」と。でも——アルトの目を見たら、言えなかった。あの目は——休む気がない目だった。休むという選択肢が、頭の中に存在していない目だった。
ユートも——黙った。
正しいのだ。アルトの判断は正しい。バルの時間は限られている。リアラは囚われたままだ。城内では制御法の持続時間にも制限がある。速く動くのは——正しい。合理的だ。
だが——合理的であることと、正しいことは、同じではない。合理的な判断を、限界を超えた体で下し続けることが——本当に正しいのか。ユートにはわかっている。自分もかつて同じことをした。正しさだけで走り続けて、体が壊れる寸前まで気づかなかった。
だが——今、それを言う言葉が見つからない。
「行きましょう」
アルトが立ち上がった。ノートを閉じて、バルを背負い直して。
六日間で最も——硬い声だった。
* * *
城の正門は——口だった。
比喩ではなかった。崩れた門の両側に伸びた魔力結晶が、上下の歯列のように空間を挟んでいる。門の奥は暗く、赤い光が奥から微かに脈打っている。吐息のように。
足を踏み入れた瞬間——空気が変わった。
外とは段違いだった。魔力の密度が跳ね上がる。ミラが制御法を即座にフル展開した。パーティ全体を覆う安定場が薄く広がり、環境の乱れを補正する。——それでも、肌がぴりぴりした。
「この密度……三十発の安定場でも、完全には打ち消せない。——七割程度の補正が限界よ」
「七割あれば動けます。行きましょう」
アルトが先に歩き出した。
城の内部は——迷宮だった。廊下が途中で折れ曲がり、壁が生きたように動いている。さっきまで通路だった場所が、戻ると行き止まりに変わっている。城が——構造を変えている。
「バル。方角」
『上だ。——リアラは上にいる。だが階段がどこにあるかまではわかんねぇ。この城——内部がおかしい。設計なんかねぇ。魔力が勝手に作り変えてやがる』
「わかった。上を目指す。階段を見つけたら最優先で上がる」
アルトの判断は——迷いがなかった。情報が足りなくても、即座に方針を決める。「わからないことがある」という不確実性を、「考えている時間はない」で上書きしていた。
ユートが前を歩いていた。剣の柄に手を置き、いつでも抜けるようにしている。銀色の光が微かに脈動している。再鍛造された剣が——この城の魔力に反応している。敵意ではなく——かつてここに封じられていた何かの、残り香を感じているのかもしれない。
最初の遭遇は——三つ目の角を曲がった直後だった。
壁から——剥がれるように、何かが飛び出してきた。
魔物ではなかった。形を持っていなかった。魔力の塊が人型のようなものを形成し、赤い光を帯びて、通路を塞いでいる。——城の守護体。壁や床を構成する魔力結晶が、侵入者を排除するために自律的に形を取ったものだ。
ユートが抜いた。
一太刀。銀色の斬撃が守護体を両断し、魔力の粒子が散った。再形成しようとする残骸を、追撃の一振りで粉砕する。——六割の出力で十分だった。
「弱い。——だが数が多いかもしれない」
「構わない。弱いなら止まる理由はありません。突破してください」
アルトの指示。ユートへの信頼——ではなく、ユートの戦力を計算式に組み込んでいる。「弱い敵に止まるな。倒して進め」——それは正しい。正しいが——ユートの意見を聞いていない。
二体目。三体目。通路を進むたびに、壁から守護体が剥がれてくる。ユートが斬り、ミラの制御法が補正し、アルトがバルの共鳴で方角を確認する。連携は——成立していた。機能としては、完璧に近かった。
だが——チームの温度が、ずれていた。
アルトだけが速い。アルトだけが先を急いでいる。ユートとミラは状況を見ながら動いているが、アルトは状況を見る前に次の判断を下している。ユートが守護体を斬り終わる前に、「次の角を左」と指示が出る。ミラが制御法の補正を確認する前に、「そのまま前進」と声がかかる。
五体目の守護体を斬った直後——ユートが足を止めた。
「アルト」
「なんですか」
「少し——ペースを落とそう。守護体の出現パターンを見てからの方が——」
「パターンを分析してる時間はないです。ミラさんの制御法は六時間。もう一時間が過ぎた。このペースでも上層まで——ぎりぎりです」
アルトの目は——ユートを見ていなかった。ノートを見ていた。ルートの推測を確認していた。ユートの提案を——秤にかけてすらいなかった。もう答えが出ている、という顔だった。
ユートは——拳を握った。そして、開いた。
「……わかった」
ミラが——横で、唇を噛んでいた。
* * *
中層に入った。
城の構造がさらに不安定になった。床が傾いている区画がある。天井が低くなり、圧迫感が増す区間がある。壁の脈動が強くなり、赤い光が視界を染める。
守護体の密度も上がった。壁だけでなく、床からも、天井からも出てくる。サイズも大きくなっている。人の背丈ほどある魔力の塊が、通路を塞ぐように立ちはだかる。
ユートが——初めて、七割出力で斬った。
中層の守護体は六割では斬りきれなかった。硬い。密度が違う。七割の斬撃が守護体の胴を抉り、追撃で砕く。——それでも、再形成のスピードが速い。二体同時に現れた時は、ユートが一体を引きつけ、ミラが火球で残りを撃ち落とした。
「ユートさん、大丈夫ですか」
「ああ。——まだいける」
「ミラさんは」
「制御法は安定してる。——でもアルト、少し——」
「わかってます。急ぎましょう」
ミラの言葉を——遮った。
遮ったことに、アルト自身は気づいていなかった。ミラが何を言おうとしていたのかも——聞いていなかった。「少し」の先にある言葉が「休もう」でも「ペースを落とそう」でも、アルトの答えは同じだった。「急ぎましょう」。
バルが——背中で、アルトの心拍を聴いていた。
速い。城に入ってからさらに速くなっている。リアラが近い。共鳴が強くなっている。近づいている実感が——アルトの焦りを加速させている。
『ノロマ』
「ん?」
『……上のことだがよ。守護体の密度がこの調子で上がっていくなら——上層はもっとヤバい。一回、体制を整えてから——』
「大丈夫です。ユートさんなら七割で十分斬れてる。ミラさんの制御法もまだ余裕がある。このまま行けます」
『お前の話をしてんだよ』
バルの声が——少しだけ、強くなった。
アルトは——一瞬、足を止めかけた。だが——止めなかった。
「僕は大丈夫です。——行きましょう」
背中で、バルは目を閉じた。
——こいつは、もう聞いてねぇ。
* * *
通路の先に——大きな空間が開けた。
中層と上層の境界。吹き抜けのような広間が広がっていた。天井が高く、赤い光が渦を巻いている。壁という壁が魔力結晶で覆われ、脈動が目に見えるほど強い。
広間の奥に——上層への階段が見えた。巨大な螺旋階段。壁に沿ってうねるように上へ伸びている。
そして——階段の手前に。
今までの守護体とは——桁違いのものが、立っていた。
三体。
どれも人の倍ほどの大きさがある。魔力結晶が鎧のように全身を覆い、手のように伸びた結晶の腕が、赤い光を帯びて揺れている。目に相当する部分に——赤い光が灯っている。意志があるように。
城の中核を守る番人だ。
「……デカいな」
ユートが剣を構えた。銀色の光が強く脈動する。——七割では足りないかもしれない。
「三体同時は——まずいわね」
ミラが杖を握り直した。
アルトが——ノートをしまった。ここから先は、計画通りにはいかない。
「ユートさん、右の一体をお願いします。ミラさん、左を牽制。——真ん中は僕が止めます」
「アルト——」
「バルの防壁で時間を稼ぎます。その間にユートさんが右を倒して、真ん中に合流。——行きましょう」
待たなかった。
アルトが——走り出した。真ん中の守護体に向かって。バルの魔力を引き出し、防壁を展開する。守護体の結晶の腕が振り下ろされ——防壁が軋んだ。衝撃が腕に伝わる。重い。今までの守護体とは比べものにならない。
「——っ!」
アルトの足が後ろに滑った。だが——崩れなかった。歯を食いしばって、防壁を維持する。バルの魔力が激しく消耗する。漏出が加速する瞬間的な負荷。
ユートが右の守護体に斬りかかった。八割出力。銀色の斬撃が結晶の腕を断ち切り、追撃で胴を抉る。——硬い。下層の守護体とは比較にならない。だが——斬れる。
ミラが左の守護体に牽制射を連射した。制御法を維持しながらの攻撃魔法。精度は高いが——環境の乱れから安定場を外れた瞬間、魔法が歪む。修正。再射。——体力と集中力を同時に削られる。
連携は——機能していた。アルトが中央を抑え、ユートが右を処理し、ミラが左を牽制する。理にかなっている。——だが。
アルトが「抑えている」のではなく、「体で受け止めている」ことに——ユートは気づいていた。
防壁は維持している。崩れてはいない。だが——アルトの体が限界なのだ。六日間の消耗。睡眠不足。栄養不足。その体で守護体の打撃を防壁越しに受け止めている。一撃ごとに、体が軋んでいる。
ユートは——右の守護体を、速く倒さなければならないと悟った。
九割。
銀色の閃光が——守護体を、一撃で砕いた。
残骸が散る前にユートは駆け出し、中央の守護体の背後に回った。斬撃。八割。背中の結晶を断ち割り、続けて胴を薙ぐ。守護体が崩れる。
ミラが左の守護体に集中砲火を浴びせた。制御法の精度を瞬間的に上げ、三発の連射が同時に命中する。守護体が体勢を崩し——ユートが駆け寄り、止めを刺した。
広間が静かになった。
赤い光の中に、三体分の魔力結晶の残骸が散らばっている。
アルトが——膝をついた。
「アルト!」
「——大丈夫です」
すぐに立ち上がった。膝が震えていたが——立ち上がった。
「上層への階段が開きました。——行きましょう」
ユートが——アルトの腕を掴んだ。
「待て」
「——ユートさん。時間がないんです」
「五分だけ。——五分だけ休もう。水を飲んで、呼吸を整えるだけでいい」
アルトは——ユートの目を見た。ユートの目は、真っ直ぐだった。エイルの影はない。ユート自身の目で——アルトを見ていた。
「……三分」
「五分」
「……わかりました」
アルトは——壁に背を預けた。水袋を受け取り、一口だけ飲んだ。ユートが「もう一口」と言う前に、水袋を返そうとした。
ミラが——黙って、水袋を戻した。アルトの手に。
「全部飲みなさい。——命令よ」
アルトは——少しだけ間を置いて、もう一口飲んだ。
五分が過ぎた。
アルトは——立ち上がった。
「行きましょう」
上層への螺旋階段を見上げた。赤い光が、上から降り注いでいた。リアラの方角。バルの共鳴が——最も強く響く方角。
城が——脈打っていた。アルトたちを迎え入れるように。あるいは——飲み込もうとするように。




