第105話:大丈夫だから
赤い光が——揺れていた。
壁も、天井も、床も、赤黒い脈動に染まっている。石造りの城ではない。かつては石だったのだろうが、今はその表面を魔力の結晶が覆い尽くし、まるで内臓のような質感で脈打っている。——生きている城。呼吸している城。世界の魔力が最も濃く集まるこの場所は、もはや建造物ではなく、一つの生き物のように変質していた。
その奥。廊下とも通路ともつかない空間を抜けた先に——部屋があった。
広い。天井が高い。だが窓はなく、光源は壁と床を這う魔力の脈動だけだ。赤黒い光が部屋全体をぼんやりと照らし、影が不規則に揺れている。
部屋の中央に——玉座があった。
黒い石でできた、巨大な玉座。だがその表面にも魔力結晶が侵食し、赤い筋が浮かんでいる。まるで血管のように。そこに——座っている。
ルーナ。
小柄な体。長い髪が玉座の左右に垂れ下がっている。目は半ば閉じられ、表情はない。——正確には、表情が読めなかった。怒っているようにも、悲しんでいるようにも、何も感じていないようにも見える。顔の上を、赤い光が不規則に走っている。魔王の力が——常に漏れ出ている。城全体を震わせる魔力の源が、この少女の中にある。
呼吸をしている。だが——それが生者の呼吸なのか、魔力が変換されて動いているだけなのか。見ただけではわからない。ルーナの周りの空気は歪んでいる。近づくだけで、肌が焼けそうな圧力がある。
そして——玉座の足元から、十歩ほど離れた場所に。
リアラは、いた。
* * *
最初から、ずっとここにいたわけではない。
連れてこられた時——リアラが通されたのは、城の中層にある小さな部屋だった。窓はないが、石の寝台に薄い毛布が置かれ、水差しと硬いパンが用意されていた。牢ではなかった。鍵はかかっていなかった。——ただ、扉の外に気配があった。何かが見張っている。足音はないのに、存在を感じる。廊下に出ようとすると、空気が重くなる。「出るな」と言われているのだと、体でわかった。
恐ろしかった。
当然だ。十六歳の少女が、見知らぬ城に連れてこられて、恐ろしくないわけがない。壁は脈打っているし、空気は重いし、窓の外がどうなっているのかもわからない。世界がどうなったのかも。アルトたちが無事なのかも。
だが——リアラは、泣かなかった。
泣きたくなかったわけではない。泣いてもいい場面だった。泣いた方が楽だったかもしれない。でも——泣いたら、その瞬間に「怖い」が全部になってしまう気がした。怖さが体を支配したら——もう動けなくなる。考えることも、観察することも、待つことも、できなくなる。
だから泣かなかった。怖さは飲み込んだ。喉の奥に押し込んで、代わりに——考えた。
ここはどこだろう。
なぜ連れてこられたのだろう。
あの人——王座にいた少女は、誰だろう。
そして。
——私に、何かできることはあるだろうか。
* * *
最初の数日は——何も起きなかった。
水と食事は定期的に届いた。扉の前に置かれている。誰かが運んでいるのだろうが、運ぶ瞬間を見たことはない。気づくと——ある。不気味だったが、食べなければ死ぬ。リアラは食べた。残さず。水も飲んだ。体を保つために。
部屋の中でできることは少なかった。石の壁を触ってみた。温かい。生きている温かさだ。魔力の脈動が——リアラの手に触れると、微かに反応した。妖精の血が反応しているのだと、なんとなくわかった。自分が何者なのか、まだ完全には理解できていない。でも——この城が、自分の中の何かに反応していることだけは、感じていた。
四日目の夜——扉が、開いた。
見張りではなかった。空気が変わった。圧力が増した。リアラは寝台の上で体を起こし、暗い扉の向こうを見た。
ルーナが——立っていた。
半開きの目。無表情。だが——扉の前で、止まっていた。入ってこない。入ろうとして——止まっている。リアラを見ている。見るというより——探している。何かを探すように、目が動いた。
リアラは——息を止めた。恐怖が体を貫いた。この存在が——自分を連れてきたのだ。あの時の、圧倒的な魔力の奔流。抗えなかった。何も出来なかった。
だが。
ルーナの目は——リアラを傷つけようとする目ではなかった。
傷つける目なら、もう動いている。この距離で、この魔力なら、リアラを消すことは一瞬でできる。でも——しない。扉の前で立ち止まって、リアラを見て——迷っている。
何を迷っているのか。
リアラには——わかった気がした。
辺境の村で、傷ついた動物を保護したことがある。森で倒れていた鹿の子を抱え上げて、小屋に連れ帰った時。あの時も——同じだった。子鹿はリアラを見ていた。怯えていたけれど、逃げなかった。リアラの手の温度を感じて——迷っていた。
今、ルーナの目が——あの子鹿に似ている。
怖いのは、むしろルーナの方なのかもしれない。
リアラは——口を開いた。声が震えていた。それでも。
「……大丈夫だよ」
ルーナが——微かに、動いた。瞳が、リアラに焦点を結んだ。
「——私は、逃げないから。大丈夫だから」
ルーナは——何も言わなかった。しばらくリアラを見つめたあと、踵を返して、廊下の闇に消えた。
足音はなかった。
リアラは——震える手で、毛布を握りしめた。心臓がうるさかった。でも——泣かなかった。
あの目は——怖い目じゃなかった。
* * *
それから——ルーナは、時々来るようになった。
毎日ではない。三日に一度。五日に一度。規則性はなかった。来る時間帯もばらばらだった。深夜のこともあれば、昼間のこともある。
ルーナは——いつも扉の前に立つだけだった。部屋には入らない。リアラを見て、しばらく止まって、帰っていく。
最初は何も話さなかった。リアラが「大丈夫だよ」と声をかけても、ルーナは無表情のまま去っていった。
でも——変化はあった。
五回目か、六回目の訪問の時。ルーナが——部屋に、一歩だけ入った。
リアラは寝台に座ったまま動かなかった。怖くないと言えば嘘になる。でも——逃げたら、この細い糸が切れる気がした。
「……こんばんは」
ルーナが、口を開いた。
声は——掠れていた。喉が錆びたように、音が割れている。言葉を話すことに慣れていない声だった。——長い間、誰とも話していなかったのかもしれない。
「こんばんは」
リアラが返した。普通に。飾らず。
沈黙が落ちた。
ルーナは——リアラの顔を見ていた。目が動いている。何かを探している。リアラの中に——何かを探している。
「……あなた……誰かに……似て……」
ルーナの声が途切れた。目が——一瞬だけ、揺らいだ。赤黒い光に覆われた瞳の奥で——別の色が、ちらついた。
リアラには、それが何色だったのかわからなかった。一瞬だったから。でも——赤ではなかった。もっと——柔らかい色だった。
「似てる人がいたんだね」
リアラが言った。静かに。
ルーナの体が——微かに震えた。指先が開いて、閉じて。何かを掴もうとして、掴めなかったように。
「……名前が……思い出せない……」
声は——もう聞き取れないほど小さかった。
ルーナは——また、去っていった。
リアラは——その背中を見送りながら、胸の奥が軋むのを感じた。
あの人は——怪物じゃない。
怪物の皮を被せられた——誰かだ。
* * *
日が経つにつれて、リアラは少しずつわかってきた。
この城の中心にいるルーナは——二つの意志に引き裂かれている。
魔王としての力。ディアルの憎しみが混入した暴力的な衝動。世界を壊そうとするもの。それが——ルーナの体を動かしている。城を維持し、魔力嵐を生み出し、外の世界を乱し続けている。
だがその奥に——もう一人いる。
名前を思い出せない少女。誰かに似たリアラの気配を、怖がりながら求めてくる少女。話し方を忘れかけていて、涙の流し方も忘れていて——それでも、夜中に一人で来る少女。
二つの意志は——交互ではなかった。重なっていた。暴力と脆さが、同じ体の中で同時に存在している。ルーナが来る時——その比率は微かに変わる。リアラの前では、奥の方が少しだけ前に出てくる。ほんの少しだけ。
リアラは——毎回、同じことを言った。
「大丈夫だよ」
「私はここにいるから」
「逃げないから」
言い続けた。ルーナが聞いていなくても。返事がなくても。扉の前に立ったまま去っていっても。
その言葉が——意味を持つかどうかはわからなかった。でも、言い続けることが——リアラにとっても必要だった。怖さの中で正気を保つために。この場所で、何もできない自分を許すために。「私は大丈夫」と——自分にも言い聞かせるために。
* * *
そして——ある夜。
ルーナが来た時——初めて、涙が流れた。
ルーナの頬を。赤黒い光の中を。一筋だけ——透明な涙が、伝っていった。
「……ごめん……なさい……」
ルーナが——言った。
「……連れて……きて、しまった……帰して……あげたいのに……」
声が割れていた。言葉が途切れ途切れだった。涙を流していることに、ルーナ自身が驚いているようだった。涙の流し方を——忘れていたから。
「……あの人に……似た気配が……して……手放せ……なかった……」
リアラは——立ち上がった。ゆっくりと。怖くなかった。嘘じゃない——本当に、怖くなかった。目の前にいるのは、泣いている女の子だった。
「大丈夫だから」
リアラは——ルーナの手を取った。
触れた瞬間——魔力が体を駆け抜けた。妖精の血が反応した。瞳がエメラルドに変わった。ルーナの中の荒れ狂う魔力が——一瞬だけ、静まった。波打っていた赤黒い光が、リアラの手が触れた場所から——澄んでいった。
ルーナの目が——大きく開いた。
「……温かい……」
リアラの手を見ていた。自分の手を握っている、小さな手を。
「大丈夫。——私がいるから」
リアラの声は、震えていなかった。
ルーナは——リアラの手を握り返そうとした。指が動いた。だが——途中で、体が硬直した。赤黒い光が再び強まった。ルーナの目から、さっきの柔らかい色が消えていく。引き戻されるように。奥に押し込まれるように。
ルーナは——手を振り払った。
リアラの手を。
振り払って——後ずさった。目が——また、無表情に戻っていた。赤黒い光が全身を覆い直していた。
何も言わず——去っていった。
リアラは——振り払われた手を見つめていた。痛くはなかった。——でも、胸が痛かった。
届きかけた。
確かに——届きかけたのだ。あの一瞬。ルーナの中の、奥にいる少女に。
* * *
その翌日——状況が変わった。
別の誰かが来た。
ルーナではない。もっと——落ち着いた足音。扉が開いた時、入ってきたのは——背の高い、静かな人物だった。魔族。それはすぐにわかった。だが——ディアルとは違う。もっと冷たくて、もっと静かで、もっと——底が見えない。
「失礼。——少しお時間をいただいてよろしいでしょうか」
丁寧な言葉。静かな声。だが——温度がなかった。水が凍る直前の、冷えた穏やかさ。
リアラは——直感的に、この人物が危険だと感じた。ルーナとは違う種類の危険。ルーナの危険さは暴風のようなものだった。力が溢れて制御できない危うさ。この人物の危険さは——もっと計算された、もっと意図的なものだった。
「あなたの力は——とても興味深い。ルーナ様の傍にいると、あの方の波が少し落ち着く。妖精の血族の共鳴なのでしょうね」
リアラは答えなかった。
「これからは——もう少し、ルーナ様のお近くにいていただこうかと思います。あなたの力が——お役に立てるかもしれない」
それは要請ではなかった。決定だった。
その日のうちに——リアラは部屋を移された。
玉座のある広間の、隅の方。鎖はなかった。魔法陣もなかった。——まだ。ただ、玉座の近く。ルーナの近く。リアラがいるだけで、ルーナの魔力の波が微かに安定するから。
それが——リアラの新しい役割だった。
怖かった。玉座の部屋の空気は、小さな部屋の比ではなかった。魔力の圧力が常にかかっている。呼吸するだけで消耗する。体が重い。頭がぼんやりする。
でも——リアラは、ルーナの傍にいることを、嫌ではなかった。
ここにいれば——ルーナに声をかけ続けられる。
「大丈夫だから」
玉座に座るルーナの耳に——届くかどうかはわからない。魔王の力に覆われた意識に、リアラの声なんか届かないのかもしれない。
でも、あの夜——確かに涙を流した。名前を思い出したがっていた。帰してあげたいと言った。
あの言葉は、嘘じゃない。
だから——リアラは、声をかけ続ける。
「大丈夫だから。——あなたはまだ、ここにいる」
ルーナの指先が——微かに動いた。
気のせいかもしれない。魔力の脈動による無意識の痙攣かもしれない。
でもリアラは——気のせいだとは、思わなかった。
* * *
赤い光の中で。
二人の少女がいた。
一人は玉座に座り、世界を壊す力に呑まれながら。
一人はその足元で、声をかけ続けながら。
どちらも——大丈夫じゃなかった。
どちらも——「大丈夫」と言い続けていた。
遠い場所で——別の少年も、「大丈夫です」と言い続けていることを、リアラはまだ知らない。




