第104話:大丈夫です
三日目の朝。
アルトは誰よりも先に起きていた。昨夜の見張りを終えてから二時間ほど横になったはずだが——目の下の隈が消えていなかった。ミラの制御法で周囲を安定させた岩陰の中、保存食を分配し、水の残量を確認し、今日の行程をノートに書き出している。ペンの動きに迷いはない。正確。効率的。——そして、機械的だった。
「ここまでの消費量だと、水はあと五日分。保存食は六日。バルの共鳴の方角に変化はないから、目的地まで残り四日。——余裕はある。大丈夫です」
誰に向けた言葉なのかわからなかった。ミラはまだ目を覚ましたばかりで、ユートは外で軽い素振りをしている。バルは岩壁に立て掛けられて、黙っていた。——アルトは、自分に言い聞かせていた。
* * *
三日目の道中は、魔力嵐の外縁を縫うように進んだ。
荒れた大地が続いていた。かつては草原だったのだろう——地面に枯れた根の跡が残っている。だが今は灰色の土が剥き出しになり、魔力の残留物が地表に結晶化して、赤黒い破片が散らばっている。踏むと粘土のような感触。空は一日中赤黒く、太陽の光が顔色を悪く照らす。澱んだ空気の中で、血の色だけが鮮明だった。
ミラの制御法が威力を発揮していた。環境の乱れを感知し、補正し、パーティ全体を覆うように安定場を維持する。歩きながらの並列処理は消耗が激しいが——ミラは三十発安定を達成した時の持久力で、歩行中でも維持できるようになっていた。ただ、顔には疲労が見える。十時間近い歩行を続けながらの並列処理は、何もしないより体力を三割多く削る。ミラはそれを言わない。アルトが「じゃあ休みましょう」と言う機会を待っていたが——その言葉は、来なかった。
ユートは後方警戒を担当した。再鍛造された剣の柄に手を置いたまま歩く。銀色の光が微かに脈動している。いつでも抜ける。この三日間で二度、暴走した魔物に遭遇した。どちらもユートが斬って終わりだったが——出力は六割で十分だった。むしろ問題は、アルトが自分で処理しようとすることだった。
二度目の魔物の時——アルトが先に前に出た。
バルの共鳴で接近を察知し、反射的に体が動いていた。ユートが「俺がやる」と言う前に、アルトは魔物の前に立ちはだかっていた。バルの魔力を引き出し、防壁を張り——ユートが後ろから斬って終わらせた。
結果的には連携だった。だが順序がおかしかった。索敵と防壁はアルトの仕事。斬るのはユートの仕事。それは正しい。だが——アルトが「先に出る」必要はなかった。ユートの反応速度なら、アルトが防壁を張る前に斬れた。アルトは——ユートを信じていないのではない。ユートが動くより先に、自分が動いてしまうのだ。待てない。待てば間に合わないかもしれない。その「かもしれない」が——アルトの体を先に動かしていた。
「アルト」
二度目の戦闘の後、ユートが声をかけた。
「ん?」
「さっきの。——俺に任せてくれてよかった」
「いえ、ユートさんが斬ってくれたから大丈夫でした。連携、うまくいきましたよね」
笑顔。完璧な笑顔。
ユートは——その笑顔の奥を見ようとした。自分にも覚えがある。かつての自分——エイルの模倣をしていた頃。無理をしていることに気づいていなかった。正しいことをしているつもりだった。仲間のためだと思っていた。だから止まれなかった。
今のアルトは——あの頃の自分に、似ている。
恐ろしいほど。
だが——一つだけ違うものがある。ユートは「エイルの代わり」という嘘で自分を強く見せていた。アルトは——正直な「強くなりたい」で自分を削っている。嘘じゃない分、たちが悪い。止める口実がない。「お前のそれは嘘だ」と言えればまだ止まるかもしれない。だが「お前のそれは正しいが、やりすぎだ」とは——言えるのか。正しいことを止める権利が、誰にある?
「アルト。——少し休まないか。ここ、風が避けられる」
「大丈夫です。まだ歩ける距離があります。日が落ちる前にあの稜線まで行ければ、明日の行程がかなり楽になりますから」
「でも——」
「大丈夫です」
二度目の「大丈夫です」は、最初より少しだけ硬かった。声の温度が一段下がっていた。アルト自身は気づいていない。だがユートには——はっきりと聞こえた。
ミラが横を歩きながら、ユートに視線を送った。「気づいている」という目。だが——今ここで止めても、アルトは笑って「大丈夫です」と言うだけだ。
* * *
日が傾き始めた頃——アルトが、初めて足を止めた。
足を止めたのは休むためではなかった。地図を確認するためだった。ノートを開き、バルに共鳴の方角を確認し、現在地と照合する。——だが、ノートを開いた手が、微かに震えていた。
食事をまともに取っていないせいだ。今朝の保存食も半分残していた。水は飲んでいるが——量が少ない。体が求める量を、頭が抑え込んでいる。「もう少し。もう少し先まで行ってから。もう少し近づいてから」——全部が「もう少し」で後回しにされていた。
「アルト」
ミラが近づいてきた。水袋を差し出す。
「飲みなさい。顔色が悪いわ」
「大丈夫です。さっき飲みました」
「さっきって——三時間前でしょ。外の空気は乾いてるんだから、もっと飲まないとダメよ」
アルトは——少しだけ間を置いて、水袋を受け取った。一口だけ飲んだ。ミラは「もっと」と言いたかったが——アルトの目を見て、止めた。言えなかった。あの目は——聞く余裕のない目だった。
ユートが——遠くから見ていた。
かつての自分を。
かつての自分。エイルの影を背負い、仲間のために戦い、自分を削り続けた自分。「大丈夫だ」と言い続けた自分。周りが心配しても——笑って受け流した自分。あの時、誰かが強引に止めてくれていたら——もっと早く戻れたかもしれない。
でも——止め方がわからない。
アルトの行動は正しいのだ。判断も正しい。焦りも——理由がある。リアラが囚われていて、バルの時間は限られていて、ルーナは苦しんでいる。急ぐのは正しい。「止まれ」と言う方が、むしろ無責任に聞こえてしまう。
だからこそ——止められない。
正しさの中で壊れていく人を、止める方法を——ユートはまだ知らなかった。
* * *
その夜。
稜線の手前の窪地に野営した。アルトの計算通り、日没ぎりぎりで辿り着けた。計画通りだ。明日の行程は楽になる。——全部、正しかった。
ミラが保存食を配った。干し肉と硬いパン。妖精の里で長老が持たせてくれたものだ。味は悪くないが、そのままでは硬くて食べづらい。ユートは水でふやかしながら黙々と食べた。ミラも同じように。アルトは受け取って——三分の一だけ食べた。残りは「明日の分に回します」と言った。嘘ではないだろう。本当に明日の分に回すつもりなのだろう。だが——今日の分が足りていない。あの体で、あの運動量で、たったあれだけ。
ミラが——口を開きかけて、閉じた。「もっと食べなさい」と言えばいいのに。たったそれだけのことが——言えなかった。昨日の水袋の時もそうだった。アルトの目は、「聞く余裕のない目」なのだ。心配の言葉を受け止めるスペースが、内側にない。全部、「急がなきゃ」で埋まっている。
「見張りは——」
「僕がやります」
アルトが言った。ユートより先に。ミラより先に。
「昨日、前半はユートさんにやってもらいましたから。今日は僕が前半やります」
論理的。公平。正しい。——正しいのに。
ユートは——何も言わなかった。言えなかった。昨夜は「前半は俺がやる」と押し通せた。今夜は——アルトの方が先に動いた。そして、アルトの論理は正しい。交代制なら、今日はアルトが前半をやるのが筋だ。
岩の上に座ったアルトの背中を、ユートは暗闇の中で見つめていた。小さな背中。細い肩。荷物を背負い、バルを抱えて、全部を一人で持とうとしている背中。——かつての自分の背中に、あんなに似ている。
バルが——微かに震えた。
アルトの心拍を聴いている。速い。ずっと速い。眠っている時も、起きている時も、速い。体が倒れるまで止まらないつもりだ。いや——止まるつもりがないのではなく、止まり方を忘れている。止まれば間に合わないと、心臓が信じてしまっている。
『……ノロマ』
バルの声は、ほとんど聞こえないほど小さかった。
「ん?」
『……何でもねぇ。——見張り、任せた』
「うん。任せて」
笑顔。暗闇の中でも、笑顔が見えた。
バルは——目を閉じた。目があれば、だが。布地の奥で。感覚を閉じた。
アルトの笑顔を見ていると——自分の中の何かが、きしむ音がする。




