表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『ノロマ、死ぬなよ』〜毒舌カバンと最弱少年の英雄譚〜  作者: 塩とわかめ
第三章:壊れた空と、取り戻すための戦い
111/129

第103話:見つかった場所

 翌朝。


 アルトは夜が明ける前から動いていた。ノートを広げ、バルから聞いた共鳴の方角と強度を整理し、長老の地図と照合している。ペンの動きは正確で速い。寝ていない目で。眠る時間を惜しんで。


 昨夜のバルの共鳴——あれほど強い反応は初めてだった。方角は北東。山脈を越えた先。距離は徒歩で六日から八日。そして、その先にある場所は——


 * * *


 朝。一行は鍛冶場を後にした。


 ケイスは洞窟の入口で、一度だけ振り返った。三百年待って、やっと会えた炉。もう二度と、渡って来られないかもしれない場所。——だが、その横顔に悔いは見えなかった。炉は使われた。剣は打たれた。鍛冶師の仕事は、果たされた。


 岩棚に出ると、渓谷の唸りが体を包んだ。行きと同じ、不規則な魔力の突風。底の見えない闇。幅一歩半の石の道。——何も、変わっていない。

 変わったのは、こちら側だ。


「先頭、行くわよ」


 ミラが杖を構えて、道の入口に立った。行きは最後尾から三秒先の予測を叫ぶだけで精一杯だった。今は——歩きながら、制御法を維持できる。環境の乱れを読み、予測し、自分たちの周囲の魔力を補正し続ける。完全な無効化ではない。だが——風の「形」が、見える。


「右から来る。五秒後。——アルト、バルを右に。角度は浅くていい」


 声に、切迫がなかった。アルトがバルを右に広げる。突風がバルの表面で削がれ、残った衝撃は——ユートが前に出した剣の光が、静かに裂いた。安定した銀色の光。風の先端が刃に触れた瞬間、二つに割れて左右へ抜けていく。


「……嘘でしょ。風を斬るって何よ」


「斬ってない。——流してるだけだ」


 一歩。また一歩。行きは一歩ごとに命を削った三十歩を——今は、確かな足取りで進んでいく。楽ではない。風は変わらず牙を剥くし、ミラの額には汗が浮かび、ユートの呼吸も上がっていく。だが——誰も、死の淵を歩いていなかった。


 中ほどで——大きいのが来た。行きの最後に全員を襲った、あの桁違いの魔力の壁。


「正面! 十秒後! ——全員、止まって。やり過ごすわよ」


 ミラが杖を石の道に突き、制御法を最大展開した。ユートが剣を正面に構え、アルトがバルを全員の前に広げる。ケイスは道具袋を抱えて低く伏せた。

 魔力の壁が——三つの層に受け止められ、割れて、左右の闇へ抜けていった。

 誰も、一歩も下がらなかった。


 渡り切った時、ミラが石段の最初の段に手をついて、長く息を吐いた。


「……行きは、あれで死にかけたのよね。私たち」


「ああ。——ひと月も経ってないのにな」


 ユートが渓谷を振り返った。妖精族でさえ渡れない、嵐の道。それを——二度。立て直しは、言葉ではなく、この三十歩が証明していた。


 * * *


「長老。——お願いがあります」


 石段を上がり、集落に戻った一行を、長老は驚きもせず迎えた。まるで、今日戻ることを知っていたかのように。アルトは挨拶もそこそこに切り出した。


「昨夜、バルの共鳴でリアラの位置がはっきりしました。北東——山脈の向こう側です」


「……魔王の城跡か」


 長老の声が低くなった。


「あの場所は——世界の魔力が最も濃く集まる地点だ。ルーナが封印された場所であり、世界の乱れの中心でもある。魔力嵐が最も激しい区域を通らなければ辿り着けない」


「わかっています。でも——行かなければならない」


「ああ。それは——わかっている」


 長老がゆっくりと立ち上がった。長く生きた体が、微かに軋む音がした。


「だが、一つだけ確認させてほしい。——バルの共鳴の先にある場所は、バルにとっても危険な場所だ。魔王の核が封じられていた場所。残滓が最も濃い場所。バルの中の漏出が——加速する可能性が高い」


 アルトの手が——一瞬だけ、止まった。


「……わかっています」


「わかっているなら、いい。——急ぐ理由が二つあるということだ。リアラの安全と、バルの時間。どちらも待ってくれない」


 二重の時間制限。リアラは囚われたまま——向こうで何が起きているのか、知る術もない。バルは器が崩壊し続けている。どちらも——時間が敵だ。


 アルトは頷いた。迷いなく。速く。——速すぎるくらい速く。


 * * *


 出発準備は、アルトが全て仕切った。


 物資の確認。水と保存食の配分。ミラの杖の魔力充填。ユートの剣の状態確認。バルの漏出速度の記録。結界外のルート候補の選定。魔力嵐の密度予測。——全部を一人でまとめ、全部を一人で指示した。


「ミラさん。水袋はあと二つ余裕があります。保存食は八日分ありますが、念のため十日分に増やしてください。長老に追加を頼みます」


「ユートさん。ルートは北東の谷を抜けるのが最短ですが、魔力嵐の密度が高い区間があります。迂回すると二日余計にかかります。最短で行きましょう」


「バル。共鳴の方角を、出発後も定期的に確認してくれ。二時間おきに」


 指示は的確だった。論理的で、効率的で、抜けがない。ミラもユートも異論は出なかった——出せなかった。アルトの判断は正しいのだ。速いが、正しい。最短ルートを選ぶのも、物資を多めに確保するのも、合理的だ。


 だが——ミラは、少しだけ気づいていた。


 アルトが「相談」をしていない。「報告」と「指示」しかしていない。いつもは「どう思いますか」と聞くアルトが、今日は全部自分で決めている。時間がないから——と言えば、それまでだ。だが。


 ミラはユートと目を合わせた。ユートも——同じことを感じていた。だが、ここで止める理由がない。アルトの判断は正しい。正しい判断を、正しいタイミングで、正しい速度で下している。問題があるとすれば——その「正しさ」の裏にある、止まれない焦りだけだ。


 バルは——黙っていた。昨夜言いかけて言えなかった言葉が、まだ喉に残っている。


 * * *


 夕方。準備の合間に——ユートは、白い花の咲く石畳の上で、小さな人影に捕まっていた。


「お兄ちゃん!」


 フィーナが全速力で走ってきて、ユートの脚に抱きついた。それから——腰の剣に目を留めて、目を丸くした。


「剣、直ってる! ……光ってる。前と、ちがう色」


「ああ。——直してもらった。半分は、俺の色になった」


「ふうん。……また行っちゃうの?」


 フィーナの声が、少しだけ小さくなった。子供は、大人の旅支度の匂いに敏感だ。


「ああ。——でも、約束しただろ。帰ってきたら、また教えるって。ほら」


 ユートはその場で膝を折り、フィーナの木の剣に手を添えて、新しい構えを一つだけ教えた。受けの構え。自分を守るための型。フィーナは真剣な顔で三回繰り返して——三回目に、ちゃんと形になった。


「……つぎ帰ってくるまでに、百回やっとく」


「百回か。——じゃあ次は、その先を教えるよ」


 フィーナが片耳の後ろから白い花を抜いて、背伸びをして、ユートの胸元に挿した。道案内の花。集落の石畳の隙間に咲く、あの白い花だった。


「まいごにならない、おまじない。——ぜったい、帰ってきてね」


「……ああ。約束だ」


 * * *


 翌朝。出発の時が来た。


 長老とケイスが、結界の出口まで見送りに来た。集落の他の妖精族は結界の中で待機している。外の空気は妖精族の体に厳しい——とくに若い個体には危険だ。長老とケイスだけが、老練な体力と経験で、ここまで来ることができた。


「お前たちに——渡すものがある」


 長老が小さな布袋をアルトに手渡した。中には——三つの結晶が入っていた。淡い緑色の光を放つ、透明な石。


「妖精の涙石。——結界の魔力を凝縮したものだ。一つ割れば、短い時間だが周囲に結界に近い安定場を作り出せる。魔力嵐の中で休息を取る時に使いなさい。三つしかないが——帰る場所がある限り、使い切っても構わない」


「……ありがとうございます」


 アルトが深く頭を下げた。長老は——アルトの頭を見下ろして、少しだけ黙った。


「アルト」


「はい」


「一つだけ——老いぼれの忠告を聞いてくれるかい」


「はい」


「急ぐことと、急かされることは違う。自分の足で走っているのか、何かに追いかけられて走っているのか——時々、確認しなさい。走り方を間違えると、辿り着く前に倒れてしまう」


 アルトは——笑った。穏やかに。


「大丈夫です。ちゃんと、自分の足で走ってます」


 嘘ではなかった。アルトは本当にそう思っていた。自分で判断して、自分で決めて、自分の意志で出発する。——追いかけられてなんかいない。


 だが長老は——その笑顔を見て、目を細めた。何か言おうとして——やめた。言葉では届かないことを、重ねた歳月が教えていた。


 ケイスが——無言で、一歩前に出た。ユートの前に立ち、手を差し出した。


「——剣を大事にしろ。折るなよ」


「……二度は折らない。約束する」


 ケイスが顎を引いた。それだけだった。それだけで十分だった。


 * * *


 結界を出た。


 空気が変わった。一歩踏み出した瞬間に、体が感じ取る。穏やかさが消えた。結界の中にあった安定が、薄い膜のように剥がれて——外の世界の乱れた空気が、肌に触れた。


 赤黒い空。雲が渦を巻いている。遠くの山脈の上に、魔力嵐の残光が見えた。紫と赤が混ざった、不吉な光。風が冷たい。だが冷たさの中に——魔力の熱が混じっている。肌がぴりぴりする。


 ミラが杖を構えた。制御法を展開し、環境の乱れを感知し始める。


「……想定通り。乱れのレベルは中程度。——今の私なら、歩きながらでも維持できるわ」


 ユートが剣の柄に手を置いた。淡い銀色の光が応えるように明滅した。


「行こう」


 アルトが先頭に立った。迷いなく。地図とバルの共鳴を頼りに、北東へ。


 歩き始めた。結界の光が背中で小さくなっていく。妖精の里が遠ざかる。——帰る場所がある、と長老は言った。帰る場所。その言葉が、胸の奥のどこかに引っかかったが——今は、前を見る。リアラの方へ。バルの時間が尽きる前に。全部を間に合わせるために。


 バルが——アルトの背中で、結界の外の空気を感じていた。魔力の濃度が違う。器への圧力が、一段強くなった。結界の中では漏出が緩やかだったが——外は、器を圧し潰そうとする力が強い。残り時間が——また少し、縮んだ。


 * * *


 最初の夜。


 魔力嵐の外縁を避けて、岩陰に野営した。ミラが涙石を一つ使おうとしたが、アルトが止めた。


「まだ大丈夫です。ここは嵐の端だから、涙石なしでも休めます。涙石は——もっと厳しい場所のために取っておきましょう」


 合理的な判断。正しい。ミラは頷いた。


 焚き火は焚けなかった。外の魔力が不安定で、火を使うと周囲の魔力と干渉して暴発する危険がある。暗い岩陰で、ミラの杖の光だけが微かに灯っていた。風の音が絶えず聞こえる。砂と魔力の残滓を含んだ風。妖精の里では聞かなかった音だ。世界が乱れている音。


 保存食を食べた。暗い中で、水でふやかした硬いパンと干し肉。ユートとミラは黙々と食べた。アルトは——半分だけ食べて、残りを背嚢に戻した。誰も指摘しなかった。まだ、初日だから。


 ユートが立ち上がった。


「見張りは俺がやる。——アルト、お前は寝ろ」


「大丈夫です。僕がやります」


「昨日も寝てないだろ。——目の下、すごいぞ」


「大丈夫です。慣れてますから」


 ユートは——しばらくアルトを見つめていた。昨夜のバルの言葉が頭の中にある。『あいつが笑ってる時ほど、危ないんだ』——今まさに。笑っている。穏やかに。完璧に。そして——絶対に引かない顔で。


「……わかった。じゃあ前半は俺がやる。後半にアルトが代わってくれ」


「いえ、僕が——」


「前半は、俺がやる」


 ユートの声は静かだったが、有無を言わせなかった。エイルの影を完全に手放した今のユートには——かつてのような優しい引き下がりはなかった。自分が必要だと判断したことは、譲らない。


 アルトは——少しだけ間を置いて、頷いた。


「……わかりました。後半、起こしてください」


「ああ」


 アルトは岩壁に背を預けて目を閉じた。眠れるかどうかはわからない——だが、横になることは受け入れた。


 ユートは暗い岩陰の入口に座り、外を見張り始めた。赤黒い空の下で、風が砂を巻き上げている。遠くで魔力嵐の光がちらついている。


 バルは——アルトの隣に置かれていた。


 アルトの呼吸を聴いている。


 浅い。まだ浅い。目を閉じているが——眠れていない。心拍が速い。体は横になっているのに、頭の中はまだ走っている。リアラのこと。バルのこと。ルートのこと。明日の行程のこと。全部が同時に回っている。


 バルは——何も言わなかった。


 言えなかった。


 ただ——隣にいた。漏れ続ける自分の魔力と、眠れないアルトの呼吸を、暗い岩陰の中で聴いていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ