第103話:見つかった場所
翌朝。
アルトは夜が明ける前から動いていた。ノートを広げ、バルから聞いた共鳴の方角と強度を整理し、長老の地図と照合している。ペンの動きは正確で速い。寝ていない目で。眠る時間を惜しんで。
昨夜のバルの共鳴——あれほど強い反応は初めてだった。方角は北東。山脈を越えた先。距離は徒歩で六日から八日。そして、その先にある場所は——
* * *
朝。一行は鍛冶場を後にした。
ケイスは洞窟の入口で、一度だけ振り返った。三百年待って、やっと会えた炉。もう二度と、渡って来られないかもしれない場所。——だが、その横顔に悔いは見えなかった。炉は使われた。剣は打たれた。鍛冶師の仕事は、果たされた。
岩棚に出ると、渓谷の唸りが体を包んだ。行きと同じ、不規則な魔力の突風。底の見えない闇。幅一歩半の石の道。——何も、変わっていない。
変わったのは、こちら側だ。
「先頭、行くわよ」
ミラが杖を構えて、道の入口に立った。行きは最後尾から三秒先の予測を叫ぶだけで精一杯だった。今は——歩きながら、制御法を維持できる。環境の乱れを読み、予測し、自分たちの周囲の魔力を補正し続ける。完全な無効化ではない。だが——風の「形」が、見える。
「右から来る。五秒後。——アルト、バルを右に。角度は浅くていい」
声に、切迫がなかった。アルトがバルを右に広げる。突風がバルの表面で削がれ、残った衝撃は——ユートが前に出した剣の光が、静かに裂いた。安定した銀色の光。風の先端が刃に触れた瞬間、二つに割れて左右へ抜けていく。
「……嘘でしょ。風を斬るって何よ」
「斬ってない。——流してるだけだ」
一歩。また一歩。行きは一歩ごとに命を削った三十歩を——今は、確かな足取りで進んでいく。楽ではない。風は変わらず牙を剥くし、ミラの額には汗が浮かび、ユートの呼吸も上がっていく。だが——誰も、死の淵を歩いていなかった。
中ほどで——大きいのが来た。行きの最後に全員を襲った、あの桁違いの魔力の壁。
「正面! 十秒後! ——全員、止まって。やり過ごすわよ」
ミラが杖を石の道に突き、制御法を最大展開した。ユートが剣を正面に構え、アルトがバルを全員の前に広げる。ケイスは道具袋を抱えて低く伏せた。
魔力の壁が——三つの層に受け止められ、割れて、左右の闇へ抜けていった。
誰も、一歩も下がらなかった。
渡り切った時、ミラが石段の最初の段に手をついて、長く息を吐いた。
「……行きは、あれで死にかけたのよね。私たち」
「ああ。——ひと月も経ってないのにな」
ユートが渓谷を振り返った。妖精族でさえ渡れない、嵐の道。それを——二度。立て直しは、言葉ではなく、この三十歩が証明していた。
* * *
「長老。——お願いがあります」
石段を上がり、集落に戻った一行を、長老は驚きもせず迎えた。まるで、今日戻ることを知っていたかのように。アルトは挨拶もそこそこに切り出した。
「昨夜、バルの共鳴でリアラの位置がはっきりしました。北東——山脈の向こう側です」
「……魔王の城跡か」
長老の声が低くなった。
「あの場所は——世界の魔力が最も濃く集まる地点だ。ルーナが封印された場所であり、世界の乱れの中心でもある。魔力嵐が最も激しい区域を通らなければ辿り着けない」
「わかっています。でも——行かなければならない」
「ああ。それは——わかっている」
長老がゆっくりと立ち上がった。長く生きた体が、微かに軋む音がした。
「だが、一つだけ確認させてほしい。——バルの共鳴の先にある場所は、バルにとっても危険な場所だ。魔王の核が封じられていた場所。残滓が最も濃い場所。バルの中の漏出が——加速する可能性が高い」
アルトの手が——一瞬だけ、止まった。
「……わかっています」
「わかっているなら、いい。——急ぐ理由が二つあるということだ。リアラの安全と、バルの時間。どちらも待ってくれない」
二重の時間制限。リアラは囚われたまま——向こうで何が起きているのか、知る術もない。バルは器が崩壊し続けている。どちらも——時間が敵だ。
アルトは頷いた。迷いなく。速く。——速すぎるくらい速く。
* * *
出発準備は、アルトが全て仕切った。
物資の確認。水と保存食の配分。ミラの杖の魔力充填。ユートの剣の状態確認。バルの漏出速度の記録。結界外のルート候補の選定。魔力嵐の密度予測。——全部を一人でまとめ、全部を一人で指示した。
「ミラさん。水袋はあと二つ余裕があります。保存食は八日分ありますが、念のため十日分に増やしてください。長老に追加を頼みます」
「ユートさん。ルートは北東の谷を抜けるのが最短ですが、魔力嵐の密度が高い区間があります。迂回すると二日余計にかかります。最短で行きましょう」
「バル。共鳴の方角を、出発後も定期的に確認してくれ。二時間おきに」
指示は的確だった。論理的で、効率的で、抜けがない。ミラもユートも異論は出なかった——出せなかった。アルトの判断は正しいのだ。速いが、正しい。最短ルートを選ぶのも、物資を多めに確保するのも、合理的だ。
だが——ミラは、少しだけ気づいていた。
アルトが「相談」をしていない。「報告」と「指示」しかしていない。いつもは「どう思いますか」と聞くアルトが、今日は全部自分で決めている。時間がないから——と言えば、それまでだ。だが。
ミラはユートと目を合わせた。ユートも——同じことを感じていた。だが、ここで止める理由がない。アルトの判断は正しい。正しい判断を、正しいタイミングで、正しい速度で下している。問題があるとすれば——その「正しさ」の裏にある、止まれない焦りだけだ。
バルは——黙っていた。昨夜言いかけて言えなかった言葉が、まだ喉に残っている。
* * *
夕方。準備の合間に——ユートは、白い花の咲く石畳の上で、小さな人影に捕まっていた。
「お兄ちゃん!」
フィーナが全速力で走ってきて、ユートの脚に抱きついた。それから——腰の剣に目を留めて、目を丸くした。
「剣、直ってる! ……光ってる。前と、ちがう色」
「ああ。——直してもらった。半分は、俺の色になった」
「ふうん。……また行っちゃうの?」
フィーナの声が、少しだけ小さくなった。子供は、大人の旅支度の匂いに敏感だ。
「ああ。——でも、約束しただろ。帰ってきたら、また教えるって。ほら」
ユートはその場で膝を折り、フィーナの木の剣に手を添えて、新しい構えを一つだけ教えた。受けの構え。自分を守るための型。フィーナは真剣な顔で三回繰り返して——三回目に、ちゃんと形になった。
「……つぎ帰ってくるまでに、百回やっとく」
「百回か。——じゃあ次は、その先を教えるよ」
フィーナが片耳の後ろから白い花を抜いて、背伸びをして、ユートの胸元に挿した。道案内の花。集落の石畳の隙間に咲く、あの白い花だった。
「まいごにならない、おまじない。——ぜったい、帰ってきてね」
「……ああ。約束だ」
* * *
翌朝。出発の時が来た。
長老とケイスが、結界の出口まで見送りに来た。集落の他の妖精族は結界の中で待機している。外の空気は妖精族の体に厳しい——とくに若い個体には危険だ。長老とケイスだけが、老練な体力と経験で、ここまで来ることができた。
「お前たちに——渡すものがある」
長老が小さな布袋をアルトに手渡した。中には——三つの結晶が入っていた。淡い緑色の光を放つ、透明な石。
「妖精の涙石。——結界の魔力を凝縮したものだ。一つ割れば、短い時間だが周囲に結界に近い安定場を作り出せる。魔力嵐の中で休息を取る時に使いなさい。三つしかないが——帰る場所がある限り、使い切っても構わない」
「……ありがとうございます」
アルトが深く頭を下げた。長老は——アルトの頭を見下ろして、少しだけ黙った。
「アルト」
「はい」
「一つだけ——老いぼれの忠告を聞いてくれるかい」
「はい」
「急ぐことと、急かされることは違う。自分の足で走っているのか、何かに追いかけられて走っているのか——時々、確認しなさい。走り方を間違えると、辿り着く前に倒れてしまう」
アルトは——笑った。穏やかに。
「大丈夫です。ちゃんと、自分の足で走ってます」
嘘ではなかった。アルトは本当にそう思っていた。自分で判断して、自分で決めて、自分の意志で出発する。——追いかけられてなんかいない。
だが長老は——その笑顔を見て、目を細めた。何か言おうとして——やめた。言葉では届かないことを、重ねた歳月が教えていた。
ケイスが——無言で、一歩前に出た。ユートの前に立ち、手を差し出した。
「——剣を大事にしろ。折るなよ」
「……二度は折らない。約束する」
ケイスが顎を引いた。それだけだった。それだけで十分だった。
* * *
結界を出た。
空気が変わった。一歩踏み出した瞬間に、体が感じ取る。穏やかさが消えた。結界の中にあった安定が、薄い膜のように剥がれて——外の世界の乱れた空気が、肌に触れた。
赤黒い空。雲が渦を巻いている。遠くの山脈の上に、魔力嵐の残光が見えた。紫と赤が混ざった、不吉な光。風が冷たい。だが冷たさの中に——魔力の熱が混じっている。肌がぴりぴりする。
ミラが杖を構えた。制御法を展開し、環境の乱れを感知し始める。
「……想定通り。乱れのレベルは中程度。——今の私なら、歩きながらでも維持できるわ」
ユートが剣の柄に手を置いた。淡い銀色の光が応えるように明滅した。
「行こう」
アルトが先頭に立った。迷いなく。地図とバルの共鳴を頼りに、北東へ。
歩き始めた。結界の光が背中で小さくなっていく。妖精の里が遠ざかる。——帰る場所がある、と長老は言った。帰る場所。その言葉が、胸の奥のどこかに引っかかったが——今は、前を見る。リアラの方へ。バルの時間が尽きる前に。全部を間に合わせるために。
バルが——アルトの背中で、結界の外の空気を感じていた。魔力の濃度が違う。器への圧力が、一段強くなった。結界の中では漏出が緩やかだったが——外は、器を圧し潰そうとする力が強い。残り時間が——また少し、縮んだ。
* * *
最初の夜。
魔力嵐の外縁を避けて、岩陰に野営した。ミラが涙石を一つ使おうとしたが、アルトが止めた。
「まだ大丈夫です。ここは嵐の端だから、涙石なしでも休めます。涙石は——もっと厳しい場所のために取っておきましょう」
合理的な判断。正しい。ミラは頷いた。
焚き火は焚けなかった。外の魔力が不安定で、火を使うと周囲の魔力と干渉して暴発する危険がある。暗い岩陰で、ミラの杖の光だけが微かに灯っていた。風の音が絶えず聞こえる。砂と魔力の残滓を含んだ風。妖精の里では聞かなかった音だ。世界が乱れている音。
保存食を食べた。暗い中で、水でふやかした硬いパンと干し肉。ユートとミラは黙々と食べた。アルトは——半分だけ食べて、残りを背嚢に戻した。誰も指摘しなかった。まだ、初日だから。
ユートが立ち上がった。
「見張りは俺がやる。——アルト、お前は寝ろ」
「大丈夫です。僕がやります」
「昨日も寝てないだろ。——目の下、すごいぞ」
「大丈夫です。慣れてますから」
ユートは——しばらくアルトを見つめていた。昨夜のバルの言葉が頭の中にある。『あいつが笑ってる時ほど、危ないんだ』——今まさに。笑っている。穏やかに。完璧に。そして——絶対に引かない顔で。
「……わかった。じゃあ前半は俺がやる。後半にアルトが代わってくれ」
「いえ、僕が——」
「前半は、俺がやる」
ユートの声は静かだったが、有無を言わせなかった。エイルの影を完全に手放した今のユートには——かつてのような優しい引き下がりはなかった。自分が必要だと判断したことは、譲らない。
アルトは——少しだけ間を置いて、頷いた。
「……わかりました。後半、起こしてください」
「ああ」
アルトは岩壁に背を預けて目を閉じた。眠れるかどうかはわからない——だが、横になることは受け入れた。
ユートは暗い岩陰の入口に座り、外を見張り始めた。赤黒い空の下で、風が砂を巻き上げている。遠くで魔力嵐の光がちらついている。
バルは——アルトの隣に置かれていた。
アルトの呼吸を聴いている。
浅い。まだ浅い。目を閉じているが——眠れていない。心拍が速い。体は横になっているのに、頭の中はまだ走っている。リアラのこと。バルのこと。ルートのこと。明日の行程のこと。全部が同時に回っている。
バルは——何も言わなかった。
言えなかった。
ただ——隣にいた。漏れ続ける自分の魔力と、眠れないアルトの呼吸を、暗い岩陰の中で聴いていた。




