第102話:笑っているのに
それから数日が経った。
ミラの制御法は二十五発まで安定した。目標の三十発にはまだ届かないが、毎日着実に伸びている。並列処理の負荷に脳が慣れ始めているのだろう——十発目までに感じていた頭痛が、今は二十発を超えてからしか来ない。火力も八割五分まで上がった。「あと二日あれば三十発に届く」とミラは言い切った。言い切れるだけの根拠を、自分の体と理論で積み上げていた。
ユートは七割出力で百振りを安定させた。六割の時とは段違いに消耗するが、途中で出力が途切れることは無くなった。体が覚えた。魔力を通しながら剣を振ることが、少しずつ呼吸に近づいている。ケイスが用意する石の的も、毎回きれいに断たれるようになった。ケイスは何も言わないが——的の難度を少しずつ上げていた。硬い石、大きな石、二つ並べた石。ユートはそのたびに対応を考え、出力の配分を変え、斬り方を工夫した。
パーティ全体が、前に進んでいた。
ケイスとも相談しつつ、出発の日程が固まりつつあった。結界の外に出る準備。ミラが環境制御法を完成させ、ユートが実戦出力を安定させれば——動ける。次の目的地は、バルの共鳴が指し示すリアラの方角だ。
空気は——穏やかだった。焦りも、絶望も、まだ見えない場所に押し込まれていた。少なくとも——表面上は。
* * *
アルトは——笑っていた。
朝起きて、「おはよう」と言う時。ミラの訓練結果を記録する時。ユートの出力データをノートに書き込む時。ケイスと出発準備の打ち合わせをする時。食事を配る時。見張りに立つ時。——いつも、笑っていた。
穏やかな笑顔。嬉しそうな笑顔。仲間が力を取り戻していくことを、本心から喜んでいる笑顔。——嘘ではない。嘘ではないのだ。アルトは本当に嬉しいと思っている。ユートが自分の剣を振れるようになった。ミラが新しい魔法を作り上げた。それは——本当に、良いことだ。
だがバルは——その笑顔の裏にあるものを、ずっと感じていた。
アルトの背中に担がれている。いつもの位置だ。バルにはアルトの体温が伝わる。心拍が伝わる。呼吸のリズムが伝わる。——そして、魔力の流れの微細な変化が、布地越しに感じ取れる。
心拍が速い。
一週間前と比べて、明らかに速くなっている。安静時でも、心臓が急いでいる。まるで走り続けているかのように。だが体は座っている。ノートを書いている。笑っている。——体は止まっているのに、心臓だけが走っている。
呼吸が浅い。
深く吸えていない。胸の奥に何かが詰まっているように、呼吸の底が浅くなっている。本人は気づいていない。意識的に深呼吸をすることはあるが——すぐに戻る。浅い呼吸に。
食事の量が減っている。
これはバルだけでなく、ミラも気づいていたかもしれない。だがミラは自分の訓練に集中していた。ユートも剣の練習に没頭していた。アルトが食事を少し残しても、「お腹いっぱいです」と言えば——それ以上は追及されなかった。
眠れていない。
見張りの当番でなくても、アルトは夜中に目を覚ましていた。バルにはわかる。背中に担がれている時の微かな動き。目を開けて、天井を見つめて、また閉じる。それを何度も繰り返して——朝を迎える。
全部が——少しずつ、ずれていた。
一つ一つは些細だ。心拍が少し速い。呼吸が少し浅い。食事が少し減った。睡眠が少し足りない。——だが、それが全部同時に起きている。全部が同じ方向にずれている。内側の焦りが、体に影響を与え始めている。
バルは——何度か、言おうとした。
『おい、ノロマ。お前——』
「ん? 何、バル?」
『……いや。何でもねぇ』
言えなかった。
『お前、おかしくねぇか』と言えなかった。言ったところで、アルトは「大丈夫だよ」と笑うに決まっている。完璧な笑顔で。——そしてバルには、その笑顔を崩す手段がない。言葉で突き崩そうとしても、アルトは笑顔で受け流す。それが——アルトの壁だ。「大丈夫」の壁。
じゃあ、ユートかミラに言うか。『あいつ、おかしいぞ』と。
——それも、できなかった。
二人はようやく自分の力を取り戻したところだ。ミラは制御法の完成に集中している。ユートは剣の安定化に全力を注いでいる。そこに『アルトが壊れかけてる』という不安を乗せたら——二人の集中が乱れる。出発が遅れる。出発が遅れれば——リアラが。バルの器が。ルーナが。
バルは——自分の問題も抱えている。漏出は止まらない。器は壊れ続けている。自分がいつまで保つかもわからない。そんな状態で——『あいつを心配してる』と言ったところで。自分の体すら保てない存在に、誰かを救う力があるのか。
結局のところ——バルにできることは、見ていることだけだった。アルトの背中で。笑顔の裏で。ずれ続けている心拍と呼吸を、感じ続けることだけ。
器が崩れかけている自分には、歩く足もない。叩く拳もない。アルトの肩を掴んで「やめろ」と言う腕もない。——ただの布きれだ。ただの布きれに、人を救う力などない。
* * *
その日の午後。
アルトはケイスとの打ち合わせを終えて、洞窟に戻ってきた。ノートを開いて、出発までのスケジュールを書き出していた。必要な物資の確認。結界外のルートの検討。魔力嵐の予測パターン。——全部を一人でまとめていた。
「——休め」
ケイスが短く言った。打ち合わせの間も、何かを見ていたのだろう。
「顔色が悪い」
「大丈夫です。もう少しで終わりますから」
笑顔。完璧な笑顔。
ケイスは——それ以上、何も言わずに離れた。長く生きる妖精の目に、アルトの状態がどう映っているのか。バルにはわからなかったが——あの無表情の奥に、心配に似た色が、確かにあった気がした。
アルトはノートを書き続けた。ペンの動きは正確だった。文字は整っていた。論理的で、効率的で、抜けがない。——完璧な仕事。完璧すぎる仕事。
バルは——背中で、アルトの心拍を聴いていた。
速い。速い。速い。
笑っているのに。
* * *
夜。
焚き火が燃えている。ミラが疲労で先に眠った。ユートは見張りに出ている。アルトはノートを閉じて、壁に背を預けていた。目は閉じているが——眠っていない。バルにはわかる。
沈黙が続いた。
バルは——もう一度だけ、言おうとした。
『ノロマ』
「……起きてるよ」
「知ってる。——お前、最近——」
言いかけて——止まった。
その瞬間。
バルの中で——何かが、弾けた。
共鳴だった。
アルトの背中にいるバルの全身を、突然の振動が貫いた。強い。今までの共鳴とは比べものにならないほど強い。方角がはっきりわかる。距離も——近くはないが、遠くもない。移動圏内だ。
「——っ!」
バルが激しく震えた。
「バル——!? どうした!」
アルトが飛び起きた。バルの震えが異常だと察知して、背中から降ろし、地面に置いた。布地が脈動している。光が——漏出ではない、別種の光が布地の表面を走っている。
『共鳴——リアラだ』
バルの声がかすれた。
『リアラの——いる場所が。はっきり、わかった。今まで曖昧だった方角が——はっきりと。何かが動いたんだ。向こうで——何かが変わった』
アルトの目が——変わった。
焦りでも、恐怖でもない。——決意だ。
「場所がわかったなら——行ける」
「ああ。——北東。山脈の向こう側。距離は——徒歩で六日から八日。魔力嵐の密度次第だが」
ユートが洞窟に駆け込んできた。外の見張りから、バルの共鳴を拾ったのだろう。
「何があった」
「リアラの位置が特定できた。——出発の準備を、急ぐ」
アルトの声は——静かだったが、硬かった。硬くて、速くて、一切の迷いがなかった。
ミラも目を覚ました。状況を察知して——すぐにノートを開いた。
「明日、渓谷を渡って里に戻る。長老に報告して、物資を整える。出発は——早ければ明後日」
全員が動き出した。穏やかな空気が、一瞬で切り替わった。
アルトの動きが——別人のようだった。さっきまで穏やかに笑っていたのが嘘のように、矢継ぎ早に出発の段取りを組み始めている。声は静かだが、速い。迫力がある。有無を言わせない迫力が。——それは「リーダー」の力だが、同時に——「相談しない人」の空気でもあった。
バルだけが——震えの余韻の中で、アルトの顔を見ていた。
決意の顔。迷いのない顔。——だが、その目の奥に。
燃えすぎている炎が、あった。
——言えなかった。「お前、おかしくねぇか」と。
もう、止められないところまで来ている気がした。




