第100話:取り戻した火
翌日から、ミラは洞窟に篭もった。
バルの解析で掴んだ「どこにも属さない」という事実。それ自体は行き止まりに見えた。だが——ミラの頭の中では、別の回路が回り始めていた。
バルの問題はいったん脇に置く。今すぐ直せないなら——直せる力をつける方が先だ。そして、直す以前に。今の自分にもまだ足りていないものがある。
世界の魔力が乱れている。結界の外では、魔法の精度が大きく落ちる。出力が安定しない。暴発する。狙った場所に飛ばない。——この問題を放置したまま決戦に臨めば、味方を巻き込むことすらありうる。
前にも一度、この問題には取り組んでいた。二重基底波の理論。魔力嵐を突破した時に使った手法だ。だが、あれは一時的なものだった。瞬間的に環境を安定化させる技術であって、長時間の戦闘を支え続けるものではない。
必要なのは——乱れた環境そのものを前提にした、新しい制御法。乱れを消すのではなく、乱れの中でも安定して魔力を通す方法。
ミラは術式ノートの新しいページを開いた。
* * *
最初の二日間は、ほぼ理論構築だけに費やした。
洞窟の壁面に、ケイスから借りた古い術式図を広げた。人間族の魔法理論と妖精族の魔法理論は、根本のところで考え方が違う。人間族は環境を制御して術を通す。妖精族は環境に合わせて術を変形させる。——どちらか一方ではダメだ。両方の発想を、一つの制御体系に組み込む必要がある。
ペンが走った。止まった。消した。書き直した。
「……違う。ここの接続が甘い」
独り言が洞窟に反響した。ミラは術式図の上に自分の理論を重ね書きし、干渉パターンを計算し、破綻する点を見つけては潰していく。地道な作業だった。華やかさはない。魔法使いの仕事の大半は、こうだ。閃きは一瞬でも、それを理論として成立させるには何十時間もの計算がいる。
初日の夕方、ケイスが洞窟に来た。古い術式図を回収するためだったが——ミラのノートを見て、足を止めた。
「人間族の制御系と妖精族の適応系を組み合わせようとしているのか」
「そう。——無謀だと思う?」
「思わない。だが、難しい。根本の設計思想が逆だからだ。人間族は環境を制御する。妖精族は環境に沿う。——接合点がない」
「ないなら作る。それが魔法使いの仕事でしょ」
ケイスが——微かに、顔を動かした。笑ったのかどうかはわからない。だが、術式図を回収せずに置いていった。「明日も使え」という意味だろう。
アルトが食事を持ってきた。水と保存食。「ミラさん、食べてください」と静かに置いて、邪魔しないように離れていく。ユートは鍛冶場で剣の訓練を続けている。バルは洞窟の入口近くに置かれて、時折かすれた声で文句を言っていた——『うるせぇ独り言』とか『もっと静かにやれ』とか。だが、ミラが集中している時に本気で邪魔はしなかった。
二日目の夜、ミラは行き詰まった。
人間族の制御系と妖精族の適応系。どちらも正しい。どちらも不完全。接合点が見つからない。ノートの上に式を書いては消し、消しては書き、同じ場所をぐるぐる回っている。
焚き火の前で、頭を抱えた。
情けない、と思った。かつては——魔力が安定した世界で、正確な術式を組み、完璧な出力を出すことだけを考えていればよかった。今は、世界の方が壊れている。前提が全部、崩れている。その中で魔法を使う方法を、ゼロから作り直さなきゃいけない。
二年前の自分なら——たぶん、ここで止まっていた。所謂「天才」と呼ばれていた頃の自分は、解けない問題を前に「解けないなら仕方ない」と別の方法を探した。でも今は違う。「仕方ない」では済まない。バルを助けるためにも、決戦に勝つためにも——この壁を越えなければ、先に進めない。
——じゃあ、考え方を変えろ。
制御と適応を「組み合わせる」のではなく——「同時にやる」。制御しながら適応し、適応しながら制御する。二つを繋ぐのではなく、一つの行為の中に両方を含める。
それは——人間の脳でできることなのか?
できるかどうかは、やってみなければわからない。
三日目の朝。
ミラのノートに——一本の線が引かれた。
「……できた。かもしれない」
理論上は。
環境の乱れを「前提条件」として術式に組み込む。通常の魔法は、安定した環境で安定した出力を出す設計になっている。だから環境が乱れると出力も乱れる。——逆に、最初から乱れた環境を想定して術式を組めば、乱れそのものが出力の阻害にならない。波が来ることを前提にした船の設計。
ただし——理屈と実践は別だ。
* * *
鍛冶場の広い空間を借りた。ケイスに許可を取り、術式の実験をする。
「離れてなさい。暴発の可能性がある」
ミラがアルトとユートに距離を取らせた。バルはアルトの背中にいる。ケイスは壁際で腕を組んで見ている——興味があるのか、監視なのか、表情からは読めない。
杖を構えた。
通常の炎魔法を——新しい制御法で発動する。
まず環境の乱れを読む。鍛冶場の中は源流の調和のおかげで比較的安定しているが、完全ではない。壁面の魔力と炉の熱が干渉し合って、微かな揺らぎが常に生じている。通常なら無視できるレベルだが——新しい制御法のテストには、むしろちょうどいい。
杖の先端に魔力を集中させた。いつもの手順。だが——ここからが違う。魔力を発射する直前に、環境の揺らぎを術式に取り込む。波の方向と強さを感知し、その分だけ出力の角度と密度を補正する。リアルタイムで。発動しながら、同時に補正し続ける。
——難しい。
当たり前だ。従来の魔法は「狙って撃つ」の二段階で済む。新しい制御法は「感知して→補正して→撃って→飛んでる間も補正し続ける」という四段階の並列処理を要求する。脳への負荷が段違いに高い。
一発目。
炎が杖先から放たれた。——だが、途中で軌道が歪み、壁面に逸れた。ケイスが片手で防壁を張って受け止めた。無表情のまま。
「……精度が足りない。補正のタイミングが遅い」
ミラが自分で分析した。歯を食いしばって、もう一度。
二発目。軌道は安定したが——出力が弱い。補正に集中しすぎて、肝心の火力が削れている。
三発目。火力を上げたら補正が追いつかなくなり、暴発しかけた。ミラが自分で術を消して、杖を下ろした。
——息が上がっていた。額に汗が滲んでいる。三発撃っただけで、これだけ消耗する。従来の魔法なら十発は軽い。
「……くそ」
ミラにしては珍しい、生々しい悪態が漏れた。
壁際のアルトが——何か言いかけて、口を閉じた。今は見守る時だ。ミラが自分で壁を越えるまで。——けれど、拳を握りしめていた。仲間が苦しんでいるのを見ているだけの自分が、もどかしかった。
バルがアルトの背中で呼ぶように震えた。
『……なんでも力押ししやがる。火力を落とせ。補正の精度を上げろ』
「うるさいわね、カバンのくせに」
『俺の中身は魔力の塊なんだっつーの。波形の乱れくらい見りゃわかる。——火力を落とせ。その分補正に回せ』
バルの助言は——悔しいが、的を射ていた。火力と補正のバランス。両方を一度に最大にしようとするから破綻する。なら——火力を一段落として、その分の脳の余裕を補正に回す。
四発目。
五発目。
六発目。——少しずつ、感覚が掴めてきた。補正のタイミングを早めるのではなく、最初から補正込みで術式を組む。「撃ってから直す」のではなく「直しながら撃つ」。同時処理。
七発目——炎が、まっすぐ飛んだ。
壁面の標的——ケイスが置いた石柱に命中し、石が赤熱して割れた。火力は通常の八割程度。だが——軌道は完璧だった。乱れた環境の中で、狙った場所に、狙った強さで、炎を通した。
「……通った」
ミラの声が震えた。疲労のせいだけではない。
八発目。同じ精度。九発目。維持。十発目——出力を上げた。八割から九割に。石柱が粉砕された。
「——十発」
杖を下ろした。膝が震えている。汗が顎から落ちた。通常なら三十発は撃てる体力で——十発が限界。並列処理の負荷が、そのまま体力の消耗として返ってきている。
だが——できた。
乱れた環境の中で。安定して。魔法を通した。
二年前に失ったものを、単に「取り戻した」のではない。別のものを作った。かつての自分が使えなかった魔法を、今の自分が使えるようになった。——失った時間は無駄じゃなかった。苦しんだ分だけ、強くなった。そう思いたい。そう思わなきゃ、この先を歩けない。
* * *
「すごいですね、ミラさん」
アルトが近づいてきた。水袋を差し出す。ミラはそれを受け取って、一気に半分飲んだ。
「……まだよ。十発で限界なんて、戦闘じゃ使えない。持久力が全然足りない」
「でも——できましたよね。理屈を作って、実際に通した。三日で」
「三日もかかった、の間違いよ」
ミラの声は厳しかった。だが——目の奥に、火があった。消えかけていたものが、もう一度灯ったような——静かだが強い火。
ユートが鍛冶場の奥から歩いてきた。剣を鞘に収めて。
「見てたぞ。——後半の精度、別人みたいだった」
「別人じゃないわよ。私は私。——ただ、やり方を変えただけ」
ミラが杖を握り直した。手はまだ震えている。だが——握る力は強かった。
「世界が乱れても、魔法が使えなくなるわけじゃない。——乱れた世界に合わせて、魔法の方を変えればいい。環境に文句を言っても始まらない。自分を変える方が、早い」
アルトが——少しだけ、目を見開いた。ミラの言葉が——強かった。才能だけではない。二年間の喪失と、今ここにある焦りと、仲間を守りたいという執念が——理屈になって形を持った。
「持久力は——これから上げる。明日も練習する。明後日も。決戦までに——三十発は安定させる」
ミラの宣言は静かだったが——有無を言わせない強さがあった。
ユートが——ミラを見て、微かに笑った。頼もしさと、少しの眩しさが混じった笑み。
「……俺も、負けてられないな」
そう呟いて——再鍛造された剣の柄に、手を置いた。淡い銀色の光が、指先に応えるように微かに明滅した。




