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『ノロマ、死ぬなよ』〜毒舌カバンと最弱少年の英雄譚〜  作者: 塩とわかめ
第三章:壊れた空と、取り戻すための戦い
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第99話:眠れない夜

 夜。


 焚き火の明かりが天井の岩肌に揺れている。ユートが壁に背を預けて眠っている。剣が膝の上にある。ミラは——さすがに限界だったのか、術式ノートを抱えたまま横になっている。寝息は聞こえないが、目は閉じている。微かな魔力感知だけが、まだ起動しているのが——アルトにはわかった。眠っても完全には手を離さないのが、ミラらしかった。


 バルは焚き火の傍に置かれていた。布地が微かに光っている——漏出だ。昨日より量が増えている気がする。気のせいだと思いたいが——目を逸らすことは、もうできない。


 アルトは膝を抱えて座っていた。


 眠れなかった。体は疲れている。二日連続で睡眠が足りていない。ユートの再鍛造の日は見張りで一晩中起きていたし、昨夜はバルと話して眠れなかった。今夜こそ眠るべきだ。頭では、わかっている。


 だが——目を閉じると、頭の中が回り始めた。


 リアラのこと。ルーナの側にいるはずのリアラ。今も大丈夫と声をかけ続けているのか。それとも——もう状況が変わっているのか。バルの共鳴が途絶えがちになっている。方角は辛うじてわかるが、リアラの状態まではわからない。辺境の村で二人で歩いた道を思い出す。「大丈夫」と言って笑うリアラの顔。あの笑顔が——今もまだ保たれているのか。保たれていなかったら。


 バルのこと。今日のミラの報告。どこにも属さない。既存の知識では直せない。漏出は加速している。時間は——どれだけ残っているのか、誰にも正確にはわからない。バルが『わからない』と言ったのだから。わからないということは——明日かもしれないし、一ヶ月後かもしれない。その不確定さが、一番怖い。


 ルーナのこと。世界の乱れは日に日に強くなっている。結界のない場所では魔力嵐が頻発しているらしい。長老が言っていた。外の世界は、壊れ続けている。ここにいる間にも。


 全部が同時に進行している。止められない。待ってくれない。——自分たちがここで立て直している間にも。ユートが剣を取り戻し、ミラが理論を組み立て、バルの解析が進んでいる。それは必要な時間だ。わかっている。わかっているのに——


 焦りが、胸の奥で燃えていた。じくじくと。消えない炎のように。

 胃の奥が重い。夕食をまともに食べていない。食べたはずだが——味がしなかった。いつからだろう。食事の味がわからなくなったのは。


 急がなければ。もっと速く。もっと早く。バルの器が潰れる前に。リアラが怖い思いをしている間に。ルーナが苦しんでいるうちに。——全部、同時に救わなきゃいけない。全部を救えるのは——


 ——僕しかいない。


 そう思った瞬間、背筋が冷えた。危ない。その考え方は、危ない。一人で全部背負おうとしている。バルが言ったばかりだ。『無理して壊れんな』と。


 わかっている。わかっているのに——焦りが消えない。頭ではわかっているのに、胸の奥の炎が消えない。消せない。消したら——急ぐ理由まで消えてしまいそうで。


 アルトは膝を強く抱えた。指が白くなるほど。息を整えた。大丈夫だ。焦っているだけだ。仲間がいる。ミラが解析を進めている。ユートが戦力を取り戻した。自分一人じゃない。——大丈夫。


 大丈夫の笑顔を、誰もいない夜に向けて作った。練習するように。明日の朝、みんなの前で崩さないように。——完璧に。完璧すぎるくらい、完璧に。


 手の先が冷たい。眠れない夜が続くと、体の末端から温度が抜けていく。意識が遠いのに、体が寒い。矛盾した感覚の中で、焦りだけが熱を持っていた。


 * * *


 アルトが——やっと浅い眠りに落ちたのは、壁面の光が眠りの底のような最も深い明滅に沈む、夜明け前にあたる時刻だった。


 それを確認してから。


 バルが、声を出した。


『——おい。起きてるか』


 低い声。アルトに向けたものではない。——ユートへ。


 ユートが目を開けた。薄目ではない。はっきりと起きていた。


「……起きてる」


『ミラは?』


「寝てる。——いや」


 ミラが目を開けた。ノートを抱えたまま。


「起きてるわよ。——何」


 バルが——少しだけ間を置いた。いつもの悪態が出ない。言葉を選んでいる。バルが言葉を選ぶこと自体が、稀だった。


『……一つだけ、言っておく』


「?」


『俺が——いなくなった時の話だ』


 空気が変わった。焚き火の音だけが聞こえた。


「いなくなるって——何を言ってるの」


 ミラの声が鋭くなった。


『言ってただろ。今日の解析。俺の中身は、この世界のどこにも属さない。直し方もわからない。漏れは止まらない。——俺は、消えるかもしれない。消えないかもしれないが——消える方が、確率は高い』


「そんなの——」


『ミラ。黙って聞け』


 バルの声に——初めて、切迫したものが混じった。普段の横暴さとは違う。本気で、聞いてほしい声だった。


 ミラが——口を閉じた。


『俺がいなくなったら——あいつを頼む』


 短い言葉だった。


『あいつは——自分が壊れてることに、まだ気づいてない。気づいてるかもしれないが——認めてない。平気な顔して、笑って、全部自分で背負おうとする。お前らが立て直してる間も、あいつだけは——止まってない。止まれないんだ。止まったら壊れると思ってる』


 ユートが——目を閉じた。言葉を噛みしめるように。


「バル——」


『お前は知ってるだろ、ユート。自分を後回しにする奴の顔。——鏡見てるようなもんだ』


 ユートの喉が詰まった。——確かに。自分を犠牲にする人間の顔は、知っている。自分がそうだったから。


『ミラ。お前は頭がいい。あいつが無理してる時、一番早く気づけるのはお前だ。——頼むから、見てやってくれ。あいつが笑ってる時ほど、危ないんだ』


 ミラの目が——赤くなった。唇を噛みしめた。泣かない。泣くことを自分に許さない顔。でも——


「あんた——何よ、そんな。遺言みたいなこと言って」


『遺言じゃねぇよ。——投資の引き継ぎだ。俺がいなくなった場合の、リスク管理の話をしてんだ』


「馬鹿じゃないの……」


 ミラの声が震えた。怒りではない。怒りの形をした——悲しみだった。


「あんたがいなくなるなんて。——あの子がどれだけ辛いか、わかってるの。あの子は毎晩あんたに話しかけてたのよ。二年間。返事がなくても。——また、あんなことさせる気?」


 バルが——黙った。


 しばらくの沈黙の後。


『……だから、頼んでんだろ。俺が消えても——あいつが一人にならないように』


 ユートが——顔を上げた。


「バル」


『何だ』


「お前は消えない。——アルトが助けると言った。あいつは約束を守る」


『希望的——』


「希望的観測じゃない。事実だ。——あいつが約束を破ったことがあるか? 一度でも」


 バルが——答えなかった。答えられなかった。


「ミラも。——俺も。お前を見捨てない。だから——遺言を預ける相手を間違えてるぞ」


『……遺言じゃねぇっつってんだろ』


 バルの声は——かすれていた。でも。かすれた声の奥に。


 ——ほんの少しだけ、安堵があった。突き返されたことへの、不器用な安堵。


『……勝手にしろよ。お前らも。あいつも』


 壁面の光が——ほんの少しだけ、明るくなった気がした。


 * * *


 翌朝。


 アルトが目を覚ました時、焚き火は小さくなっていた。ユートが火の番をしている。ミラは術式ノートを抱えたまま、やっと本当に眠ったらしい。


「おはようございます、ユートさん」


「おう。——よく眠れたか」


「はい。ぐっすりです」


 嘘だった。三時間も眠れていない。だがアルトの笑顔は完璧だった。目元に疲労の影があったが——笑みがそれを隠していた。


 ユートは——その笑顔を見て、何も言わなかった。


 言えなかった。昨夜のバルの言葉が、頭の中で鳴り続けているから。


『あいつが笑ってる時ほど、危ないんだ』


 そして今、アルトは完璧に笑っている。


 ユートは——かつての自分を思い出した。エイルの模倣をしていた頃、自分も同じだった。「大丈夫だ」と笑って、無理を隠して、仲間が心配しても受け流した。そして、崩れた。あの時——アルトが「誰のための剣だ」と問いかけてくれなかったら、自分は今も嘘の中にいた。


 ——今度は自分が、それをしなきゃいけないのか。でも、いつ。どうやって。まだ——わからない。


 バルが——小さく震えた。


 アルトの笑顔を、見ていた。


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