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『ノロマ、死ぬなよ』〜毒舌カバンと最弱少年の英雄譚〜  作者: 塩とわかめ
第三章:壊れた空と、取り戻すための戦い
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第98話:どこにも属さない

 翌朝から、ミラは動き始めた。


 鍛冶場の一角を借りて、簡易的な術式陣を床面に描いた。ケイスが提供した妖精族の計測道具——魔力の波長と密度を視覚化する水晶板——を陣の中央に据え、バルを水晶板の上に載せた。


「動くんじゃないわよ」


『動いてねぇよ。っていうか動けねぇよ、この体勢』


「黙ってなさい。波形が乱れるから」


 いつもの口喧嘩だが、今日はミラの声にいつもの余裕がなかった。研究者の顔をしている。杖の先端を水晶板に当て、バルの内部に微弱な探査魔力を流し込む。水晶板の表面に、色とりどりの波形が浮かび上がった。


 アルトは壁際に座って見守っていた。昨夜のバルとの会話を頭の中で反芻している。消えていく音。漏れ続ける魔力。屋根を支える柱のない器——それを、どうすれば直せるのか。


 ユートは鍛冶場の反対側で、再鍛造された剣を手に素振りをしていた。静かな動作。新しい刃の重さと、淡い銀色の光の手触りを、体に馴染ませている。時折こちらを見るが——ミラの集中を妨げないよう、距離を保っていた。


 ケイスが壁際に立っていた。腕を組み、無言でミラの術式を見ている。妖精族の計測道具を貸したのはケイスだが——自分から解析に加わろうとはしない。頼まれれば手を貸す、という姿勢だった。


 * * *


 探査は一時間以上続いた。


 ミラは術式ノートにびっしりと数値を書き込みながら、水晶板の波形を何度も角度を変えて読み取った。バルの内部に残っている魔力の波長。密度分布。流動パターン。減衰速度。——データは着実に積み上がっていく。ただし、積み重なるほどに——ミラの眉間の皺が深くなっていくのが、アルトには見えた。


 ケイスが一度だけ壁から離れ、水晶板の位置を微調整した。「傾きを二度直せ。元の熱輻射が混ざる」と短く言って、また壁に戻った。ミラは「ありがとう」とだけ返して、調整を反映した。ケイスの助言は短いが、的確だった。積み重ねられた経験が、一言に凝縮されている。


『……おい、まだかよ』


「黙ってって言ったでしょ」


『もう一時間経ってんぞ。腹減った』


「食べる魔力がないから減るんでしょうが。——あと少しだけ。最後の層を読む」


 バルが不満げに震えたが、動きはしなかった。文句は言っても——ミラが自分のために動いていることを、わかっている。


 探査魔力がバルの内側を撫でるたびに、バルは奇妙な感覚を覚えていた。自分の中を他人の手で探られている。不快ではない。だが——見られたくない場所を、光で照らされているような居心地の悪さがある。自分でも把握しきれていない「自分の底」を、ミラの術式が丁寧に、容赦なく剥いでいく。


 最後の層。バルの「器」そのものの構造を読み取る。これが一番深い。探査魔力を尖らせて、布地の奥——バルが「自分」として存在している核の表面まで届かせる。


 水晶板に——新しい波形が浮かんだ。


 ミラの手が止まった。


「……何、これ」


 低い声が漏れた。驚きというより——困惑だった。


「ケイス。——この波形、見てくれる?」


 ケイスが壁から離れ、水晶板を覗き込んだ。長い沈黙の後——顎を引いた。


「……見たことがないな」


「でしょうね」


 ミラが術式ノートを広げて、ケイスの前に並べた。


「バルの魔力の外側の層は——人間の魔力に近い反応をする。これは今まで通り。ずっとアルトの傍にいて、人の魔力に馴染んだ部分だから、当然。でも——その下の層。エイルの残滓が刻まれていた部分は、妖精族に近い波長を持ってる」


「勇者は——妖精と人間のハーフだった。妥当な結果だ」


「そう。ここまでは、わかるの。問題はその下。——バルの一番奥」


 ミラが水晶板の波形を指差した。


「人間でも、妖精族でもない。——魔族にも似てない。どこにも属さない。完全に未知の波形よ」


 沈黙が落ちた。


 アルトが壁際から身を乗り出した。バルは——黙っていた。黙っていること自体が、バルらしくなかった。普段なら「それがどうした」とか「だから何だ」とか、悔し紛れに反応するはずだ。それがない。


「これが——バルの『本体』ってことか」


 ケイスが低い声で言った。


「勇者の核と魔王の核の漏れから生まれた人格——その存在基盤が、既存の魔力体系に属さないということは。理屈としては筋が通る。二つの異なる核の干渉から自然発生した存在は、どちらの分類にも収まらない」


『——わかりやすく言ってくれねぇか』


 バルが口を挟んだ。声は軽かったが——いつもの勢いはなかった。


 ミラが、少しだけ間を置いて、言った。


「バル。あんたの本質は——人間でも、妖精でも、魔族でもない。この世界の魔法体系のどこにも、あんたと同じ存在は記録されていない。……だから」


 ミラの声が——僅かに詰まった。


「だから——直し方も、この世界の知識の中には、まだ見つかっていない」


 バルが——長い沈黙の後、小さく震えた。


『……そうか』


 たった一言だった。悔し紛れも、悪態も、軽口もない。バルが——「どこにも属さない」と言われたことを、そのまま飲み込んだ。アルトの傍で人の魔力に馴染み、エイルの核とルーナの核を抱えて生きてきた。その全部が自分だと思っていた。でも——一番奥の、「バル」としての自分は、どこにも属さない。

 それは——孤独という言葉よりも、もっと根の深い——存在の不安定さだった。


 * * *


 午後。ミラは一人で術式ノートと格闘していた。


 計測結果を何度も読み返し、波形パターンを分解し、組み換え、再構成して——何か手がかりがないかを探っている。水晶板をケイスに返し、代わりにケイスから古い文献の写本を幾つか借りた。妖精族が遠い昔に記録した魔力体系の基礎理論。文字は古い妖精文字で、読むだけでも骨が折れる。ケイスに意味を確認しながら、一行ずつ——だがバルの波形に一致するものは、見つからなかった。


「人間の魔力修復術は試したか」


 ケイスが一度だけ訊いた。


「理論上は適用できる。でも——外側の層にしか効かない。人間の魔力に反応する部分は治せるかもしれないけど、その下の層にはまるで届かないの。外壁だけ塗り直しても、柱が腐ってたら意味がない」


「妖精の治癒術は」


「中間層には効く可能性がある。でも——一番奥には、やっぱり届かない。そして問題は、一番奥が崩れているから全体が崩壊しているということ。表面を繕っても根本が保たない」


 ケイスは——短く頷いて、それ以上何も言わなかった。答えを持っていないからだ。妖精族の知識を持つケイスでも。


「反応する、と、同じである、は違う」


 ミラが自分に言い聞かせるように呟いた。ペンを止めて、天井を見上げた。


 バルの外側の層は人間の魔力に「反応する」。中間層は妖精族の波長に「反応する」。でも——「同じ」ではない。反応するだけで。どの分類にも完全には一致しない。既存の治療法は、「同じ種族の魔力構造を前提に修復する」仕組みだ。前提が成り立たないバルには——使えない。


 助ける手段が——むしろ遠のいたように感じた。人間の魔法でも、妖精族の術でも、直せないかもしれない。既存の体系の外にある存在を、既存の体系で直すことはできるのか。


 ——でも。


 ミラは歯を食いしばった。


 できないと決まったわけじゃない。理屈が足りないだけだ。理屈が足りないなら——作ればいい。新しい理屈を。乱れた魔力環境でも使える制御法を作った時と同じように。既存の枠に答えがないなら——枠の外を見るしかない。


 ペンを握り直した。ノートの新しいページを開いた。


 ——仮説。バルの核が「どこにも属さない」なら、逆に「どこにも干渉される余地がある」はずだ。属さないことは、排除されることとは違う。境界にいる存在は、境界の全てに触れている。


 まだ、何もわからない。でも手は止めない。


 * * *


 夕方。ミラが術式ノートを閉じた時——目の下に隈ができていた。


 アルトが水と干し肉を持ってきた。


「ミラさん。少し休んだ方が——」


「大丈夫よ。まだ考えたいことがあるの」


「……でも」


「大丈夫だって言ってるでしょ」


 ミラの声は強かった。だが——手が微かに震えていた。焦りではない。集中しすぎた疲れだ。


 アルトは——それ以上言わなかった。水と食料を置いて、静かに離れた。


 ノートを膝の上に開いた。自分のノートに——今日のミラの報告を書いた。


 ——バルの本質はどの種族にも属さない。既存の魔法体系では対処法不明。ミラが仮説を立て始めている。


 事実だけを書いた。感情は書かなかった。


 だが——ペンを置いた時。右手が震えていた。昨夜と同じ震えだ。飲み込んだ。いつものように。ノートを閉じて、背嚢の中にしまった。


 夜になった。焚き火が燃えている。ユートが素振りを終えて戻ってきた。ミラはまだノートを見ている。バルは沈黙している。


 穏やかな時間のはずだった。仲間がいて、寝る場所があって、明日もある。——だが、アルトの頭の中では時計が鳴り続けていた。バルの漏出は止まっていない。リアラはまだ囚われている。ルーナはまだ苦しんでいる。「どこにも属さない」——ミラの言葉が、ずっと頭の中で回っている。直し方が見つからないなら、バルの時間はさらに短くなる。


 焦りを、飲み込んだ。笑顔を作った。「おやすみなさい」と言った。横になった。


 アルトだけが——眠れずにいた。


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