第98話:どこにも属さない
翌朝から、ミラは動き始めた。
鍛冶場の一角を借りて、簡易的な術式陣を床面に描いた。ケイスが提供した妖精族の計測道具——魔力の波長と密度を視覚化する水晶板——を陣の中央に据え、バルを水晶板の上に載せた。
「動くんじゃないわよ」
『動いてねぇよ。っていうか動けねぇよ、この体勢』
「黙ってなさい。波形が乱れるから」
いつもの口喧嘩だが、今日はミラの声にいつもの余裕がなかった。研究者の顔をしている。杖の先端を水晶板に当て、バルの内部に微弱な探査魔力を流し込む。水晶板の表面に、色とりどりの波形が浮かび上がった。
アルトは壁際に座って見守っていた。昨夜のバルとの会話を頭の中で反芻している。消えていく音。漏れ続ける魔力。屋根を支える柱のない器——それを、どうすれば直せるのか。
ユートは鍛冶場の反対側で、再鍛造された剣を手に素振りをしていた。静かな動作。新しい刃の重さと、淡い銀色の光の手触りを、体に馴染ませている。時折こちらを見るが——ミラの集中を妨げないよう、距離を保っていた。
ケイスが壁際に立っていた。腕を組み、無言でミラの術式を見ている。妖精族の計測道具を貸したのはケイスだが——自分から解析に加わろうとはしない。頼まれれば手を貸す、という姿勢だった。
* * *
探査は一時間以上続いた。
ミラは術式ノートにびっしりと数値を書き込みながら、水晶板の波形を何度も角度を変えて読み取った。バルの内部に残っている魔力の波長。密度分布。流動パターン。減衰速度。——データは着実に積み上がっていく。ただし、積み重なるほどに——ミラの眉間の皺が深くなっていくのが、アルトには見えた。
ケイスが一度だけ壁から離れ、水晶板の位置を微調整した。「傾きを二度直せ。元の熱輻射が混ざる」と短く言って、また壁に戻った。ミラは「ありがとう」とだけ返して、調整を反映した。ケイスの助言は短いが、的確だった。積み重ねられた経験が、一言に凝縮されている。
『……おい、まだかよ』
「黙ってって言ったでしょ」
『もう一時間経ってんぞ。腹減った』
「食べる魔力がないから減るんでしょうが。——あと少しだけ。最後の層を読む」
バルが不満げに震えたが、動きはしなかった。文句は言っても——ミラが自分のために動いていることを、わかっている。
探査魔力がバルの内側を撫でるたびに、バルは奇妙な感覚を覚えていた。自分の中を他人の手で探られている。不快ではない。だが——見られたくない場所を、光で照らされているような居心地の悪さがある。自分でも把握しきれていない「自分の底」を、ミラの術式が丁寧に、容赦なく剥いでいく。
最後の層。バルの「器」そのものの構造を読み取る。これが一番深い。探査魔力を尖らせて、布地の奥——バルが「自分」として存在している核の表面まで届かせる。
水晶板に——新しい波形が浮かんだ。
ミラの手が止まった。
「……何、これ」
低い声が漏れた。驚きというより——困惑だった。
「ケイス。——この波形、見てくれる?」
ケイスが壁から離れ、水晶板を覗き込んだ。長い沈黙の後——顎を引いた。
「……見たことがないな」
「でしょうね」
ミラが術式ノートを広げて、ケイスの前に並べた。
「バルの魔力の外側の層は——人間の魔力に近い反応をする。これは今まで通り。ずっとアルトの傍にいて、人の魔力に馴染んだ部分だから、当然。でも——その下の層。エイルの残滓が刻まれていた部分は、妖精族に近い波長を持ってる」
「勇者は——妖精と人間のハーフだった。妥当な結果だ」
「そう。ここまでは、わかるの。問題はその下。——バルの一番奥」
ミラが水晶板の波形を指差した。
「人間でも、妖精族でもない。——魔族にも似てない。どこにも属さない。完全に未知の波形よ」
沈黙が落ちた。
アルトが壁際から身を乗り出した。バルは——黙っていた。黙っていること自体が、バルらしくなかった。普段なら「それがどうした」とか「だから何だ」とか、悔し紛れに反応するはずだ。それがない。
「これが——バルの『本体』ってことか」
ケイスが低い声で言った。
「勇者の核と魔王の核の漏れから生まれた人格——その存在基盤が、既存の魔力体系に属さないということは。理屈としては筋が通る。二つの異なる核の干渉から自然発生した存在は、どちらの分類にも収まらない」
『——わかりやすく言ってくれねぇか』
バルが口を挟んだ。声は軽かったが——いつもの勢いはなかった。
ミラが、少しだけ間を置いて、言った。
「バル。あんたの本質は——人間でも、妖精でも、魔族でもない。この世界の魔法体系のどこにも、あんたと同じ存在は記録されていない。……だから」
ミラの声が——僅かに詰まった。
「だから——直し方も、この世界の知識の中には、まだ見つかっていない」
バルが——長い沈黙の後、小さく震えた。
『……そうか』
たった一言だった。悔し紛れも、悪態も、軽口もない。バルが——「どこにも属さない」と言われたことを、そのまま飲み込んだ。アルトの傍で人の魔力に馴染み、エイルの核とルーナの核を抱えて生きてきた。その全部が自分だと思っていた。でも——一番奥の、「バル」としての自分は、どこにも属さない。
それは——孤独という言葉よりも、もっと根の深い——存在の不安定さだった。
* * *
午後。ミラは一人で術式ノートと格闘していた。
計測結果を何度も読み返し、波形パターンを分解し、組み換え、再構成して——何か手がかりがないかを探っている。水晶板をケイスに返し、代わりにケイスから古い文献の写本を幾つか借りた。妖精族が遠い昔に記録した魔力体系の基礎理論。文字は古い妖精文字で、読むだけでも骨が折れる。ケイスに意味を確認しながら、一行ずつ——だがバルの波形に一致するものは、見つからなかった。
「人間の魔力修復術は試したか」
ケイスが一度だけ訊いた。
「理論上は適用できる。でも——外側の層にしか効かない。人間の魔力に反応する部分は治せるかもしれないけど、その下の層にはまるで届かないの。外壁だけ塗り直しても、柱が腐ってたら意味がない」
「妖精の治癒術は」
「中間層には効く可能性がある。でも——一番奥には、やっぱり届かない。そして問題は、一番奥が崩れているから全体が崩壊しているということ。表面を繕っても根本が保たない」
ケイスは——短く頷いて、それ以上何も言わなかった。答えを持っていないからだ。妖精族の知識を持つケイスでも。
「反応する、と、同じである、は違う」
ミラが自分に言い聞かせるように呟いた。ペンを止めて、天井を見上げた。
バルの外側の層は人間の魔力に「反応する」。中間層は妖精族の波長に「反応する」。でも——「同じ」ではない。反応するだけで。どの分類にも完全には一致しない。既存の治療法は、「同じ種族の魔力構造を前提に修復する」仕組みだ。前提が成り立たないバルには——使えない。
助ける手段が——むしろ遠のいたように感じた。人間の魔法でも、妖精族の術でも、直せないかもしれない。既存の体系の外にある存在を、既存の体系で直すことはできるのか。
——でも。
ミラは歯を食いしばった。
できないと決まったわけじゃない。理屈が足りないだけだ。理屈が足りないなら——作ればいい。新しい理屈を。乱れた魔力環境でも使える制御法を作った時と同じように。既存の枠に答えがないなら——枠の外を見るしかない。
ペンを握り直した。ノートの新しいページを開いた。
——仮説。バルの核が「どこにも属さない」なら、逆に「どこにも干渉される余地がある」はずだ。属さないことは、排除されることとは違う。境界にいる存在は、境界の全てに触れている。
まだ、何もわからない。でも手は止めない。
* * *
夕方。ミラが術式ノートを閉じた時——目の下に隈ができていた。
アルトが水と干し肉を持ってきた。
「ミラさん。少し休んだ方が——」
「大丈夫よ。まだ考えたいことがあるの」
「……でも」
「大丈夫だって言ってるでしょ」
ミラの声は強かった。だが——手が微かに震えていた。焦りではない。集中しすぎた疲れだ。
アルトは——それ以上言わなかった。水と食料を置いて、静かに離れた。
ノートを膝の上に開いた。自分のノートに——今日のミラの報告を書いた。
——バルの本質はどの種族にも属さない。既存の魔法体系では対処法不明。ミラが仮説を立て始めている。
事実だけを書いた。感情は書かなかった。
だが——ペンを置いた時。右手が震えていた。昨夜と同じ震えだ。飲み込んだ。いつものように。ノートを閉じて、背嚢の中にしまった。
夜になった。焚き火が燃えている。ユートが素振りを終えて戻ってきた。ミラはまだノートを見ている。バルは沈黙している。
穏やかな時間のはずだった。仲間がいて、寝る場所があって、明日もある。——だが、アルトの頭の中では時計が鳴り続けていた。バルの漏出は止まっていない。リアラはまだ囚われている。ルーナはまだ苦しんでいる。「どこにも属さない」——ミラの言葉が、ずっと頭の中で回っている。直し方が見つからないなら、バルの時間はさらに短くなる。
焦りを、飲み込んだ。笑顔を作った。「おやすみなさい」と言った。横になった。
アルトだけが——眠れずにいた。




