第97話:消えていく音
エイルが消えてから、半日が経った。
鍛冶場を出て、いつもの洞窟で休息を取った。地上ではもう日が沈んだ頃だろう——ここでは、炉の明滅と壁面の光がゆっくりと落ち着いていく時間が、夜の代わりだった。源流の近くは穏やかだが、外の世界の乱れは日に日に強くなっている。壁面の苔が発する淡い光と、焚き火の明かりだけが洞窟を照らしていた。
ユートは新しく繋がった剣を膝の上に横たえ、静かに目を閉じていた。疲労している——三日間ほぼ眠らずに剣と向き合い、その直後にエイルと対面した。体が限界に近い。ミラが「先に寝なさい」と言って、ユートは珍しく素直に従った。剣を抱いたまま、壁に背を預けて——すぐに寝息が聞こえ始めた。穏やかな寝顔だった。再鍛造を終えた安堵が、今はまだ全身を包んでいるのだろう。
ミラは焚き火の向こうで術式ノートを開いていた。エイルの表面化の際に記録した魔力波形のデータを整理している。杖の先端に微かな光を灯して、暗い洞窟の中でペンを走らせている。時折ユートの方を見て——寝ているのを確認して、また手元に戻る。ペンの動きは正確で、迷いがなかった。ミラは考え続けることで不安を処理するタイプだ。
アルトは焚き火の傍に座り、自分の観察ノートを開いていた。だがペンは走っていない。今日あったことを——整理しようとしている。ユートの再鍛造。エイルの表面化。バルの構造問題。全部が同時に動いて、頭の中が詰まっている。一つを考えると別の一つが割り込んでくる。中でも——エイルが最後にバルへ向けた視線が、離れない。
バルは——アルトの隣に置かれていた。いつもはアルトの背中に担がれているが、今は地面の上。焚き火の光が黄色い布地を照らしている。
沈黙していた。
いや——沈黙ではなかった。バルは起きている。起きているのに、黙っている。エイルが触れた後、一時的に澄んだ波形は——もう元に戻り始めていた。混線が戻ってきている。エイル寄りの静けさと、ルーナ寄りの冷えが、またバルの中に流れ込んできている。
だが——それだけではない。
もっと根本的な何かが——狂い始めている。
『——おい、ノロマ』
バルが口を開いた。声量はいつもの半分もなかった。
アルトがノートから顔を上げた。
「……バル。起きてたんだ」
『寝てねぇよ。寝た覚えは一度もねぇ。——ちょっと、二人きりで話せるか』
アルトは焚き火の向こうのミラを見た。ミラは術式ノートに没頭している——だが、耳は開いているかもしれない。
「……外、出ようか」
『ああ』
* * *
洞窟の入口、渓谷側の岩棚。世界の深部なのに——この場所は不思議と穏やかだ。岩壁の淡い光が呼吸のように明滅し、足元からは水の流れる音が、渓谷の奥からは魔力嵐の唸りが、遠雷のようにかすかに届いている。
アルトはバルを地面に下ろし、隣に座った。膝を抱えて。バルの黄色い布地が、闇の中で微かに光っている——いや、光っているのではない。漏れているのだ。中の魔力が。布地の繊維の隙間から、微細な粒子が散っている。
アルトには——それが、見えていた。
「バル。——前から聞きたかったんだけど」
『知ってるよ。聞きてぇことなんざ一つだろ』
「……うん」
『俺が——どのくらいヤバいか、だろ』
アルトは何も言わなかった。否定も肯定もしなかった。ただ——バルの布地から漏れている粒子を、静かに見つめていた。
バルが——長い沈黙の後、言った。
『——中身が、保てなくなってきてる』
声は低かった。いつもの横暴さも、軽口の勢いもない。バルがこんな声を出すことを、アルトはほとんど知らない。あの日——ディアルに貫かれて、沈黙する直前の声。あれ以来だ。
『エイルの核とルーナの核が抜かれてから——俺の中は空洞だ。空洞でも、器さえしっかりしてりゃ、まだ動ける。自分の人格は残ってるし、意識もある。——だが、器そのものが壊れてきてんだ』
「……壊れてる」
『核が二つあること前提で、この体はできてた。二本の柱で屋根を支えてたようなもんだ。柱を二本とも引っこ抜かれて——屋根が、ゆっくり落ちてきてる。今はまだ、自分の力で押さえてるけどよ。——限界がある』
バルの声が——掠れた。
『どういう感じかってのは——言葉にしづれぇんだが。指先から少しずつ砂が落ちてくみたいなもんだ。自分の中にあったはずの何かが、どこからか抜けていく。止めようとしても、隙間が多すぎて全部は塞げねぇ。寝てる間も漏れてる。喋ってる間も漏れてる。——気づいた時には、もう結構減ってた』
『エイルが触れた時——一瞬だけ、柱が戻った感覚があった。俺の中が澄んで、混線が収まって——久しぶりに、自分が自分だってはっきり感じられた。でも——もう消えたよ。戻ってきてる。混線も。崩壊も』
「……どのくらい、持つ」
『わからねぇ。日数で言えるもんじゃない。——ただ、漏れる速度は上がってる。最初は気づかない程度だったのが、今は——お前にも見えてるだろ』
アルトは——見えていた。布地の隙間から散る粒子。前は気のせいだと思っていた。でも日に日に量が増えている。目を逸らしていただけだ。
『隠してたわけじゃねぇよ。——いや、嘘だ。隠してた。お前に余計な荷物を背負わせたくなかったからな』
「バル——」
『黙って聞け。——俺は、消えるかもしれねぇ。嫌だけどよ。嫌だけど——現実だ。エイルも言ってたろ。勇者の知識じゃ直せないって』
バルの声が——震えた。一瞬だけ。すぐに持ち直したが——その一瞬の震えを、アルトは聞き逃さなかった。
「でも——あいつは、方法がないとは言ってなかった」
アルトが言った。静かに。だが——確信を持って。
「エイルさんは、『別のやり方がある』と言った。勇者の知識にはないけど——他の方法が、あるかもしれないと」
『かもしれない、だろ。希望的観測じゃねぇか』
「それでも——ゼロじゃない」
アルトの声は震えなかった。表面上は。だが——膝を抱える手が、強く握り締められていた。指が白くなるほど。
「僕が——見つける」
『おい——』
「器の直し方を。バルをバルのまま在らせる方法を。——絶対に見つける」
『ノロマ。お前——』
「約束する。僕は——バルを失わない。二度目は、ない」
声は低かった。静かだった。だが——その静かさの中に、折れない何かがあった。
河原で目覚めた朝を覚えている。バルが沈黙して、ユートがいなくて、ミラもいなくて。世界に一人だけ残された、あの朝。あの時の自分は何もできなかった。前の日にあれだけ泣いたのに——もう、泣くことすらできなかった。ただ——バルの布地を握りしめて、動けなくなった。
二年間、毎晩バルに話しかけ続けた。「また明日な」と言い続けた。返事がなくても。何も感じなくても。
あの孤独を——もう一度味わうくらいなら。
バルは——しばらく黙っていた。
水の音が聞こえた。岩壁の光が、ゆっくりと明滅していた。世界の深部で、一人と一つだけが、洞窟の外にいた。地の底から緩い風が吹いた。バルの布地が微かに揺れて——また粒子が散った。アルトはそれを見ないふりをした。
『……お前は、いつも勝手だな』
バルが言った。声は——かすれていたが、少しだけ、いつもの調子が戻っていた。
『勝手に拾って。勝手に名前つけて。勝手に旅に連れ出して。——で、今度は勝手に助けるってか』
「そうだよ」
『……はっ』
笑い——にはならなかった。でも、悪態の形をした、不器用な承認だった。
『——じゃあ勝手にしろよ。ノロマ。俺は——お前が見つけるまで、勝手に待ってやる』
「うん」
『ただし——』
バルの声が、少しだけ低くなった。
『無理して壊れんなよ。お前が壊れたら——誰が俺を助けんだ。ちゃんと寝ろ。ちゃんと食え。——俺が、許す』
アルトは——少しだけ、笑った。
「バルに心配されるなんて、どうしたの」
『うるせぇ。心配なんかしてねぇよ、べつに。——投資だ。投資。お前が潰れたら回収できなくなんだろ』
「はいはい」
軽い言い合い。いつものテンポ。——だが、二人の間にある空気はいつもより重かった。軽口の裏に、言えない言葉がいくつも沈んでいた。
* * *
洞窟に戻ると、ミラがまだ術式ノートと向き合っていた。
だが——アルトが近づいた時。ミラが顔を上げて、真っ直ぐにアルトを見た。
「……聞こえてたわけじゃないわよ。ただ——バルの魔力波形、さっきから記録してたの。エイルが触れた後の変化を追ってたんだけど」
ミラの目が——鋭かった。研究者の目。
「構造の崩壊速度。混線の再発パターン。エイルの補助が持続した時間。——全部、データとして取ってある」
「ミラさん——」
「バルの器を直す方法が、勇者の知識になかったって言うなら。——私が、見つけるわよ。魔法使いの理屈で」
ミラが術式ノートを閉じた。目に——炎があった。ユートの再鍛造を見守っていた時とは違う、自分自身が動く側に立った目。
「明日から——バルの魔力解析を本格的に始める。妖精族の知見も借りる。ケイスにも協力してもらう。——この世界の魔法体系の中に、答えが一つもないなんてこと、あり得ないわ」
バルが——小さく震えた。
『……勝手だな、お前も』
「うるさいわね。勝手にされるのが嫌なら、自分で直してみなさいよ」
『できるんならやってるっつーの』
いつもの口喧嘩の形。でも——バルの声に、少しだけ力が戻っていた。
アルトは——その二人のやり取りを聞きながら、焚き火の前に座り直した。ノートを開いた。今度はペンを取った。
書いた。
——バルの器の崩壊。保持構造の破損。漏出速度の増加。エイルの補助は一時的。根本解決はまだ見つかっていない。
事実だけを書いた。感情は書かなかった。
右手が——微かに震えていた。ペンを持つ手が。だがアルトは、その震えを押し込めて、最後まで書き切った。
焦りは——飲み込んだ。いつものように。完璧に。




