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『ノロマ、死ぬなよ』〜毒舌カバンと最弱少年の英雄譚〜  作者: 塩とわかめ
第三章:壊れた空と、取り戻すための戦い
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第96話:勇者の残したもの

 バルの声が鍛冶場に反響した。


『——エイル』


 その名を聞いて、ケイスが加工台の横で身構えかけた——が、すぐに動きを止めた。剣から立ち上がる光の粒子を見つめ、低く呟く。


「——殺気がない。これは……剣の中に、残っていたものだ」


 炉の炎が、咎めるどころか——歓迎するように、穏やかに揺れていた。


 光の粒子が——ゆっくりと形を取り始めた。

 剣の金色と銀色の境目から、一本の線が空気中に伸びる。その線が枝分かれし、広がり、人の輪郭のようなものを描いていく。淡い金色の光。実体はない。触れれば消えてしまいそうなほど儚い。だが——そこに、確かに意志がある。


 輪郭が固まった。


 長い黒髪を後ろで束ねた、若い男の姿。穏やかな目。背は高いが——威圧感はない。どちらかといえば、優しすぎて頼りない印象すら受ける。

 エイル。勇者と呼ばれた男。かつてこの炉の前に立ち、この剣を打った男。


 ケイスが——音もなく、その場に片膝をついた。会ったことはない。だが、炉とともに語り継がれてきた剣士が、目の前にいる。鍛冶師として、それ以外の応え方を知らなかった。


 ユートの手が凍りついたように剣を握ったまま動かなかった。——この姿を知っている。首筋の紋様を通じて流れ込んできた記憶の中に、何度も見た。だが、こうして目の前に現れるのは——


「……エイル」


「——久しぶりだね。ユート」


 声が聞こえた。音ではなかった。空気の振動ではなく、意志が直接届く感覚。だが——温かかった。穏やかで、少し申し訳なさそうで、どこか不器用な温度。


「……お前、どうして」


「剣が繋がったから——少しだけ、出てこられた。本当に少しだけ。長くはいられない」


 エイルの輪郭が揺らいだ。光の粒子が端からほどけかける。——本当に、時間がないのだ。


「——座っていいかな。立ったまま話すのは苦手で」


 座る場所もない空間で、エイルは加工台の縁に腰かける仕草をした。実体がないから引っかかりもしないはずだが——光の輪郭は、ちゃんとそこに留まった。


 アルトは壁際から一歩も動けなかった。ミラも。二人とも、この人の姿を一度だけ見たことがある。あの岩棚の上で——世界のすべてを語り、自分の命を溶かして、ユートの中へ消えていった。

 今また会えるとは、思っていなかった。


 * * *


「まず——謝らないと」


 エイルが言った。ユートではなく——全員に向かって。


「色々なものを、勝手に背負わせてしまった。ユートには体を。アルトくんにはバルを。ミラさんには、仲間を失う痛みを。——全部、私がもっとうまくやれていれば、起きなかったことだ」


「エイル。それは——」


「いいんです。謝りたいのは本当だから。——でも、謝るために出てきたわけじゃない」


 エイルの目がユートを見た。穏やかで——だが、真剣だった。


「ユート。——さっき、見ていたよ。お前が剣に心を通したところ」


「……」


「正直に言うと——私は、お前を心配していた。ずっと」


 ユートの手が、剣の柄の上で微かに握り直された。


「私の記憶が——お前の中に流れ込んでしまった。私のやり方、私の感覚、私の迷いのなさ。それが——お前を縛っているんじゃないかと。お前自身の答えを、邪魔しているんじゃないかと」


「……正解だよ。邪魔されてた」


 ユートが苦笑した。初めて——エイルの前で、素直に弱さを見せた。


「お前の記憶を見るたびに、完璧だったから。お前みたいにやらなきゃって。お前みたいに迷わず剣を握らなきゃって。——それが全部、間違ってた」


「迷いがなかったわけじゃないよ」


 エイルが静かに言った。


「私も——怖かった。ルーナと向き合うのが。幼馴染に剣を向けなきゃいけないかもしれないと思った時は、何日も眠れなかった。それでも迷いがなく見えたのは——たぶん、他に方法がなかっただけだ。迷う余裕がなかった。だから綺麗に見えただけで——中身は、必死だった」


 エイルの半透明の手が、自分の膝の上に置かれた。


「お前は違う。お前には仲間がいて——迷う余裕があった。迷えたこと自体が、お前の強さだよ。あの頃の私には、それがなかった」


 ユートは——しばらく黙っていた。エイルの言葉が胸の中でゆっくりと広がっていくのを、待っていた。


「……お前は、ルーナを。本当は——どうしたかったんだ」


 聞くべきか迷った問いを、ユートは投げた。


 エイルの表情が——初めて、崩れた。穏やかさの裏にあった痛みが、一瞬だけ表に出た。


「——救いたかった。殺したくなかった。封印だって——本当は、したくなかった」


 声が震えた。過ぎた日の後悔が、まだ生きている。


「でも——あの時の私には、他の方法が見つからなかった。封印して、いつか誰かがもっといい方法を見つけてくれることを祈るしかなかった。——結局、自分では何も解決できなかったんだ」


「……」


「だから——お前たちに期待している、なんて偉そうなことは言えない。私が投げ出したものを、拾ってくれとは言えない。でも——」


 エイルがユートを見た。目が潤んでいた。光でできた体なのに——涙のようなものが、確かにあった。


「お前がさっき言ったこと。『あの子を助けたいのは俺だ』って。——あの言葉は、私がずっと聞きたかった言葉だった」


 ユートの喉が詰まった。


「ルーナを——ルーナとして見てくれている人がいる。魔王じゃなく。脅威でもなく。月を見て笑った女の子として——助けたいと思ってくれる人がいる。——それだけで、私は」


 エイルの声が途切れた。言葉にならない。長く積もった孤独と後悔が——一瞬だけ、表面に浮かんで消えた。


 ユートが——立ち上がった。剣を台に置いて。エイルの前に立った。


「エイル。——俺は、お前の代わりにやるんじゃない」


「うん」


「お前ができなかったことを引き継ぐんでもない。——俺は、俺の理由で行く。あの子の笑顔をもう一回見たいから。それだけだ」


「——それでいい。それが、一番いい」


 エイルが笑った。穏やかで——寂しくて——でも安堵した笑み。二度目の、同じ笑み。あの日、消えていく間際に見せた——あの表情。


「ここからは——俺がやる。お前は、もう背負わなくていい」


「……ありがとう。ユート」


 * * *


 エイルの輪郭がさらに薄くなった。時間が——残り少ない。


 アルトが——壁際から、一歩だけ前に出た。


「エイルさん」


「——アルトくん」


 エイルの目が、アルトを見た。穏やかで——どこか懐かしそうな目。


「……君は強くなったね。前に会った時よりも、ずっと」


「いえ——まだ全然です」


「そんなことはないよ。さっき——ユートに問いかけたのは君だろう。『誰のために剣を握るんですか』って。あの問いがなかったら、ユートはまだ迷っていたかもしれない。——君の強さは、剣じゃない。言葉だ」


 アルトは何も言えなかった。褒められている——のに、胸の奥がざわついた。自分の強さが言葉だと言ってもらえるのは嬉しいはずなのに——今は、もっと速く動ける力のほうが欲しかった。そんなことは、言えないけれど。


 エイルの視線が——ミラに向いた。


「ミラさん。——ユートを支えてくれて、ありがとう」


「……別に。あんたにお礼を言われるためにやったんじゃないわよ」


 ミラの声は強がっていた。でも——目は赤かった。


「でも——一つだけ聞いていい? あんた、ルーナのことが好きだったの?」


 エイルが、少しだけ困った顔をした。


「——幼馴染だったから。好きとか嫌いとかじゃなく——いなくなったら困る人、だった。それ以上の言葉は——私には、見つけられなかった」


「……不器用ね」


「よく言われます」


 ミラが——少しだけ、笑った。泣きそうな笑顔だったが——笑った。


 * * *


 エイルの光が、さらに薄くなっていく。輪郭の端が粒子に戻って散り始めている。


 ——だが。

 消える直前に。


 エイルの視線が——動いた。ユートでもアルトでもミラでもなく。


 アルトの背中にある、黄色い布地——バルへ。


 エイルの表情が変わった。穏やかさが消え——代わりに、鋭い何かが走った。


「——バル」


 名を呼んだ。声ではなく、意志で。直接バルに向けて。


 バルが——強く震えた。


『……うるせぇよ。今さら出てきやがって』


 かすれた声。悪態。いつものバルだ。——だが、その悪態の裏に、動揺があった。


 エイルは——バルを見たまま、目を細めた。悲しみではない。もっと深い——理解と、後悔と、そして警戒が混ざった目。


「バル。——お前の中に、何か起きている」


『……知ってるよ。漏れてんだろ。中の魔力が。こっちはもう散々わかってんだ』


「違う。漏れているだけじゃない。——構造が、壊れかけている」


 バルの震えが——止まった。一瞬だけ。


「私の核も、ルーナの核も抜かれた。残ったのはお前自身だけだ。でも——お前が生まれた時の器は、二つの核を前提にして構成されていた。芯がなくなった器が——自重で、潰れ始めている」


『……知ってるっつってんだろ』


「知っていても——止められない。私にも。今の私の力では——一時的に構造を押さえることはできるが、根本的に直すことはできない」


 エイルが手を伸ばした。光でできた指先が——バルの布地に触れた。


 バルが——ぴくりと震え、そして——微かに、力が抜けた。


 混線していた波形が——一瞬だけ、澄んだ。エイル寄りの静けさでも、ルーナ寄りの冷えでもなく——本来のバルに近い波に戻った。久しぶりに。


『……あ』


 バルの声が——素になった。一瞬だけ、虚勢も悪態もない、むき出しの声。


「——ごめん。私ができるのは、ここまでだ」


 エイルの手が離れた。


「この先は——私には、できない。バルの器を根本から直す方法は、勇者の知識にはなかった。私が持っていた力では、届かない場所だ」


 エイルの目が——アルトに向いた。最後の視線。


「——でも。方法が、ないわけじゃないと思う。私にはできなかったけれど——別のやり方が、きっとある。バルが、バルのまま在れる方法が」


 光が——散り始めた。


 エイルの輪郭が粒子に戻り、空気の中に溶けていく。加工台の上の剣が——金色と銀色の境目から、最後の光を静かに放った。


「ユート。みんな。——頼んだよ」


 穏やかな声。最後の最後まで、偉そうにも、悲壮にもならなかった。


 光が消えた。


 鍛冶場に——静寂が戻った。炉の炎だけが、いつも通りに燃えている。


 * * *


 誰も、しばらく動けなかった。


 最初に口を開いたのは——バルだった。


『……あいつ。最後の最後まで、勝手なことしやがる』


 声はかすれていた。悪態のつもりだろう——だが、声の奥に、震えが残っていた。


 エイルが触れた瞬間の、あの澄んだ波形。久しぶりに「本来のバル」に戻れた感触。——それが、もう薄れ始めている。エイルの補助は一時的なものだ。根本は何も変わっていない。


 バルは——それを、誰よりもはっきりと自覚していた。


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