水床島の秘密
洞窟の外は海と空がただ広がるばかりだった。
雲一つ無い空はどこまでも淡く、風が静かに吹き抜けていた。
海からの風は四人の少年たちのほほをなで、髪を軽くかき上げる。
ああ、この開放感。僕がこの世に生まれ、お母さんのおなかから出てきた時もこんな感じ
だったのかな。それまでいた洞窟のようなおなかから出てこんな開放感を味わったのかな。
ヤスノリは胸いっぱいに岩屋の外の空気を吸い込んでみる。
視界をさえぎるものは何もなく、岬の先端にあたる目の前の海はよく見るとサンゴの群生が沖に向かって形成されているのだった。
「わあっ、サンゴだ。何てことだ。この島にはサンゴがあったんだ……」
「ここにこれがあるのを知っているのは俺たちだけかな?」
「父さんは知っているかもしれない。あのオルゴールをさっきの場所に置いた時に、ここまで出て来たかもしれないから。それから岩屋の入口に小屋が建てられる前に行者の魂に会いに来た人たちなんかも、もしかしたら……」
浅瀬のサンゴはまるで水の中の巨大な友禅流しの反物のようにはるか沖へと続いていた。
ヤスノリは、ふと遊び心で目の前に広がるサンゴの光景を白黒写真で撮影したとして、そのネガを頭の中で反転させてみることにした。
するとそれは昨夜、自分の部屋から見た夜の海に映る月の光の帯と見事に重なった。
「あれっ! そうだ! ほら、いつも僕らが唱えてるあの呪文のことだけどさ、あの『お月
さん……』って、実はあれ、ここにサンゴがあるという暗号だったんじゃないのかな。この風景を白黒写真で撮ったとして、頭の中で明暗反転させてみろよ。サンゴがまるで夜の海に映る月みたいに見えるだろう? だから、あの呪文の『お月さん』って、サンゴのことなんだよ、きっと。だとしたら、『お月さん いつも桜色』って、桜色、つまり桃色サンゴがこの先の海に眠っているってことを、伝えようとしてるんじゃないのかな」
「お月さん」が「サンゴ」で、その「サンゴ」が「桜色」。
それらの言葉は突然、魔法のように意味を帯び始め、目の前の海を指さしていたヤスノリは、言葉を切ってミツアキを見た。
「ちょっと待てよ。この呪文を最初に考えたやつがいた時代って、まだ写真なんて無かっただろ?」
もっと落ち着いて考えて見ろよ、と言いたげにミツアキは言ったが、ヤスノリには確信めいたものがあった。
「ああ、多分無かっただろうな。でも、先生は図工の時間に、レオナルド・ダ・ヴィンチは左右反転させた鏡文字を書いていた、と言ってただろう? 鏡文字って、結構、子供にはよくあることだ、って……。ダ・ヴィンチは文字だけじゃなくて、図なんかも鏡文字で描いていた、とも言っていた。だったらさ、この海を例えば墨絵かなんかで描いて、左右対称じゃなくて明暗反転にしたら暗号にできる、と考えたやつが、昔、この島にいたとしてもおかしく
ないんじゃないのかな? お前がその時の村の長老だったら、ここにあるサンゴのことは荒らされてほしくないから、暗号か何かにして、後の世にそれとなく伝えよう、って思うだろう?」
ヤスノリは言葉を続けた。
「まあ、桃色サンゴはここみたいな浅瀬じゃなくて、ずっと沖の深い海底に生息する、って聞いている。この浅瀬にふつうのサンゴがあるってことは、この先の深い海の底には桜色の『お月さん』が眠っているんだ、きっと……。岬の先端の海へは舟も網も入れるのが禁じられて来たのも納得だよ。『はばかりや』って、そういう意味だったんだ……。大人の秘め事に首を
突っ込むな、って意味なんかじゃなくって、いつも桜色に輝いているサンゴがあるけど採るな、って意味だったんだよ」
ヤスノリの言葉に、ミツアキはしばらく考えていたが、やがて言った。
「でもさ、俺たちの学校には、漁師の家のやつらが何人かいたけど、あいつら、ここにサンゴがあるとかって、話したことなんかなかったぜ。いくら岬の先っぽでの漁が禁止されてても、どうしてだめなのか、その理由くらい代々伝え聞いてるはずだろう?」
たしかにそうかもしれない、とヤスノリは思った。
「お月さん」が「サンゴ」のことだ、というのは単なる僕の思い込みにすぎないのかもしれない。けど、これほどあの意味不明な「呪文」の謎を明解に語るものはない……。
ヤスノリはねばった。
「多分、この暗号を唄にして残した村の長老か誰かは、皆にはサンゴがあるってことは言わな
かったんだろうよ。岬の先っぽ周辺の海は行者の頭に当たるから舟で近づくな。たたりがあるぞ、とかなんとか、こけおどしなことを言ってさ……。まだ民衆が科学的な知識など持ち合わせていなかった時代だから、そんな言葉でも十分効果があったんだろうよ。だってさ、明治や大正時代どころか、昭和の中頃まで、キツネやタヌキが人を化かす、って本当に信じられ
てたって、いつか先生が言ってただろ? あれはたしか国語の時間、宮沢賢治の「雪渡り」が話題に上った時だったよな……。話を元にもどすけど、ここにサンゴがあることに気づいた連中も口外しなかったんだろうな。自分の子や孫にも……。島の結束は固い。岬が荒らされてしまうより、ここにサンゴがあるということが忘れ去られてしまう方を
望んだんだよ、きっと……」
ふだん何気なく使っていたあの呪文には、こんな意味があったのか……。
そう思うとヤスノリの胸に、まるで炭酸水の弾ける泡のような爽快感が湧き上がって来るのだった。
目の前のサンゴの海の先の水平線は巨大な円弧を描いていた。洞窟の中の浜から見た時には切り取られた線分で文字通り水平だったのに。
これも地球が創り出した風景の一部なんだ……。
そう思いながらヤスノリは顔を上げ、はるか宇宙へと続いているはずの虚空を見た。どこまでもどこまでも淡い空だった。
さっきからはだしの足の裏で波が引くたびに砂が動いている。
四人の少年たちは波間にゆららぐ炎をいつまでも見ていた。
目の前の海を流し灯籠は着実に進んでいる。
「行け、行くんだ」
皆、口々に叫んでいたが、驚いたことに一番大きな声を出していたのは、ふだん無口なマサルだった。
ひざの下で波が寄せては返す。
気がつけばヤスノリは目の前の海に向かってマサルに負けないくらいの大声で叫んでいだ。
「行ってくれ、ずっと向こうまで」
そう叫んだ時、遠くでチャイムが鳴った。役場の三時を告げるチャイムだった。




