行者の岩屋
木々の道が終わると、天狐森神社の鳥居が迎えてくれた。近くでミソサザイの声がする。鳥居の向こうの両側は、桜の木立と石の灯籠がそろって並んでいる。
ああ、あの時に感じた不思議ななつかしさはここのことだったんだ……。
ヤスノリは今朝、村の小学校へと続く桜並木を見た時に覚えた感覚を思い出した。
鳥居の脇に自転車を停め、天狐森の木立に囲まれた境内にヤスノリたちは立つ。
参道を歩いてゆくと、本殿とその横に粗末な小屋が見えた。
ああ、この小屋、覚えている。
一年生の時の遠足のおぼろげな記憶がよみがえってくる。
ヒロシが小屋の引き戸に近寄ってゆく。すぐ後にマサルも続く。
小屋の前に立ってよく見ると、引き戸と柱の間にはほんのわずかにすき間があり、誰かが戸を開けようとしたことを物語っていた。
あの時のままだ。
ヤスノリはさらに近づいてみた。引戸の錠は戸に付けられた本体から鎌が下りて柱側の受座に引っ掛かってつなぎ止める型のものだったが、よく見ると戸と柱の薄いすき間には鎌は下りていなかった。
「おい、この戸、鍵なんか掛かってないぜ」
ヤスノリが指差して言うと、皆、すき間に顔を近寄せる。
「やっぱりあの遠足の時、この戸を開けようとした奴も、このことに気がついたんだ」
「でも、どうして鍵が掛かっていないんだろう? 神主さんは亡くなる前、安全のことを考えて、岩屋の入口をこの小屋を建ててふさいだんじゃなかったのか?」
ミツアキの問いに、辺りには誰もいないはずなのに、ヤスノリは声を潜めて言った。
「密輸団か何かが合鍵を作ってこの戸を開けて、ここをアジトにして……」
「そんなわけないだろ! それにこの島じゃあ、そんな奴らがいたらすぐにわかる。最近、怪しいのを見たなんて話、親父はしてなかったがなあ」
ミツアキの言う通りだった。この島でよそからの不審者を見かけたという噂は、今も昔も聞いたことがなかったし、コンビニさえもないようなここにはそのようなことをする者などいなかった。
「神主が鍵を掛け忘れたのかもしれない」
今度はヤスノリが、まさか、と言う番だった。
「あの神主さんは用心のいい人だった、って聞いてるけど」
「いずれにしてもこのままじゃ、らちが明かないぜ」
ミツアキの言葉にヤスノリは思った。
もしもそんな不良の一団がやって来て、掛かっていたはずのこの戸の鍵を開けて中に
入ったとしても、最後はきちんと閉めなおすだろう。そういう悪事を働く奴らは、きっと用心深いに違いないから……。伏魔殿にしては不用心すぎる……。
「まあ、ともかく中に入ろうや」
ヤスノリはめぐらせていた思いから現実に戻った。
ヒロシが小屋の引き戸に手を掛けて振り返る。
「兄ちゃん、開けてもいい?」
ミツアキが、やれよ、と言うと、ヒロシは戸をけんめいに引っぱった。
この引き戸の向こうって、どうなっているんだろう?
後ろで見守っていたヤスノリとマサルも二、三歩前へ出る。
ヒロシの手に引っぱられて戸は動く。
いいぞ、もっと引っぱれ。
ヤスノリは幼い日の遠足を再び思い出した。
あの時、できなかった続きが、今、目の前でされようとしているんだと思うと、胸が少しざわついた。
ついに小屋の戸が開け放たれた。
「やった!」
ヒロシが目を輝かせる。
四人の少年たちは、未知の空間の中に入って行った。
この粗末な小屋には窓がなかった。少年たちは、中が真っ暗にならないように、戸は完全に閉めずに少しだけ開けておくことにした。ミツアキはリュックを下ろすとかがみ込み、
マッチとロウソクを取り出して、わずかに開いた戸口の、外の明るさが作り出す床の上の光の帯をたよりに火を点けた。
火の灯されたロウソク立てが順々に回される。まずヤスノリに、次にヒロシに、そして最後にミツアキ自身がロウソク立てを手にした。
ミツアキが、マサル、お前はヒロシにくっついてろ、と言う。
三つの小さな炎が闇に向かって差し出されると、空間は辛子色に浮かび上がった。一番奥に地下へ下りる階段が見える。少年たちの呼吸による微かな空気の流れで、ロウソクの炎がゆれると照らし出された空間もゆらぐ。
ヤスノリたちは闇の中をカンをたよりに階段を下りることにした。一足ごとに足元がふわりと下がって行く感じだ。わりあいと幅の広い階段をヤスノリとミツアキが先頭で、すぐ後にヒロシとマサルが続いて下りてゆく。
短い階段が終わると洞窟の入口が待っていた。入口は普通の家の玄関の戸くらいの大きさだ。ロウソクは燃え続けている。酸素はあるようだ。洞窟は奥へ奥へ下がっていて、ヤスノリたちを誘っているかのようだった。
今まで経験した事のない世界へ踏み込む。ここから先が本当の意味での冒険の始まり
だった。
洞窟の入口の前で、少年たちは円陣を組んだ。
三銃士、と叫んで、ヒロシは厳粛な儀式を執り行うかのように、ロウソク立てを剣に見立てて、ゆっくりと慎重に火を消さないように差し出すと、足す一、と言って、左手で横にいたマサルの肩を引き寄せ、ほら、お前もだよ、とロウソク立てを持っていない、とまどったままのマサルにささやくように言う。ヤスノリとミツアキも、おう、と笑いながら、左手を腰に当て、右手のロウソク立てを差し出し、三人でアニメ「剣を交えて三銃士」の中の「剣を交える」姿勢を取った。
差し出された反動で微かにゆらぐロウソクの炎の創り出す光と影は、少年たちの神妙な顔つきを浮かび上がらせている。
マサルは闇の中で高く掲げられた三つの炎を黙って見上げていた。
ここでまたもや呪文が唱えられた。
はばかりや はばかりや
お月さん いつも桜色
行者様をしのんでか
呪文を唱え終えると、四人の少年たちは洞窟への最初の一歩を踏み出した。
ひんやりとした空気を鼻に感じながら、石ころで歩きにくい洞窟の道を下り始める。
「足元に気をつけろよ。これが本当の『一寸先は闇』だ」
ミツアキが緊張をやわらげるために冗談を言ってみせる。
洞窟の道は、所々でゆるく曲がりながら下へ下へと続いていた。
ミツアキが時々二人の弟を振り返る。ヤスノリも振り返ってみる。
ロウソクを持ったヒロシにマサルがぴったりとくっついている。ロウソクは相変わらず燃え続けている。
ヤスノリは立ち止って、服のポケットに忍ばせておいた方位磁石を取り出した。ロウソクの火にかざして見ると、磁石の針は、今度は四人の後ろを指している。
「大丈夫だ。この道、南に下りていってるよ。つまり岬の先に向かってるってわけだ」
ヤスノリが言うと、微かにゆれるロウソクの明かりの中で他の三人の顔に安心したような表情が浮かぶのだった。
さっき、伏魔殿にしては不用心すぎる、と思ったが、それでもまだこの闇のどこかに悪人が潜んでいて、こちらを窺っているのではないかという思いが、まだ微かにヤスノリの頭の中に
残っている。
ヤスノリは片手で持ったロウソク立てに気をつけながら、もう片方の手をポケットの中に入れて持ち塩に触れた。
「兄ちゃん、なんか聞こえない?」
後ろにいたマサルの声がした。
耳を澄ますと、微かにため息のような音が聞こえてきた。やがてため息は途切れ、短い沈黙がほの暗い空間を支配した後、また、聞こえだした。
ヤスノリはポケットの「持ち塩」を握りしめた。
ロウソクの炎がゆらぐと、少年たちの顔にも陰影がゆらぐ。背後には闇が控えている。
「持ち塩」を握りしめたヤスノリの手から伝わってくる、天然塩特有の胸のすくような浄化の力が、ヤスノリの気持ちを落ち着かせ冷静にものを考える力を与えた。
ため息が再び途切れた時、ヤスノリはその音の間隔が規則的だったことに気がついた。
「わかった。あれは波の音だよ。洞窟の中だからくぐもって、あんなふうにため息みたいに聞こえるんだ。多分、この先のどこかで岩に穴が開いて外の海とつながっている所があるはずだ」
なるほど、という表情がロウソクの明かりの中で、他の少年たちの顔にも浮かぶのが見て取れた。
だけど、なぜ、規則正しい音が、水の音だと気がついたんだろう?
ヤスノリは、ふと思った。
「行こう」
四人の少年たちはしばらく立ち止まっていたが、ミツアキがうながすように言って、また先頭を歩き出す。
ロウソクは闇を押し返すように灯り続けている。目はもうすっかり闇に慣れていて、辛子色のほの暗い空間の中でミツアキの白っぽい服が妙に浮かび上がって見えるのだった。
闇の中で、行く手が段々と白み始め、ため息のように聞こえていた音が、波のそれとはっきりわかるほどになってきた。狭かった道幅もぐんと広がり、石ころで歩きにくかった足元も砂地になりだした。
皆、もう待ち切れなかった。振り向くとヒロシが持っていた、残りがもうあとわずかに
なってしまっているロウソクに、マサルが口を近づけて吹き消そうとしているのが見えた。
「マサル。吹いちゃだめだ。手であおいで消せ」
ヤスノリにつられて後ろを振り返ったミツアキがさとすように言う。
ミツアキのやつも、うんとちっちゃい頃、そんなことしてミチおばさんに叱られたんだろうな……。
ヤスノリは自分も同じように、仏壇のロウソクを吹き消そうとして、母に叱られたことがあるのを思い出して、おかしくなった。
兄に言われた通り、マサルはロウソクの火を手であおいだ。
とたんに独特の匂いが立ち込める。立ち込めた匂いは、やがて宙に散って行く。
火を消すと、少年たちは誰からともなく、光の方へ駆け出した。
ヤスノリたちがたどって来た道の果てには波が静かに打ち寄せていた。外からの浸食で太平洋に向かって岩に大きな穴が開き、洞窟の中で浜ができ上がっていたのだ。浜の向こうに
ぽっかりと開いた穴からは海と空しか見えず、それらははるか彼方で水平線を造っていた。
上を見ると、洞窟の天井は高く、がらんとした空間が広がっている。
結局、悪漢なんていなかった……。
ヤスノリは少し拍子抜けした気分になった。
少年たちは浜に腰を下ろした。
「これでもするか」
ミツアキがリュックからトランプを取り出して見せる。
四人の少年たちは、たちまちトランプモードになった。
手始めは七並べだ。何回か七並べで遊ぶと、次はババ抜き、さらに神経衰弱と、少年たちは次々にメニューを変えてゆく。
やがてトランプにも飽きたので、四人は食事を取ることにした。
ヤスノリはリュックから梅の果肉が少し入った番茶の水筒と、全員のための紙コップを取り出した。ミツアキもリュックからおかきを取り出した後、大きな手で弟たちに注がれた梅番茶の紙コップを渡す。
ミツアキがヤスノリに、おつかれ、まあ、食えよ、とおかきの袋を差し出す。その後、ヒロシとマサルにもおかきを勧めた。ほら、食べなよ、と言うと、ヒロシがさっと手を伸ばしておかきを二つ取り、一つをマサルに渡す。
手にした紙コップの、ほんのりとした梅の風味の番茶が胃に流れ落ちてゆくと、疲れた体の細胞も一つ、又、一つとよみがえってくるのだった。
浜に寄せては返す波の音が響いている。
そういえば、担任だった河上先生が、洞窟などで時計を使わずに過ぎ去ってゆく時間を計る方法を尋ねたことがあった。
脈を使います、と誰かが答えた。
その通り。では、他に何か方法はありませんか、と先生が聞くと。教室は静まってし
まった。ヤスノリも考えに詰まって隣のミツアキを見た。
ミツアキはほおづえをついたままこちらを見たが、その顔ははっきりと語っていた。
俺にもわからないよ。
やがてハナがそれまで頭の中で浮かんでいた考えを整理したかのように手を挙げて立ち上がると答えた。
「まず、よく耳を澄ませ、したたり落ちる水などの規則正しい音がないか調べます。音が
見つかったら、その音と音の間隔がどれくらいの秒数なのか、見当をつけます。あとは水が何回したたったかを数え、それを間隔の秒数に掛ければ、過ぎ去った時間がわかります」
「みごとです」
先生の言葉とヤスノリの思いは重なった。
波はあいかわらず浜に寄せては返している。
ああ、そうか。洞窟の入口で、ため息のように聞こえていたこの波の音。それを規則正しい水の音だとわかったのは、ハナのこの受け答えを、心のどこかで思い出していたからなんだ。でも、やっぱりハナって頭いいな。神戸へ行ったんじゃなきゃ、この冒険に誘ってもよかったくらいだ……。
この浜へ来る途中、最初はため息のように聞こえていた波の音。それが今では、まるで生命の息づかいのようにヤスノリには聞こえるのだった。
洞窟の中で、波は変わることなく規則正しく寄せては返している。静謐な時空の中で、生命の息吹のようなその音は、未来へと時を刻んでゆく。
私たちヒトは、生まれる時には、まず母親のおなか、つまり生命を育む子宮と呼ばれるものの中で羊水という液体に守られながら大きくなってゆきますが、実はこの羊水と言うのは、ほとんど海の水と同じ成分なのです。このことも私たちを含め生命が海から生まれてきたことと何か関係があるのかもしれませんね。
いつか先生が話してくれたことを、ヤスノリは思い出した。
僕が生まれて来た時もこんなふうだったのかな。洞窟のようなお母さんのおなかの中で、海のような羊水に包まれながら大きくなっていったのかな。
ヤスノリが思いをめぐらせていると、突然、ヒロシの声がした。
「何だ、これ?」
見ると手に乳児用の枕ほどの大きさの木の箱を持って立っている。
「お前、これ、どこで見つけたんだ?」
「あそこだよ。あの行者様の後ろ」
立ち上がりながら聞いたミツアキに、ヒロシは洞窟の岩肌の下の小さな行者の石像を指差す。
ヒロシが手にしている木の箱の蓋には何かが彫刻されているようだったが、よく見るとそれはここライオン岬の風景だった。
ヤスノリは前に母から、小学生だった父が卒業記念に蓋にライオン岬の風景を彫刻したオルゴールを作った、という話を聞いたことがあった。
「おい、これって父さんが子供の頃、図工で作ったっていうオルゴールだぜ、きっと……」
そう言ったヤスノリにミツアキが答えた。
「開けてみようか」
ヒロシからニスを塗った蜂蜜色の木の箱を受け取るとヤスノリは蓋を開けた。中には古ぼけた小さなオルゴールの機械が取り付けられているのが見えたが、音は鳴らなかった。
ゼンマイを巻いてみるか。
箱の横のゼンマイを巻いてみようとしたが、すでに巻かれた状態で動かず、オルゴールが壊れてしまっていることを物語っていた。
蓋を開けられたオルゴールの中には色あせていない紙が一枚折られて入れられていた。紙は海からの光でほのかに明るい洞窟の中で奇妙な白さを放っている。
折られた紙を取り出してみる。広げると何か文のようなものが書かれていた。鉛筆書きの長めの文だった。ヤスノリは洞窟の岩肌のとあるくぼみにオルゴールを置くと、海からの光を頼りに声に出して読んでみた。
「ついにやった。ゆうべ、俺は夜の海を泳ぎ切ったんだ。泳いでいる時、月の光を浴びてまるで銀の魚になったみたいだった」
ここでひとまず区切り、他の三人の反応を見る。皆、真顔だ。ヤスノリは続けた。
「トシコもゴールの極楽浜で待っていてくれた。次に会ったら必ず言おう。つき合ってくれ、と。今まで言えなかったけれど。
今日、天狐森神社の神主さんと父さんが俺をここまで連れて来てくれた。神主さんの話では、この岩屋の入口は安全のため、二、三日後にはもう、本土から業者を呼んで、小屋を建ててふさぐのだという。小屋が出来たら村の衆には戸には鍵を掛けたと伝えるが、実際には鍵など掛けないでおくことにするという。誰かがこの岩屋に宿る行者の魂に会いに来るのを止める権利は無いからだそうだ。
月夜の遠泳は俺にとって冒険だった。そして遂にやった。泳ぎ切ったんだ。成し遂げた者にしかわからない達成感を、俺は今、この手紙に刻印して母さんが好きだった『庭の千草』の鳴るこのオルゴールの中に入れておく。もし開かないと思われているはずの扉を開けてみようとする、そんな冒険心を持った奴がいてここまでたどり着いたのなら、この手紙を読まれても構わない」
少年だった父が昔、行われていた島の行事の「月夜の遠泳」に挑んでビリながらも夜の海を泳ぎ切ったことがあったが、そのこととヤスノリの母親の名前である「トシコ」は、この置手紙の主をはっきりと語っていた。
「父さんだ」
「ユーイチおじさんだよな」
ヤスノリとミツアキは顔を見合わせながら言った。
「必ず言おう。つき合ってくれ」、って、あんがい慎重なところのある父さんにしては大変な度胸だ。
ヤスノリはそう思いながら父親が書いた手紙をさっき岩肌のくぼみに置いたオルゴールの中に戻した。
「なあ、偶然とはいえ、父さんの本当の気持ちって、知ってはいけなかったんじゃなかったのかな。ここまでたどり着いた奴にはこの手紙を読まれても構わない、って書いあったけど、
やっぱり知らなかった方が良かったんじゃないのかな、こういうことって。だったら、このことは僕らだけの秘密にしておこうな」
他の三人もうなずく。
「だけど、やっぱり変だよな、『銀の魚になったようだ』、って」
ヤスノリは、そんな歯の浮くようなことが言えるものなのかな、普通、と思った。
「まあ、夜の海は昼間見るのとは違って独特だからな。そんな海を月に照らされながら泳いで行けば、きっと……」
「ああ、そうか。夜の海を泳いで行くのって、それだけでも勇気が要ったんだろうな」
そう言った後、ヤスノリはしばらく無言のままだったが、やがて何かに気づいたかのように言った。
「なあ、ミツアキ。『魚』ってさ、制限のない水の中を自由に泳いでいるから、自分で勝手に決めてしまった制限、つまり限界も超えて行けるんだよな?」
ヤスノリが言うと、ミツアキは笑った。ヤスノリもつられて笑った。
ヒロシとマサルは何がおかしいのかわからないままでいたが、ミツアキは二人の弟の肩に手を置き、お前たちもいつかわかるさ、と言うのだった。
ミツアキは、ちょっと待ってくれ、と言って、リュックから今朝、一番最後に詰めた古新聞を取り出した。
「何だよ、それ」
「写経だよ、般若心経の。おふくろのやつ、脳のトレーニングとやらで、最近始めたんだ。だいぶん溜まったから、一枚失敬して天狐森神社のどこかに納めようって思ってたんだ。
ちょうどよかった。この中に入れておこう」
ミツアキは古新聞を広げると、中から折りたたまれた一枚の写経を取り出して
オルゴールの中に入れた。
ミツアキは古新聞をたたみなおそうとしたが、その時、新聞の間から、何か白いものがひらりと足元の砂浜の上に舞い落ちた。
何だ、これ?
ヤスノリが拾い上げたのは、一通の年賀状だった。
「謹賀新年 あけまして おめでとうございます」と決まり文句が大きく書かれていて、その左の隅には、「いつも前向きなあなたを見ていると、生きているという気がします」、と添えられている。賀状を裏返してみると、中央に、「寺野 光秋様」と書かれ、差出人は「増田ハナ」となっていた。ヤスノリにはハナからの年賀状は来ていなかった。
「あっ」
ふいに戯れてきたヒロシに気を取られていたミツアキは我に返ると、ヤスノリの手から年賀状を奪い返した。
無言となっていた空間に、波の音だけが響いた。
しばらく続いた沈黙を最初に破ったのはミツアキだった。
「俺さ、正月にハナから年賀状をもらったんだ……。今までずっとお守り代わりにしてて、今日もこの冒険のために持って来たんだ」
ヤスノリが黙り込んだままなので、ミツアキは、ハナから賀状をもらったのは自分だけだと悟った様子だった。
「すまん、ヤスノリ……」
そういうことか。そう言えば、ハナは以前からミツアキを見ていたような気がする……。
「で、ハナとはこれだけだったのか?」
やっとの思いでヤスノリは言った。
「これだけって?」
「年賀状が来ただけなのか?」
「ああ」
「ほかに、ハナの神戸の住所とか、新しい電話番号とかは聞かなかったのか?」
「いや、知らない。本当にこれだけ。年賀状をもらっただけなんだ」
それでもミツアキはハナに受け入れられたんだよな……。
ヤスノリは、胸の内で取りとめもなく散らばって行きそうな気持を懸命に抑えた。
そうか、そういうことか。つまり、ハナは僕よりもミツアキを選んだんだ……。
暫くすると、感じられるのは空虚感のみとなったが、不思議と嫉妬心は起きなかった。ただ頭の中を風が通り抜けてゆくような感覚だけが残った。
ヤスノリは、お守り代わりに持って来ていた「持ち塩」をポケットから取り出し、半紙を開いた。
「何だ、それ。その白い粉みたいなの……。麻薬かよ?」
ミツアキが場の重苦しさを打ち破ろうとふざけて言う。
ばか、とヤスノリは笑った。
さすが警官の息子は言うことがちがうな、と言ってやろうかと思ったがこう続けた。
「塩だよ、この島の海の水で作った……」
何か守ってもらえたと思った時には半紙を解いて、中の塩を土や海に撒くのよ。もとの自然に帰してあげるの。
いつか母に教えてもらった言葉がよみがえってくる。
ヤスノリはてのひらに載せた「島の塩」を、ほら里帰りだと言って、洞窟の中で静かに寄せては返す波に撒いた。
今までヤスノリを無事に守ってここまで導く役目を終えた、この島の海の水で作られた塩は持ち主の手をはなれ、生まれ故郷のもとの自然へ帰って行った。
ミツアキは何も言わずに薄く平べったい石を拾うと、上半身を低くし手が海面と同じ高さになるくらいのアンダースローで投げた。放たれた石は大きく開いた洞窟の穴の外の太平洋に向かって何段も海面を切りながら飛んで行った。
ヤスノリやヒロシやマサルも解き放たれたように石を拾っては海に投げる。ヤスノリも投げたがミツアキほど上手くは飛ばなかった。ヒロシとマサルは波が寄せてくる時に投げたのでうまく水切りができなかった。
「もっとよく見ろ。波が引き終わる直前をねらうんだ」
ミツアキが笑いながら弟たちにコツを教える。
やがて水切りに必要な薄く平べったい石は見当たらなくなってしまい、後はまた沈黙の時が流れた。
最初に沈黙を破ったのはミツアキだった。
「いいことを思いついた」
と言って、ヒロシとマサルが飲み干した後、砂の上に逆さに伏せておいた二つの紙コップをさっと重ねると、リュックから予備に持って来た少し長めのロウソクを取り出して火を点けた。
コップの底にロウを垂らして固まらない内にロウソクをくっつけ、その上から砂を少し詰める。
「何を作るの?」
「流し灯籠さ。これを海に浮かべようと思ってな……」
「へえ、すごいや。でも底に砂を詰めるわけは?」
「こうしないと水の上ではすぐ傾くからね。砂は重しだよ」
ミツアキは流し灯籠を、静かに寄せる波に浮かべた。
墨汁のように滑らかな水の上にゆらぐロウソクの炎。
まるで小さなビワの実みたいだ……。
波は向こうへ大きく引くことはなかったので、流し灯籠は少し進んでは何度も浜にもどされそうになり、その度に、行け、行くんだ、と口々に少年たちは叫んでいた。
とうとうミツアキが靴を脱いでズボンの裾をまくり上げると、浅い海に入った。灯籠を大きな手でつかみ、ひざまで水に浸かりながら洞窟の外まで持って行く。ミツアキが水音を立てて速く歩いたので、灯籠の火は消えそうになった。今度はゆっくり歩きながらもう片方の手でロウソクの火をそっと囲む。
流し灯籠は外の海に浮かべられて少しずつ左の方へ動き出した。灯籠は流れに乗ったのだ。
「行け。海のずっと向こうまで」
ミツアキが叫ぶ。
流し灯籠はそのまま東に進み、洞窟の陰に隠れそうになった。灯籠の後を追うように浜に
残っていたヤスノリたちも靴を脱ぎ、ズボンをまくり上げると海に入りミツアキと
並んだ。亜熱帯性気候に近いこの島は真冬でも海水温は十六度を下回らず、春の海の水は立ち込んだ足の肌に柔らかかった。




